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 夜の空気は寒く、露出した肌は瞬く間に熱を失ってしまったかのように冷えていく。しかし寒さに慣れているジンにとって大した温度でなく、平然とした様で整備された煉瓦敷きの道を歩いていた。辺りは咲かせた花びらを閉じてしまった花ばかりで、眠ってしまってるかのように静かだった。
 円状にして整えられた花園の中心にさらさらと葉擦れのような柔らかな音を鳴らして月の光で照り返されている噴水の縁に、ドレスが汚れてしまうのも構わず腰をかける。
はあ、と大きな溜め息をつく。夜だけで何度も落とした溜め息だが、今までついてきた溜め息とは微妙に重さが違っていた。
 苛々する。ずっとそう思っていた。けれど違うのだと、漸く気付いた。
豪華な食事も、綺麗な服も、どれだけの人間に自身を賛美されても、少しも嬉しくない。楽しくもない。後輩達が顔を揃えて楽しそうに笑っているのを見て、更にその感覚に気付いてしまう。
 この苛々は、寂寥感だった。
 何が足りないかなんて考えなくても解る。
 目蓋に焼きついてしまったかのように記憶に残る、鮮明な赤。まるで距離感を煽るようにして後ろ姿ばかりが思い浮かぶ。
 会いたいなと願った瞬間、くう……、とお腹が空腹を訴えた。果実しか入れていない胃はもっともっとと栄養をねだってくる。けれど、あんな不特定多数に向けられる誰が作ったかも解らない豪勢なだけの料理なんて食べたくない。
 自分の事を思って作ってくれる、家庭的なあたたかいご飯がよかった。
「お腹空いたな……」
 誰も聞いてくれる人などいないのに、思わず呟いてしまって余計に惨めさを煽る。
 自覚してしまえばそこで終わりで、ずっとそればかりが頭の中を埋め尽くして他の事を考える余地が無い。物足りないや寂しいといった感情がずっとぐるぐる同じところを回って、心が萎んでいく。

