2

 清らかなベッドに、カーテンで遮られていた柔かい陽射しがさらっと入り込む。きらきらと空気中の塵がきらめくのと一緒にシーツに控えめに散らばる細い金糸も輝く。
 無表情で佇むラグナの眼下には、部屋を出る前とはほぼ変わらぬジンが、ぐっすりと眠っていた。
 違うのは、伸ばされていた身体がまるで母胎の赤子のように両膝を曲げ、顔を隠すように又は守るように手の甲が顔にそえられている。見ようによっては、手のぬくもりを一番感じやすい場所に置く事によって暗い水底に沈む意識の唯一の拠り所にしているようにも見えた。
 感情の乏しい顔でラグナはジンを見下ろしているが、内心では強い焦りや疑心で煩悶していた。
 ジンがここから消えていたら。――消えていれば。
 “ジンはラグナを信用していない事になる。”
 どうせと投げやりな思いでラグナの言葉を信じず、早急に人の気配が濃いこの場から立ち去る。人嫌いのジンなら迷わず選ぶであろう選択だ。
 彼らしくはあるが、四六時中自分の後をついて回っていた弟の姿を時が経った今も鮮明に覚えているラグナには複雑な心境だった。
 もうあの頃のような愛着は失せてしまわれたのかと、他人からは自分勝手かもしれないがそう思ってしまう。
 疎んでしまう時もあったが、その行動は自分が何よりも愛されているという表現に間違いはなかった。
 愛情、尊敬、憧憬、それらの好意は全て心地好く、幼いながらにそれがいいものだとラグナは把握していた。
 当たり前のように捧げられていた好意がその熱を失って灰塵と化してしまうのは、いつも満たされている空気が失われるような感覚に似ていると思えた。
 しかし、あの愛執が今も濃くジンの中に残っているままでも駄目だとラグナは解っていた。
 一人の、成人してゆく大人として、ジンは一人で立つ力強さを持っていかねばならない。
 “誰か”と歩むなら、“自分”とはいつまでもいられない。
 だからとジンが自分に執着を見せるのは心苦しい。けれども、頼ってほしいと、縋ってほしいと兄として振る舞いたい自分もいるのだから、もうラグナ本人はどうしていいのか解らない。
 何が最善なのか人に教えを乞いたい程にラグナの心境はぐちゃぐちゃになって右往左往していた。
 しかし無表情のラグナは本能的に何をすればいいかと動作は既に選んでいた。
 何も持っていない左の手。すいと空を切ると、ジンの伏せ気味の額に触れる。事務的に、一時間前の自分が覚えている体温とを比べようとする。
 前髪を押し退け熱を計ろうとするが、生きた気配をさせずに眠っていたジンは他人の感触に気付いたのか途端に「ん……」という僅かな反応と同時に息を吹き返した。
 閉じている目蓋にぎゅっと力が込められ、睡眠の邪魔が入ったのを嫌がっているように唇が引き伸ばされる。それでも意識は額に触れたものの姿を改めようと目蓋を開けるよう命令する。
 ふるりと睫毛が震えて、目を開ける。眠たげな緑の瞳が昼間の陽射しに目が眩みそうになってまともに目に映す事が出来ない。
 薄く開けては閉じるを数回繰り返し、痛みが和らいだ頃に暗がりになっている所を見つける。
 不自然な影を視線で辿りぼやける視界が徐々に明瞭化していく中、前にあるのが人の輪郭で、更に黒に身を包んだ男性のものだと気付き目を剥いた。
 次いで、ラグナの存在に気付いたジンは病人とは思えぬ素早い動作でばさっと掛布が跳ねる音がする程に勢いよく身体を起こし、けれどきょとんと理解が行き届いてない頭で、ベッドの傍らに立つラグナを見上げた。
「に…ぃ…さん……?」
 目の前にラグナがいるのが信じれないジンは警戒するようにまじまじと見据えるが、ばくばくと痛い程に脈打つ心臓の鼓動が現実のものだと訴えかけてくる。
 次に目を覚ましたら幻影のようにラグナの姿は消え失せていたと思っていただけに、傍らに彼がいたのは充分に不意打ちだった。
「……間抜け面してんじゃねえよ」
 状況が呑み込めていないジンに痺れを切らしてラグナはぶっきらぼうな口調でそう言い、ジンに向けて手に持っている各々を放った。流石に投げた物を手で取らせるつもりはないので呆けているジンの手前に落ちるくらいに留める。
 水の入ったペットボトルがぼすっと質量のある音を立て、次いで薬の入った紙袋が軽い音を立てて落ちる。紙袋を見てすぐにそれが薬だと気付き、そういえば飲んでいなかったとここにきてジンも思い至る。
「まだ一時間ちょいしか過ぎてねえから薬飲む分には間に合うだろ」
 飲めと顎で促すと、ジンはのろのろと紙袋に手を伸ばす。
「…………」
 手持ち無沙汰になって腕を組み、紙袋から薬を取り出そうとするジンをぼんやりと眺める。
 眠たげな、それでいて気怠げな顔や動きがジンの体調を示していて、ラグナは思ったままを口にした。
「……お前、馬鹿だよな」
 ラグナからの突然の罵りを受けるも特に怒る様子もなくジンは何だと顔を上げる。
 能天気なその様に、ほとほと呆れて思わず溜め息が一つ溢れた。
 瞳を細め、組んでいた腕を崩して腰に当てる。
「テメェの身も顧みねえで身体を酷使するからあんな風に無様に地面で伸びてんだよ」
 昔から頭が良い方だと思っていたが、どうにもジンは抑制出来るところとそうでないところの隆起が激しく、必要である我慢とそうでない忍耐があべこべになる事がある。
 今回も、悪い方に忍耐が働いて体調を崩しているのだが過去の経験から全く学習をしていないとラグナは呆れていた。
 ジンもうーんと小さく唸り、小さく笑った。
「だって、兄さんに会わなきゃいけないもん」
「俺を殺しにか?」
 うん、と微塵の躊躇いも遠慮もなくジンは首肯した。ラグナは面白くなさそうに眉を顰める。
「その為に、僕はここに来たんだから……」
 そう、軍を抜けてまでジンはラグナを優先した。
 今まで築き上げたものは所詮自身をしがらもうとする徒為なものでしかない。ジンにとっての至上は、『ラグナ』という存在が始まりで終わりだった。
 ラグナに触れる事で自身の狂気が駆り立てられ、結果、己が壊れていく。『ジン=キサラギ』は跡形もなく壊れて、ただの『ジン』へと成り下がる。それは、心地好い自身の崩壊だった。
 ずっと失われていた、ラグナを愛する自身への回顧。
 兄が死んだと思った時、一緒に死んだと思っていた弟たる己の黄泉帰り。『兄』が生き返るなら『弟』の己が蘇らずにして何が情愛だろうか。
 過去に抱いた高鳴りを心の臓から感じ、そうして歪んだ思惑のままに身体を衝き動かし、纏っていたものを全て放り捨ててこの地に舞い降りた。軍人として“権力”と“責任”があるが故に剥がせず引き摺っている枷をものともせずに。
 たとえ何者かに命を狙われる事になろうと、今までの経歴を無に帰そうとも、ラグナの存在を無視する事は出来ない。
 兄を救う為なら、何を犠牲にしてもいい。
 たとえそれで、誰かを殺す事になろうと、自分の命を懸ける事になろうとも。
 それら全てが唾棄すべき事だろうと、愚の骨頂でしかなかろうと、ジンには振り返る余地もなく、迷いはなかった。
 甘い撹拌にうっとりと目を細めるジンに不機嫌に鼻を鳴らしラグナは視線を明後日の方へ逸らした。
 ジンの考える事など根っこから理解出来ないのだから、ジンの浮かべる表情一つ一つの意味など解らない。それ故、不愉快な意味でしか捉えれないラグナには目に映すには根気が要った。
 ラグナが拒絶するようにジンから目を離した事で薬を飲む動きがゆったりと再開される。
 がさりと紙袋が鳴って薬が取り出され、僅かな指の力でフィルムを押して中の丸い錠剤を取り出す。極普通の仕草を一通り済ませてペットボトルを開けぬるい水を喉に流す。ごくんと水と一緒に飲み下した異物がずるずると喉を落ちていくのを実感しながら口を離し、また蓋をする。
 ふうっ、と一息つくと、飲み終えるのを待っていたかのようなタイミングでラグナが声をかけてきた。
「……一つ訊くぞ」
 少しだけ重さが含まれた声色。探るべく鋭い視線が再度向けられる。
「“それ”は『上の命令』か。それとも、『お前の意思』か」
 敵意を微塵も隠さない、身体の芯から底冷えするような鋭い視線。
 ラグナはジンが独断でここに赴いた事を知らない。けれどそれを教える義理はジンにはない。それどころか、必要もない。
 軍などラグナにも自分にも関係無いと割り切っている。
 ただ与えられた場所に留まっていただけ。いつだって一人になる事は出来た。けれど、賢い鳥は望んで鳥籠から逃げようとするのか? 答えは言わなくても解るだろう。
 しかし、飼われようとも生き物には本能が備わっている。その本能を刺激したのが、『ラグナ』というたったそれだけの事だった。
 もうあそこに留まる意味は無い。

