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 表を歩かず路地裏を行くのが常のラグナは慣れた足取りで狭い通路を抜ける。
 時間としては遅めの昼食になるが、ふとこの都市にジンがいるのを思い出し、序でに様子見も兼ねて食事を共にしようかと思う。
 本人から聞いただけでも日頃まともな食事をしていない、妹の偏った食バランスは兄としても見逃し辛いものがあって、何とか改善せねばと思索するのだが中々光明は見えない。
 手っ取り早いのは一緒に食事をして、好みの違う料理が出てきてそれを強引にジンの器に取り分けるのが効果的だ。
 苦手な肉など強要され、要らないと泣きそうな顔で嫌がるのは大変心が痛むが、それでもジンの為を思って心を鬼にするしかないのだ。
 たとえ嫌われようと、この先のジンの健康を思えば……――。
「もう!! ラグナのバカぁっ!!」
 不意に聞こえた怒鳴り声にびくりと肩が跳ねてついすみませんと謝りそうになったが、自分は誰とも会話をしていないのでその必要はどう考えても無い。そも、罵倒される理由が無い。
 しかしさっきまで考えていた人物の声が聞こえて、しかも“自分の名前”を叫んでいたとなるとまさかと嫌な予感を振り切るように慌てて通路を抜けようとしたら、またジンの怒鳴る声が響く。
「またセクハラしてきてっ!! バカ! エッチ! 変態! 変態性欲!!」
「おいおい、略語からどんどん本来の言葉になってんぞ」
 顔を真っ赤にし、スカートのような着物の裾を押さえてジンは涙目でありながら眦を上げて目の前の男を睨む。
 ジンから罵倒されている男はラグナとそっくりの容姿をしているが、ラグナのオッドアイとは違い両目とも赤だ。それと無愛想なラグナとは違い常にへらっと何が楽しいのか解らない笑みを浮かべていた。
 瓜二つであるがラグナとは双子でも血の分けた身内でもなく、突如として現れた、本当に謎に包まれた存在だ。
 そんな“ラグナ”を、ジンは名前を使って呼び分けている。
「いいじゃねえかよ。減るもんじゃねえしさあ」
 悪意しかない手を伸ばすと小気味良い音を立ててそれをはたき落とすジン。ダメ、と目がこれでもかというくらい訴えている。
「駄目なものは駄目!! 兄さんと同じ顔だからってラグナでも許さないんだから!」
 怒りながらふんと外方を向き、ラグナを置いて行こうと歩みを進めようとするが、後ろにいるラグナがはためく羽織の裾を捲って着物の中を覗こうとするので甲高い悲鳴を上げて必死に裾を押さえて抵抗する。
「だから何してるのーッ!?」
「いや、今日のパンツは何色かと思って」
「黒ですっ! というか僕スーツ着てるから大概黒でしょ!!」
「いや、たまにはレースの可愛い白とかピンクとか……」
「バカーッ!!」
 裾を押さえていた格好から器用にジンは立ち回り、後ろに向けて鋭い回し蹴りを放った。
 手を離さなければ顔面に重い一撃を貰ってしまうラグナは「おおっと」と悠長に驚きながら海老反りに蹴りを躱し、そのまま体のバネを活かしてまた体勢を立て直す。
 ジンもそれ以上は追撃をせず、それどころかできた距離を埋めてしまわないよう後退り、毛を逆立てる猫のように威嚇をする。
 触れるのも許さないと態度に示され、そんなに嫌わなくてもいいじゃねえかと不貞腐れるラグナ。
 しつこくねだるラグナに到頭ジンの怒りも最高潮に達し、ダンッと力の限り地面を踏みつけ、高く掲げた人差し指をラグナに突きつけて高らかに宣言した。
「いい加減にしてよっ! 僕は“兄さん”のものなんだから!! 僕を好きにしていいのは、兄さんだけ!! “ラグナ”には何にもあげないよ!」
 公然で、しかも大きい声でとんでもない事を喚き散らしながらジンはなぜか偉そうに胸を張る。
 ジンの言明に、二人の間に風と一緒に沈黙が流れる。
 唖然と、豆鉄砲を喰らった鳩のように間の抜けた顔をしていたが、プッと唇から息のもれる音がして次いでラグナが顔を伏せてしまいこらえるように笑い出すと流石のジンも「うっ……」と頬を紅潮させてしまう。
「くっ…ふふっ……」
 腹と口元を押さえ、痙攣してるようにぴくぴくと広い肩を震わせるものだから、いい加減に恥ずかしくなってきたジンが自棄糞気味に肩を怒らせて怒鳴り散らす。
