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 この世にはありとあらゆる色があふれているというのに、自分の目には全て真っ白に見えた。目に障害がある訳ではない。ちゃんと赤青黄の色調は理解出来る。
 目といえば、幼い頃から何か変な黒い線は視えた。触れれるでもないそれを気味が悪かったり疎ましく思ったりもしたが、何年も経てば慣れてしまう。もうそこに関心はない。
 際立つ黒は視えていながら、空気と同じで見えないように透けてしまった。意識しない限りはある事にすら気付かないだろう。
 そうやって見えない振りをしていたら、他人すら見えなくなっていく。
 知らない間に住み着くように迎えられたキサラギの家には何の刺激もなかった。
 名ばかりの“兄弟”達と、勝手に将来を期待する当主。
 それらの顔を見るのが面倒で、声だけを聞いていたらしまいにはそれすら透けていた。声は声でなく、古いラジオからもれる信号のような音に成り下がった。
 耳障りな雑音。空気の振動だけで内容を理解し、家の規則に従う。
 言われるがままに入った士官学校も何の感慨も無く卒業し、間も無く起きた戦に赴き、手近な敵を斬り捨て続けていたらいつの間にか戦歴を上げていて英雄という称号を授けられた。だからといって、これがなんなんだ。“塵”を他人よりも多く片付けただけだ。戦いを終わらせただけの意味なら偉大だろうが、『殺戮』を讃えた称号など逆に不名誉だ。こんな肩書きなど守るものも掲げる志も無い己には荷物にすぎない。いずれ時の濁流に流され埋もれていき、輪郭も薄れて意義を失くしてしまうだろう。名と戦歴だけがテキストに載って、遠い未来の誰かに囁かれるだけだ。寧ろ己と何の関わりもない人間が己の名を口にするのかと思うだけで虫酸が走る。
 馬鹿な事をしたと、今更ながら後悔もしたくもなる。
 しかし一晩眠ればその時感じた苛立ちなどどうでもよくなってしまう。唯一と言ってもいいだろう自らを揺さぶる“苛立ち”も、そう長くは続かなかった。
 称賛も嫉妬も尊敬も、無駄だ。他人から寄せられる情感は雑音にすぎない。
 煩わしいものなどいっそ全て消えてしまえばいい。
 それが叶わないなら、せめて自分に関わるな。苛々で神経が磨り減りそうだ。
 そう思えど、否応なく“周囲”という世界は自身を引き摺り込もうとする。
 我の強過ぎるこの醜い世界は自分にはあまりにも疎ましく、刺激となるものがないから退屈過ぎて、自身も含めて全てが無味乾燥だった。


――『死神』が現れるまでは。


 十三階層と名を連ねる高らかな街カグツチに降り立って、最初に気付いたのは胸の高鳴りだ。耳の奥からドッドッと、普段では有り得ないほど強く心臓が脈を打つ音が響いていた。興奮しているのかと自分に向けて呟きそうになる。
 そう、このカグツチに出向いたのは『死神』に会う為だ。
 統制機構の支部を潰し回る気違いがいる事から話は始まった。
 統制機構と対極に属する第七機構の仕業かとも考えたが、どうにも効率が悪い。手当たり次第、片っ端から、転々と渡り歩くようなペース。頭脳を武器とし、“組織”として構成されている人間達のやり方ではない。
 極少数の人間か、と予想していたが結果は大ハズレ。
 個人、正に一人で支部を潰し回っているのだと聞いた。
 どこの酔狂な輩だと眉を潜めたが、各地の支部が犠牲になる度に情報が入り人物像が明らかになっていき到頭『死神』と呼ばれるほど脅威となった反逆者の名が挙がった。
 最初にその者の名を耳にした時は我を疑った。
 毎日倦怠感に苛まれながら人の輪から離れ、一人の時に呟いていた名。
 それが今世界中に知れ渡っているなど誰が思おうか。

――『ラグナ=ザ=ブラッドエッジ』

 己と同じ血を通わせる人間。
 己が敬愛し、陶酔し、そして“殺した”人――『兄』が生きている。
 その兄は統制機構の敵であり、同時に最高額を誇る賞金首であるのを思い出し、本部を捨てて飛び出した。
 軍とは規律を重んじねばならない場所だ。命令がない限りは勝手な行動は許されない。
 しかし自分にとって規律など塵以下だ。『軍』など拠り所にした覚えはない。そう、誰にも自分を所有出来ないのだ。
 故に行動に躊躇いはなかった。
 独断での行動故、移動は全て自力だけれどもそんな事はどうでもよかった。一秒でも早く、兄のいる場所へ向かわねばならない。
 軍の敵であり、賞金首である事は敵が多いという事。それだけ兄の命を狙う“障害”がいるという事だ。
 冗談ではない。他人に兄を傷つけさせてたまるか。

――兄さんは僕の……。僕だけの……。

 そう思えば思うほど体の感覚が麻痺し、長い移動で生じる痛みなど感じさせなかった。
 そして辿り着いたこの街は、なぜかはっきりと色が見えた。
 いつもはぼやけて白けた世界しかなかったのに、この街は違う。理由はすぐに解った。
 他と違うのは、兄がいる事。
 兄がいるから、この街を見ようと思える。
 そう、兄がいなければこんな街に来るものか。

――早く兄に会いたい。

 そう急かす己の意思に従って足を踏み出す。
 人混みは煩くて視覚的にも聴覚的にも目障りで嫌いだが何かしら情報があるかもしれないし、もしかしたら兄本人が雑ざっているかもしれない。
 はたまた、咎追いや機関から隠れようと人気のない場所にいるかもしれない。
 そう思案していたら、小さい頃に兄としたかくれんぼを思い出す。
 兄は隠れるのが上手かった。中々見つからず、しまいには見つけねばならぬ自分が泣いてしまう事が多々あった。そんな時は兄から出てきて、ちゃんと見つけてくれよと苦笑いを浮かべて泣く己の頭を撫でてくれた。
 反対に自分は下手だった。兄から離れて隠れるのが怖かった。
 見つかり難いよう暗く狭い場所に隠れて息を潜めてても、時間が経つにつれ見つけてもらえず放っておかれてしまうんじゃないかといつも不安に襲われていた。
 そうなると自然と涙が出てきて、嗚咽がもれて、そこでかくれんぼは終了。
 声を聞きつけた兄が現れ、呆れられながら手を引かれておしまい。
 思えば、兄からすればひどく意味の無い退屈なお遊びだっただろうに。ルールを無視した稚拙な遣り取り。いつかは疎ましさも生じよう。

――けど、今は違う。

 あの頃の自分は、いない。
 兄の消失に怯え啜り泣く自分は、遠い過去の置き去りもの。
 否、それこそ消失してしまった己の断片。
 今はそれよりも大事な置いてきぼりにしたピースを埋めにいくのだ。『ラグナ』という空白を埋めに。
「兄さん、どこに隠れてるのかな?」
 口元が自然と歪む。
 そう、これはかくれんぼ。兄が隠れ、自分が見つける鬼。
 もう自らの足で兄を追う事が出来る。見つけれず立ち止まって泣く子供はどこにもいない。
 初めての都市で、どこに何があろうが、どこにいても兄を見つけれる気がする。いいや、見つけれる。これだけ自分の中で訳の解らない感情がのた打ち回っているのだ。この感情が、往く先を導いてくれる。
 この街の頂上に建っている統制機構の支部があるだろう方向へ目を向ける。もし街を徘徊してもいないなら、残すはあそこだろう。兄は支部を片っ端から破壊しているのだ。ならばここに来た目的も同じだろう。
 けれど待つだけじゃあ、自分がつまらない。少しの間、心の整理も兼ねて歩いておこうと思った。
 見つけたら、兄は最初に僕に何を言うのだろう。
 感動で咽せび泣くか、怒りに拳をあげるか。
 出会ったら、僕は最初に兄に何を思うのだろうか。
 魔道書を手に入れて色素の薄くなった髪はどんな輝きだろう。
 魔に侵された深紅はどんな赤だろう。
 本部で得た情報を思い返して空想を浮かべてみる。
 しかし、そんな容姿から得る情報を自分が第一に優先するだろうか?
 ああ、違う。
 兄さんは、“兄さん”だ。
 会った瞬間体がそう叫ぶだろう。見た目が変わっても、自分が望んでいた兄は変わらない。
 幼い頃に生まれた“想い”は変わっていない。
 優しくて、あたたかくて、好きで好きでしょうがないただ一人の兄。
 兄の事を考えていたら喉が張りつくような違和感を感じた。過剰な興奮か、緊張か、喉が乾いて仕方無い。
 乾いている。渇いている。
 階段を上がる度に体中がざわつく。これだけ体が騒ぐのだ。『死神』は間違いなくこの街にいる。
 高台に上がると、下から吹く強い風に髪が煽られた。思わず目を閉じると風に運ばれる花の香りがした。
 寒いというのに優雅に咲き誇る花の薫りに懐かしき記憶がノイズのように甦る。
 兄の誕生日には、その季節に似合った花がよく飾られたなと思い出す。
 男には似合わない淡い桃色を見ると兄を彷彿させるのがやけに可笑しく思えた。
 ふと気付く。珍しいほどスムーズに兄を思い出せている事に。たまに酷い頭痛がしたり、靄がかかったように白けて思い出せない事があるのに。
「……ああ、そうか。兄さんがいるからか……」
 この街の空気に兄が混じっている。目には見えなくても、兄は傍らにいるのと変わらないのだろう。そこに安堵感はある。それでもやはり物足りない。安堵を感じると同時に焦燥も煽られる。
 早くこの視界に収めて彼の顔を歪ませたい。自分を見たら彼はきっと動揺以上の反応をしてくれるに違いない。

――きっと兄さんは僕を憎んでる。

 ぞくりと体に戦慄が走る。持て余す感覚に震えながらきゅっと肩を抱く。 早く、自分を見つめてほしい。
 この体がこの心がこの魂が訴える衝動に逆らえはしない。己の全てが、兄へと駆り立てるのだから。
 僅かしかしなかった花の香りが突如強くなって己を包むと膝が震え、堪えれずがくりと地についた。まるで兄に包まれたような錯覚を起こした。
「兄さん……兄さん……」
 熱をもった声はまるで他人のような声だったが、その例えはあながち間違いでないだろう。兄のいない自分はまるで無機質で人形のような喋り方をするのだから。こんな、人間味のもった声など出しはしない。
 ハハハ、と込み上げる笑いを隠さずこぼした。
 ここに来るまでの自分はどこにもいなかった。全てを遠巻きから見て、氷の壁で隔てて閉じ籠もっていた。
 一人ぼっちのそこには誰も入れようとしなかった。けれど、いつも兄だけは傍らに置いていた。言葉を発する事が無くてもよかった。自分の中にいてくれればよかった。
 だから――――。

「兄さんは……僕が殺すんだ……」

 誰にも触れさせない。
 誰にも見させない。
 他人が兄に干渉する権利なんて与えない。
 同じ血を持つ自分が、否――肉親であるかすらどうでもいい。
 自分が『ラグナ』を殺さねばならない。
 己が望み、本人も望んでいるであろう使命。
 それを全うする為、持っていたものを全て投げ出してきた。後戻りも後悔もしない。
 あの喜劇のような惨劇のあと、兄は今まで独りだったのだ。
 きっとたくさん傷ついて苦しんでいる。だから早く殺して、楽にしてあげて、最期は――。
「抱きしめてあげるよ…兄さん……」
 そうすれば、寂しくないよね。
 ぽつりと呟きを落とすと澱みなく立ち上がった。
 背筋がぴんと伸び、狂気に満ちた笑みを収めて表情を無くし、引き締められた軍人の顔になると優雅に地を踏みしめて雑踏へと呑み込まれていった。


《終》
 

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