 ――“あとは、翼を動かすだけだった”

「全て……僕の意思だよ。誰かのではない、僕の、僕だけの……」
 言われるがままの殺戮とは違う、己の内から生まれる純然たる殺意。清く、清く、ラグナだけを思っての殺意の愛情。
 この感情を、ただ愛しく思えた。
 言葉を紡ぎ終えて“にこり”、とジンは微笑う。
 絵本に描かれる妖精のようなあどけなさで、くすりと小さな唇が弧を描く。
 柔らかな陽射しを受けて輪郭が透けている所為で幻を見ているような儚さと、ふわり、ほわりと穏やかにぬくもりさえも感じさせる微笑みに狂気が宿っているなど微塵も思えなかった。
 けれど、その浮かべる笑みこそが狂気に満たされているものだとラグナは気付いていた。この都市で会ってから。
 記憶の中の小さな弟の笑顔に酷似していて、でもどこか違うその笑顔はラグナの心境を酷く揺さぶった。
 変わっていない。最後に別たれたあの時から何も。
 壊れてしまった泣き虫な弟。
 己の所為で壊れてしまった、哀れな弟。
 身体は大きくなり、豊富に知識を積んでいても、心だけは成長していなかった。
 そう思うと、“あの時”からジンは取り残されたままに思えて、早くそこから連れ出さねばと手を引きたくなる。


 

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