「と、とにかく! 僕も仕事中なんだからもうついてこないで! 来たら氷漬けにするからね!!」
 鋭い剣幕で脅し文句を捨てて、赤くなる顔を隠すように羽織を翻す。
 しつこく嫌がらせを繰り返していたラグナだが、今度は余計なちょっかいを出さず静かにジンの背中を見送る。
 目尻の涙を拭きながら込み上げる笑いが収まる頃に、くるりと首を捻る。
 視線の先には、路地にて猥雑な魔の手からジンを救おうと駆けつけようとしたラグナが固まっていた。
 さっきのジンの一言で出るタイミングを失ったのだろう。影がかかってて解り難いが、反応に困っている引き攣った顔が赤い。
 静まってきた笑いの衝動が蘇りそうだったが、無理矢理抑えつけてそちらへと態と音が鳴るよう足を引き摺るようにして歩を進めた。
 ジンは気付いていなかったが、ラグナは“彼”の存在に気付いてたようで、迷いなくラグナの元に辿り着くと首に腕を回してがっちりと肩を組んだ。
「よう、色男。見せつけてくれるねえ」
 がさっと体を引かれ、近付いた自分と同じ顔はくつくつと笑っていて、それがまたいけ好かない雰囲気を醸していて、虫酸が走る心地を鮮明に味わわせる。
 こうなる事を予測してこの男はジンにちょっかいを出していたのだろう。見世物のように自分達の反応が愉しまれているのは癪に障る。
「……ジンにちょっかい出してんじゃねえぞ」
 どすの利いた低い声で目の前のラグナに言う。
 ただでさえジンの周りをちらつく影があるのを気にしているのに、自分と同じ顔の男が妹に下卑た行為をしているのを正視するのは堪え難い。
 しかし、赤い瞳はくつくつと嗤い「お前が悪い」と責任を転嫁してきた。
 これぐらいで更生するとは思っていないが、得意の平謝りすらせずいきなり責任を押しつけられてラグナは怒りで裏返りそうな声で唸った。
 愉しそうに笑う男は首に回していた腕を更に寄せ距離を狭めると、ラグナの耳元に這いずるような囁きを落とす。
「本人がああ言ってんだから、手ぇ出してやりゃいいじゃねえか」
 肌の内を虫が這うような、または獣のざらついた舌に舐められたような怖気が走ってラグナは咄嗟に撥ね除けるように腕を振るった。
「おっと」と言いながら男が軽く後ろへ跳ぶ。
 同じでありながら自分とは違うオッドアイがあらゆる嫌悪を露にして己を睨んでいるのが愉しくて、口角がつり上がるのが抑えれない。神経を逆撫でると解っていながらつい「怒るなよ」と言ってしまう。
 勿論調子の良い言葉を受けてラグナは腰に提げてる大剣を抜く程に憤るのだが、男はそんな事をお構いなしにラグナの横をすり抜け肩を叩く。
 男にとってはステップを踏むような身軽さだったが、ラグナからすれば目の前にいた存在が気付けば自分の横を通り過ぎようとしていたのだから驚きを隠せず身構えようとする。
 だが男はコツン、コツン、とゆったりした歩調でラグナに背を向けたまま、右手を挙げてひらひらと左右に振る。
 そのまま立ち去ろうとしているが、不意に足を止め、肩越しに背後のラグナを振り返る。血のように紅い瞳が、ぬらりと妖しく光りながらラグナを射抜く。
「あーんま焦らしてると、――俺が先に喰うぞ?」
 “ラグナ”の象った悪戯っ子のような笑みは、普段作るものとは全く質が違っていた。
 悪意のある卑しい笑みではない透き通るような笑みで、嫌味が無い。それが彼の感情とは不釣り合いで、吐き気を催す。
 言葉の意味は解りやすいほどの煩悩を著しているが、それ以外の雑念が入る余地の無いほどに真っ直ぐで、却って清虚にすら見えた。だから、それが本音で本気の彼の戯れだった。
 ジャケットの襟で男の口元は見えないが、見えなくても解るぐらい綺麗に歪んでいるのだろう。恐らく、ラグナが見れば膝が震えてしまうくらいに。
 まるで、魅入った子供をつれていこうとする“死神”のような顔。ラグナには、そう思えた。
 それだけを言い終えると、“ラグナ”は今度こそ一度も振り返る事もなくラグナの前から消え去った。
 残されたのは、ラグナと臓腑に蟠るような後味の悪さだった。
 手に持った大剣を虚しく握り締めて落ち着くように自分を鎮める。
 似すぎたあの顔を見ていると、ひどく胸の内が荒波立つのを自覚していた。

