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ツバキの名を叫ぶジンの声も靴底に阻まれてくぐもりよく聞こえない。手足が激痛に蝕まれ動かせず、悔しさに歯を食い縛る事でしかツバキは意思を保てなかった。
しかしラグナの言葉に許し難い内容が含まれていて闘争心に豪と火をつけた。
「貴様こそ…何を以て姉上の、姉様の“兄”気取りだ……っ」
鉄製の靴底に擦れて肌が切れるのもおかまいなしにツバキは視線をラグナに移す。
地を舐めさせられる格好でありながら、尚も挑発的な言葉を投げるツバキの思考も真っ当な状態とは言い難かった。下手をすればこのまま頭を砕かれるかもしれないというのに。
だがラグナはそうせず、怪訝に眉間に深い皺を刻んだ。
「はあ? 俺が何だって……」
言おうとして気付いた。
ジンが引き取られた家は養子が多い。能力を追求するあまり、血などに拘らず個体値が示す数字を重視する一族。才能を生み出すのではなく、集めるという浅はかさを晒す哀れな一族。
ツバキは、その中の『義兄弟』の一人だとラグナを勘違いしているのを思い出した。
そうかと納得すると、この男がジンに好意を持っている事も思い出す。その恋慕がツバキへの殺意の原因でもあったが、ラグナは逆にそれを利用する方法を思いついた。
単純で、下劣な、人を絶望色に染めれる方法を。
「そういやあお前、ジンに惚れてんだっけなあ……」
ゆっくりと踏みつけていた頭から足を降ろすと、泣き縋っていたジンの腰を抱いて自分の身体に密着させる。
いきなり抱き寄せられ何事かと目を屡叩かせていたが、頬に手が添えられ上向かされる。
半狂乱で兄にしがみついていた所為でジンの前髪はぼさぼさに乱れて片目が隠れてしまっていて、きらびやかな金糸は台無しだ。
呆れ気味に髪を払って形だけは整えてやると、ジンの目にはっきりと映るさっきまでのは嘘のような慈愛に満ちた笑み。
兄さんと唇に乗せようとしたが、そんな呼びかけは紡がれる事もなくラグナの唇で塞がれた。
「――――なっ!!?」
唇を合わせられたジンも、それを見てしまったツバキも、動揺で目を見開いた。
キスなど、今までされた事がない。親代わりのシスターや、妹のサヤにはおやすみとたくさん頬に親愛のキスをしてきた事はあっても、兄のラグナにジンから頬へする事はあっても兄からされる事は一度となかった。
なかったのに、今は兄からの初めてのキスを、唇に与えられた。
動転して突き飛ばす事も出来ず、驚いた拍子に開いた口に舌が滑り込むのを許してしまう。
ぬらりと蠢くなまあたたかい舌で舌の表面を撫で、ざらりとこすり合わせる。逃げようと引っ込めれば奥まで追いかけられ吸いつかれる。
した事のない深いキスにジンは息も忘れラグナの胸を突っぱねようとするが後頭部に手を回され首を固定される。途端に合わせる角度を変えてジンの酸素を全て奪おうとするように唾を息を呑み尽くす。
息をつく余裕もない追い込みにジンの膝が崩れかけるが腰を抱かれて後ろに退ける事も出来ない。
ふるふると苦しげにラグナのジャケット襟を掴んでいた手が力尽きて胸を突いて滑っていくと、ようやくラグナは唇を放した。
「――げほっ、ごほっかはっ……」
急に酸素を吸い込んだ所為で溜まっていたどちらのものか解らない唾液が気管に入り咽せてしまうジン。身体が崩れてしまわないようラグナの胸で支えられながら咳き込むジンをラグナが愛おしげに背中を撫でる。
あまりの衝撃に茫然としていたがジンの咽せる音で我に戻り、折れんばかりに歯噛みし神聖たる存在を穢しにかかった男を射る。
「貴様ッ……!! 貴様貴様キサマァッ!!」
憤慨し言葉すら操れず許さないと怒号するツバキを、ラグナは到頭声を大にして嘲笑う。崩壊した廊下に響く歪に軋んだ白々しい笑い声。
憧憬を汚されたツバキには忌々しく、キスをされたジンには凶々しく聞こえた。
天井を仰ぎ高々しく嘲ていたラグナだが、一通り笑うとぴたりと笑いが収まり一瞬の停滞した硬直が流れる。
スイッチの切り替えのようにころころと変わるラグナの感情は常人が理解出来る範疇を超え、強かに暴走の途を往く。
両の腕でジンを包み、挑発的にツバキを見下す。
「わかったろ。ジンは誰のものでもねえ……“俺”のもんだ」
ジンの頭に鼻先を埋め、妖しく眼を細めるラグナ。
その冷たくも美しく澄まされた笑みが、人が嫌いだと全てを嘲笑するジンのものと酷似していて一瞬この思考が示す意味が解らずツバキの頭が真っ白になる。
前髪越しに額にキスをすると、行くぞとラグナはジンに促す。