――何で自分だけこんな思いでいるのだろう……。

 腹癒せにいっそ孤独死でもしてしまおうかと思った瞬間、背後から大きな声で怒鳴られてびくりと身が竦み、危うく噴水の中に落ちそうになったが咄嗟に縁を掴んだので濡れ鼠にならずに済んだ。
 百八十度反対の方からした怒鳴り声に慌てて振り返ると、仕切りとして作られてる茂みからガサガサと大きな音を立て、ズボンに葉っぱを数枚つけて件の赤い人が現れた。
「に、兄さん……?」
 幻でも見てるのかと思ったが、耳を刺した声は紛れも無く本物で、月明かりを浴びる輪郭は立体感があって厚みをもたせている。
 本物と理解すると次いで疑問が湧き、何でここにと訊こうとする前に赤い人もといラグナがジャケットを脱いで有無も言わさずジンに羽織らせた。
「――このバカっ!! 夜だってのにショールも何も羽織らず何考えてんだ!!」
 首回りや肩が露出したデザインのドレスなら防寒用として何か羽織るのは当たり前だが素知らぬ顔でジンは肌を晒していたのでひんやりと冷えてしまっていた。
 しかも寒さが厳しくなってきたこの季節に屋外で、更にいえば噴水の側だからもうラグナの形相は子供が見れば泣いてしまいそうな程険しかった。
 けれどラグナの怒りを前にしても、ジンはぽかんとしてラグナを見上げる。
「それよりも兄さん、何でここにいるの?」
 いる筈がなかった。
 当てもなく流浪してどこにいるかも解らない兄が、統制機構の管轄下のこの会場にいる意味が解らない。
 その問いにジャケットを着せるラグナの手がぎくりと強張るのが解った。目もどこか焦点が合っていない。明らかに動揺している。
 焦点を合わせようとしたらその度にぷいっと気まずそうに何度も目を逸らすので何か口にできない目的でもあるのかと訝しんで見ていたら、への字にして噤んでいた唇が躊躇いがちに動いて、言葉を紡いだ。
「……し、師匠に聞いたんだよ……。統制機構ででかいパーティーがあって、それにジンも出席するって……」
 師匠、というのは幼い頃からラグナに生きる術や戦う術を叩き込んだ恩師であり、この世界の武術の頂点に立つ猫族の戦士であった。世界的にも有名で、歴史に名を残す程の偉業も成している。
 ジンの養子先である強さに執着をするキサラギ家の現当主も一度はお目にかかりたいと感嘆していたのを記憶の片隅に残っていた。まさかその敬服する人物に養女であるジンは既に会っていて、更には実の兄の師だと微塵も思わないであろう。巡り合わせとは実に奇妙なものである。
 久しぶりに聞いた名に、眼帯をした猫なのにどこか渋さがある顔が頭を過る。
「でも何であの猫が……」
「あの人も人伝だって。同じ英雄仲間から。それで、前にお前言ってたろ……パーティーは男が集ってきて鬱陶しくて嫌いだって。そんで……でかいパーティーだから文句言えねえ程のお偉いさんが来て、嫌がらせとかされてねえかって……気になって……」
 徐々に語尾が消えていくのはラグナの羞恥心が最高潮に達しそうになっている証拠で、肩に置かれてる手が勘弁してくれと言っているみたいだった。
 極稀に住所不定の兄から会いにきてくれる事はあったが、大抵は近くを寄ったからだと言って序での扱いだった。
 会いたくて仕方無い自分はオマケ扱いに不満はあっても、それでも顔を見せてくれるのに幾らか満足していた。
 けれど今の物言いは、今回の来訪は自分が“本命”だと受け取っていいのかと胸が高鳴った。
「……僕を…心配して……?」
 期待を込めた言葉に返ってくる言葉は無かったが、気恥ずかしそうにして目を合わせない、真っ赤な顔が答えを出していた。
「――〜、兄さんっ!!」
 嬉しさと感動のあまりラグナの胸に飛び込んでぎゅうっと力いっぱいに抱きつくとくっつくなと赤い顔を更に赤くして怒るが無理矢理引き剥がそうとはしない。
 無理矢理離そうとすればより強くしがみついて物理的な痛みにジンが痛がるのがラグナの目には見えていた。
 知人にシスコンと笑われ、どれだけ否定しても結局妹に弱い自身に歯噛みしていたらジンがいきなり「あっ」と声を上げた。
 間の抜けた声に何だよと訊けば今何時だろうと時刻を気にした。
 パーティーで在り来りな余興としてのダンスがあるのだが、それが終われば主催者の挨拶を終えて解散という流れである。
「何か約束でもあんのか?」
 パーティーの流れを知らないラグナの問いにいいやと首を横に振るが、戻らなければ後輩のツバキ達が自分の不在を心配するだろうし、パーティーが終われば頼んでいる迎えの車も来る。だが、ラグナを前にしてるこの状況で帰るという気持ちには到底なれなかった。
 そんな気持ちを知る由もないラグナは首を傾げていると、上目遣いに頬を朱に染めながらジンが甘めな声を漏らした。
「……あのね、兄さん……僕…帰りたくないの……」
「ハァッ!!? ……あ、うん、会場な……」
 何を勘違いしたのか胸に手を当てて明後日の方向に目を泳がすラグナの心意は解らなかったが、ジンはラグナの腕に縋るように擦り寄った。
「ホテルもこの街で取ってあるんだ。本部に戻るのも明日なの。だからね、兄さん……僕の部屋に来てよ……」
「ハアァァァッ!!?」
 今度こそ何を言っているんだと顔面に疑いの意思を貼りつけてジンの顔を見遣った。
ラグナからの視線にもじもじと恥ずかしがる様は正に愛らしい初々しさを薫らせたが、ちょっと待てとストップをかける理性。
 取り敢えず寄せられて綺麗に胸に挟まれてる左腕を何とかしたかった。
「ジン……ちょっと待て。自分が何を言っているかわかってんのか?」
 何も罪を犯していない自分に高額の懸賞金がかけられたのもこの妹のとんでもない迷言から始まった例もあって、落ち着けと互いに言い聞かせる。
 深呼吸を試みようとしたが、「だめ……?」と瞳を潤ませる貌に逆に息が詰まった。
 これは兄妹として超えてはいけない一線を要求されているのではと慌てて何とかジンを傷つけない形で話を収めようとあまり賢くない頭を必死に回転させる。
「いいかジン……俺たちは兄妹だぞ……」
「? 当たり前でしょ。それとも他人を泊めろって言うの?」
「…………は?」
 今度はラグナが頓狂な声を出す番だった。
 互いに目を合わせたまま沈黙が過る。
 ポクポクポク、と頭の中で木魚を叩く音が響くという古典的な思案が入り、チーン、と音を立てたが解決した訳ではない。
「あの……俺はあなたの部屋に行って何をすればいいんですか……?」
 我ながら歯に衣着せぬ物言いだが、最早混乱をきたしている頭にはこれが限界だった。
 ジンは恥ずかしそうに抱きついてるラグナの腕に顔を押しつけて、ぼそりと呟いた。
「……お腹……空いたの」
「…………はい?」
 先程までジンがいたであろう場所を思い返してみる。この子はパーティー会場にいたのではないか、と。
「いや、飯があっただろ」
 ラグナは至って普通に言ったつもりだが、ジンは一瞬びくりと体を震わせより縮こませて顔をうずめた。
「…………食べてない」
 再び甦る沈黙。
 風がひゅうっと吹きつける。ラグナのジャケットを羽織っているから寒くはないが、別の寒さで胆が冷えそうだった。

――ああ、始まる……。

 そう覚悟して目を瞑る。
 見なくても解る。兄の顔は今、笑顔なのに目が全く笑っていないだろう。
 きっとその所為だろう、心做しか後頭部に冷たい視線を感じる。
「ジ〜ン〜くぅ〜ん……」
 腹の底から絞り出してるような低い声に、普段絶対されない呼ばれ方にジンは冷や汗が 浮かんでくる。
 返事もせず沈黙を貫くと、ラグナの両の手がすっと動きジンの髪を丁寧に掻き分けると頬を指先が撫でる。
 ぴくん、とジンが反応すると同時に、むにっと摘まんで引っ張る。
「ふにぃ〜、いひゃい、いひゃいよにいひゃ〜ん」
「誰の所為かな〜?」
 にこやかな顔でこめかみに青筋を浮かべている兄は兄なのに、幼い頃に死に別れたシスターを彷彿させて充分怖かった。
 シスターは激しく叱るような事はなかったが、真っ直ぐ相手を見つめる澄んだ目と合わせるのが申し訳なくて、怖かった。


 

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