――“自分も、アレと同じ笑みをしているのでないか”

 それは、認めたくない現実で、あってはならない現実。
 鏡を見るという事は、“自分”を見るという事。
 あの存在が、自分ではないかという恐怖を、必死にラグナは否定した。
 違うとラグナは頭を振る。
 ジンが自分とアレとは違うと言うのを思い出し、そうだと言い聞かせるように首肯する。
 違う。アイツとは、違う。
「俺は……あいつの……兄貴だろうが…………」
 そう繰り返し、結局ジンに会おうとしていた予定を取り止めた。
 今、ジンと顔を合わせても得体の知れぬあの男の所為で常の通りに振る舞える自信が無かった。ただでさえジンからのとんでもない発言を聞いただけあって、尚更だ。
 気まずい顔で一緒にいても、場の空気を濁すだけで互いに居た堪れないだろう。
 なら会わない方が良いとジンの進んだ先とは真反対の道を選ぶ。
 ジンの爆弾発言や、“ラグナ”の笑みが頭の中をぐるぐるしてどんどんげんなりした顔になる。
 折角の機会がと惜しんでいるが、最早まともに思考の働いていないラグナは足を動かす事しか考えておらず、自身の内面をなぞる余裕など無かった。
 思わず溜め息をつき、行く先にあった小石を八つ当たりに蹴飛ばす。カツン、カツン、と小石は二回跳ねてころりと静かにまた横たわる。
 この行動に全く意味は無いが、幾分か鬱蒼とした気分は晴れる。
 忘れた頃にまた様子を見に行くかと気分を取り直しさっさと宿に戻ろうと決めるが、不意に足を止めて空を見上げた。
 高いビルの隙間から覗く空は狭く、ビルのシルエットも手伝ってより高さを強調している。
 その空との高さに、ジンとの距離を何となしに重ねてみた。
「会ってやりたかったんだがなあ……」
次に会った時は「どうして会いに来てくれなかったのさ!」と頬を膨らませて怒られるだろうか。
 面倒だと落ち込みながら、どうやってご機嫌を取ろうかと思案してみると、“ラグナ”の言った「手を出してやれよ」という言葉が脳裏を掠めていやいやと必死に首を振って雑念を追い出す。
 無しだから!! 俺、アイツの兄貴だから!
 そう叫びたくなって情けなくなってくる。やはり、当分ジンとは顔が合わせれそうにない。
 こんな顔、見せれるか!
 悔しい程に赤くなっているだろう顔を手で押さえる。
 割と細かい事を気にしてしまうラグナは結局同じループにはまってずるずると予定ばかりを先延ばしにし、本人が思っていた以上の間を置く事になる。

 ――当然、その所為で空を仰いで「会いたいなあ……」と溜め息をつくジンの言葉も、当面叶う事はなかったのであった。


《終》


 (あっ! 兄さん!!)
 (よ、よう……ジン)
 (全然会えなかったから、寂しかったんだよ!)
 (そうかよ……)
 (……どうせ、兄さんは僕なんかに会えなくたって…………)
 (……だったら)
 (?)
 (今から…その……デ、デートにでも、行くか…………)
 (!!)
 (…………何言ってんだ俺……)
 (っ…………)
 (いや、やっぱ今の無し……)
 (行く! 絶対行く!! 何が何でも行く!!)
 (お、おう、そうか……)
 (兄さんとデート……兄さんとデート……ッ!!)
 (何か凄い気迫が…………まあ、楽しそうに笑ってるからいいか……)



 

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