どこへ行くというのか。何一つ説明のない言葉にジンは顔をのろりと挙げると白髪が眉間を撫で、まだ唾液で濡れている唇にキスを落とす。
また先のような官能的なキスかと知らず肩が跳ねたが、今度は合わせるだけの甘やかな口づけだった。角度を合わせ深くなるキスをラグナは施す。
苦しくないキスにジンは安堵する気持ちだったが、その刹那ずるりと何かが身体の中を這いずるようなおぞましい感覚に襲われた。
身の毛が弥立つ悪寒にびくびくと身体が痙攣するが構わずラグナは唇を離さず、離れないようジンを抱き竦めて動けなくさせる。
「ふぅっ……!?」
鼻から抜けるような息を吐きながら、身体から力が抜けていくのを自覚した。
痺れるような、血が抜かれるような、脱力感。
命そのものが奪われているかのようにだらりと腕が下がる。背筋も、足も、力を入れようとしてもひくひくと痙攣のように震えるだけで、ラグナに支えてもらわねば立てれない程の無気力感に襲われる。
崩れようとする身体の異変にまさかと思考を過らすが、もう遅い。ラグナの命を喰らう魔道書が、ジンの体力を奪い自由を奪った。
合わせていた唇を解くとくったりとしなだれる身体を横抱きにし、目蓋に口づける。
気を奪われたジンは目を開ける力も残っておらず、昏い眠りのいざないに晒されていた。
「にい…さ…ん……」
意識が闇に喰われる寸前、ラグナを呼ぶ。このまま意識を手離してはいけない。そう思って必死に手を伸ばそうとしたが指先がひくりと跳ねるだけで、それ以上の事は叶わなかった。
尚も縋ろうとしたが「寝てろ」と囁かれ、暗示がかかったようにジンの目蓋はもう震える事もせず、すう、と息を立て始めた。
さてと、とラグナがツバキを見下ろす。彼は傷口が開くのも構わず、血の抜けた手足を奮わせて立ち上がろうとしている。
目の前の侵入者がジンを連れて行こうとしてるのは、明らかだった。
ラグナは眠るジンを片手だけで支えると、地面に刺していたままの大剣を引き抜く。
血を纏う刃でツバキに留めをさすと思っていたが、ラグナは一度宙を切って慰め程度に血を払い、腰に提げた。
そしてまた両手でジンを抱え直すと、ツバキをじろじろ見下しながら傍らを歩く。
「本当なら、殺してる所だけどよ……」
頭から、足の先へ沿って歩く。ぴたりと立ち止まると、オッドアイが細く眇められた。
「アアッ!!?」
めきっと骨が軋む痛み。それは足首を中心に全身へ広がった。ラグナの靴底が無情に圧迫する。
「ジンがお前を殺すなって、泣いて頼むからな……」
めきめきっと、万力で締められるのとは比にならない痛みが全神経を灼きガクガクと身体が痙攣する。
中の筋肉の繊維が一つ一つ、細いものからぶちりぶちりと千切れていき出血を始める。今ブーツを脱げば、おぞましい程に足は青くなっているだろう。
ゆっくりと、ゆっくりと一点に体重をかけるラグナはくつくつと暗鬱な笑い声をもらす。
「殺しはしねえが、動かれても面倒だからな……。足、一本もらうぜ」
そう言ったラグナに、躊躇いはなかった。
――“ ”
聞きたくない音が響いて、ツバキは絶句した。だが、火を噴き猛り狂った熱が暴れ出し、叫ばないと気が狂ってしまいそうな激痛に襲われる。
「ァッ……、ああァァァあああああっ!!」
崩壊した通路に、今にも壊れてしまいそうな青年の絶叫が反響する。
引き攣る喉が痛みに喘ぎ、圧し殺せない涙が伝う。
身動ぎさえも取れない青年を確認すると満足げに笑み、ラグナはついと破壊した通路を戻る。自分が壊した正門がある方だ。
待てと叫びたかったが、足を砕かれた痛みがツバキの動きを封じる。
せめて手を伸ばすが遠ざかる赤い背中に、さらりと流れ揺れる青い衣とブロンドを止める事はついぞ出来なかった。
*****
粉々になった正門を潜ると、頬に涼しい風を感じた。
建物の中は血や死の臭いに満ちていて不快だったが、外へ出るとさっきまでの一切が洗われるようで清々しい。
人の返り血を浴びた秀麗な顔を腕の中で眠る妹に向け、微笑む。
奪い取るように浚った存在。
否、元よりこの存在は自分のものだった。返してもらった、が正しい。
きらきらと煌めく金の髪と若草のように蒼々しい瞳の少女に、血潮で烟る戦場は似合わない。
そう、こんな汚れた世界など清らかなジンには相応しくない。
そんな汚らしい世界に、自分の手が届かない場処にこんなにも愛くるしい存在を置いておくなど己の気が狂ってしまいそうになる。
「俺が守ってやる……。ずっと、この先も、一生……」
愛おしげにジンを見つめる瞳。
陽に照らされ輝く白銀に似合う緋翠は、確かな狂気を映して無邪気に微笑んだ。
《終》
――お前を 逃さない
オマエヲ ハナサナイ