1


「――ラグナ」
 扉をくぐった瞬間、早足気味でライチがラグナへと歩み寄ってくる。
 呼びかけに何だと目で答えるとライチはジンの容態をまず気にかけてきた。医者であり、優しさを胸いっぱいに包容しているライチだからこその気遣いである。
「ああ、あいつなら飯も食ったし、さっさと寝ついたよ」
 トレイに乗っている空になった器を見えやすいよう傾けライチに言うと、そうと嬉しそうに頷いた。
 しかし薬を用意するのを忘れていた事も思い出し、面倒臭げにラグナはそれについても言っておく。
「けど薬飲ますの忘れたから後でくんねえか。一時間後に一回起こしてから飲まそうと思ってんだけど」
「あらそうなの。わかったわ。じゃあ持って行っておくわね」
「いや、いいよ。俺が渡しとくから適当にテーブルの見えるとこにでも置いといてくれねえか」
 ライチからの有難い申し出だが、ラグナ以外が顔を出せばすぐに不機嫌になりそうだし、それに寝つく前にちゃんといるという感じに言ってしまった体裁もあって、人任せにするのは忍ばれなかった。
 ラグナのつま先が台所の方へ向くと、どちらからともなく移動を始める。どちらも通路で立ち往生をする気はないので自然と足が動く。
 トレイに乗っている食器がカチャカチャと小さく鳴る音だけが聞こえていたが、突然ライチがくすくすと楽しそうに笑い出す。
 いきなり笑い出したので何だよとラグナは薄気味悪そうにライチを見下ろすと、彼女はごめんなさいと一言先に断った。
「あなたが、思っていた以上に面倒見がいいのに驚いちゃってね。意外だなあって、つい思っちゃったの」
 仕事があるだろうと進んでジンの看病を請け負ったり、ついでだとライチも含めた食事も作ってくれたりと、手間を負ってくれる。面倒臭いと言いながらちきんと面倒を見ていく様はジンの言う“兄さん”気質そのものである。
 しかし、ライチは感謝しているのだが言われたラグナは全く有難くないようで、寧ろ馬鹿にされたような気分だった。“意外”という言葉がひどく気に障る。そんなもの、本人が一番解っているのだから言われるまでもない。
「なっ……、うっせえなあ! バカにしてんのか!!」
「そんな事ないわよ。こっちはそれで大助かりなんだから」
 指摘されたラグナはカッと威嚇するように怒るが、ラグナの剣幕に全く動じずライチは鈴を転がすように笑う。ジンの時でもそうだったが、怖じる事を知らぬようなライチの構えは難しく思う。
 すぐに泣くような気弱なタイプも扱いが難しいが、気の強すぎるタイプも別の面倒臭いところがあって、器用な立ち回りが苦手なラグナは接し方が試される。
 しかし、ライチの場合は怒る訳でもない、からかっていても馬鹿にしている訳でもない、茶目っ気のある人当たりの良い人格だ。少々お節介に感じられるところもあるが、それも優しさであるなら母親とはこういうものだろうかとラグナはそんな事を頭の片隅で思う。親という存在をいまいち把握出来ていないラグナには、想像でしかそのイメージを補えない。
 ただ、執着や関心が一切無いのでそれをいつまでも引き摺るほど感傷的な方ではないし、どちらかというとリアルに存在する方を優先する現実的な性格なので、気は既に時間と手元の空の器に目がいっていた。
「じゃあ薬はダイニングに持っていくから彼にお願いね。そのあと、私もお昼ご飯いただこうかしら」
 奥の私室へ続く角でライチは立ち止まってラグナに薬の件を伝える。
 まだ雑用があったのかとぼんやりと思っていたら、ぴょん、と頭から何か跳ねるのが見えてラグナは驚き危うく手元のトレイを落としてしまいそうになるが、それをおくびにも出さず、平静を装って物体の正体を目で追った。
 飛来していったのは、先程までラグナの髪を結っていたパンダのラオチュウだった。微動だにせず、特に重さも感じなかったのでラグナはすっかりその存在を忘れていた。
 ラオチュウが戻ってきてライチも笑顔で迎える。
「あら、ラオチュウ。ええ、わかってる。片付けをしたら一緒にご飯にしましょう」
 肩に乗る小さなパンダに楽しそうに微笑みかけて相槌を打つ。
 極普通の遣り取りに見えるが、ふとラグナは一つ気にかかった。

 “この姉ちゃんは、パンダと意思疎通が出来るのか……?”

 確かに白黒の目から何かしら意思は感じられるが、人間と人の言葉を話せぬ動物が互いを理解出来るとは到底思えない。自分の知っている人語を操る猫のようであれば可能だろうが、逆をいえばそうでなければ不可能だろうと。
 しかし、あの無表情に見える顔から彼女は何かしらの意図が拾えるというのなら、あの小動物の前では下手な事が言えないのでは、と思った。
 別に悪口雑言の趣味はないが、自分の独り言が他人に伝えられてしまう恐れがそこにあるならと、背筋に嫌なものが走る。
 無表情の筈のパンダが、にやり――といやらしい笑みを浮かべているように見えてきて、嫌な汗がじわりと滲んだ。


  *****


 最初の片付けを済ませ、手の空いた時間はライチの助手のリンファに扱き使われながら建物の補強なり修繕を請け負った。
 最近やたら騒がしい輩が出入りするから破損したり脆くなってしまった箇所があるとリンファが愚痴をこぼしている。
 尊敬する師を頼られるのは嬉しいが、迷惑をかけられるのは堪ったもんじゃないと立腹だった。
 それは大変だなといい加減な慰めを言うと、あんたも原因の一人だよと睨まれた。
 どうやらリンファも『図書館』が嫌いで、まさか二人も訪ねてくるなんてと息巻く勢いで言い募ってくるので、僅かな罪悪感と大半の面倒臭いという気持ちで平謝りを連発する羽目になった。
 自分だって統制機構は嫌いだし、まさか弟を拾うは、妹そっくりの女がやってくるなんて微塵にも思っていなかった。
 不運とは常に予想もしない方向からやってくるものだと言ちると、少女は本当にと大袈裟に頷いて同意をしてくれた。


  *****


 頼まれた雑用をあらかた片付け、ライチとリンファの食事が済んだ後に二度目の洗い物を終わらせる頃には、ジンに薬を飲ます予定の時間を少々超えるくらいになった。
 ライチに用意してもらった薬を持って水の入ったペットボトルを携え、ジンの眠る部屋に向かう。
 起きてやいないかと少しの不安を抱きながらも、部屋を見ると姿が見当たらないという展開も少しばかり期待をしてしまう。
 馴れ合いが出来るほど心の整理はついていないし、眠る前にジンの言った見送るのが辛いからという気持ちはラグナにもあった。
 幻のように消えていたなら引き摺るものもなく、次の邂逅は間違いなくただの“殺し合い”で納めれるのだから。
 そうして考えている内に、個人経営である診療所故にそう時間を費やさず目的の部屋の扉の前へ着く。
 そう古くない無機質な扉からでは中の様子が窺えなかった。解るのは、部屋の中で人の動く気配はなく、全くの無音である事。
 寝ているならその寝息の気配ぐらいある筈だがそれすらも感じさせない静けさ。
 いないのかと、がっかりしたような、喜んでいるような、難しい気持ちになる。
 しん――と寂しい程に音の無い世界に取り残された感覚に薬の入ってる紙袋ががさりと音を生む。
 それでも、中を見なければ解らない。確認をする為に、ここに来た訳でもあるのだから。
 意を決するように想像を振り払ってドアの取っ手に手をかける。
 誰でも開けれるようスライド式になっているこの扉は、軽く手を引けば簡単に開くようになっている。
 だが気分が乗らない所為か、手袋越しでもあるのに金属の取っ手からひやりと冷気が放たれているような気がした。引こうとしても中々力が入らずドアがやたら重く感じる。
 部屋の隅にあるベッドがカーテンで遮られてるイメージが浮かぶ。その向こうのベッドを想像してみるが、ジンが眠る姿か、もぬけの殻になった白いシーツか、どちらも浮かばなかった。
「――――!!」
 うだうだ悩んでいる自分に気付いて、それに苛立ちが湧き、この程度でと自分に言い聞かせる訳でもないのにその嫌悪を噛み殺しドアの取っ手を力一杯引いた。
 ごろりと低い音を鳴らしてさっきまでの重さなど嘘のように軽く扉は動いた。
 瞬間、窓から射し込む明かりが部屋に現実感を取り戻させた。
 薄ら昏い廊下にも薄陽のように柔らかい光が含まれて、空気中の埃がきらきらと光る。
 重かった空気は光で浄化されたように肺の中もすっきりさせて、幾らかの気持ちを軽くした。
 さてと気持ちを切り替え、ベッドへと歩み寄る。
 カーテンに隠れた、仕切りの向こう。
 ここまで近くに来たのに未だ気配を感じない。しかし窓を見る限りでは1ミリも隙間はなく、鍵もかけられたままだ。
 手品の類いでもなければ窓から出るのは無理だろう。あとは正当に扉を使って出るか、空間を転移して移動するかだけだ。
 普通の人間であるジンに後者はないとしても前者であれば当人はここにはいない。
 ふうと溜め息のように息を吐いてから吸い込むと、衣類に染み込んだ薬品の匂いが鼻先を掠めた。
 左手を挙げ、明かりを反射して空々しいまでに潔癖に白いカーテンの縁を掴む。
 室内を埋める光はあらゆる影を喰い尽くすように侵食しているが、僅かの遮蔽物を頼って小さく削られた影がひっそりと身をひそめ待機している。まるで夜を待つ自分のようだと皮肉めいた事を考えてしまった。逆に、追い詰めてくる光、色を掠れさせる白、それら全ては漠然とジンを連想させた。
 ジンが、ここにいるかいないか。その問答は繰り返し過ぎて、最早自分の為にどっちであるべきか解らなくなってきている。
 室内の明るさに似合わぬ沈黙が満ちる空間で、無音が煩い程に耳に刺さる。
 蝕むような耳障りな沈黙を打ち払うようにして左手を思い切り引いた。シャアッ、と小気味良い音を立ててなめらかにレールを滑りカーテンが端へ寄せられる。
 ふわりと舞ったカーテンの裾に一度視界を塞がれながら、波打つ白波が収まった頃にはベッドがはっきりとラグナに映り込んだ。


 

prev|next


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -