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 ――甘いのは嫌いだよ。
 目の前の弟は確かにそう言った。
 何でと、大した興味もないのにラグナが訊ねてみれば「ムカムカする」と唾を吐くように理由を吐き捨てた。
 テーブルの中央を広く陣取る白黒の丸い駒。緑のボードの上にて思惑の交差でくるりくるりと色を翻す。
 ラグナはふうんと鼻で頷く。
 盤上を眺めては大した戦略を練る気でもなく、こうがいいと根拠のない自信で黒を置いていく。面するジンはラグナよりもじっくりと駒を見つめ、けれど時間をそうかけず白を置いていく。
 何となしに始めた駒の取り合いを興じながら、合間合間にボードの脇に据えてあるコーヒーを飲む。
 砂糖とミルクが多めの、ラグナのカフェオレ。砂糖もミルクも入れていないジンのエスプレッソコーヒー。
 どことなく対になる、あべこべな兄弟。
 肉を使った料理が得意な兄に、肉料理が嫌いな弟。
 赤い服を纏う兄に、青の外套に身を包む弟。
 昔は揃いであったのに、ついには髪の色さえ対になってしまった銀の髪に、金の髪。
 きっとまだあべこべな所があるだろうが、比べたからと何かある訳でもない、考えてもしょうがない事にラグナは固執しない。盤上の駒を眺め、どこに黒を置くかの方が重要だ。
 手の甲で頬杖をつく弟を眺めて、盤に視線を戻し黒をぱちりと置く。ぱたん、ぱたん、と少ない数の白を黒に変える。
「俺はそうでもねえけどな」
 ちらりと、掌に頬を預けてだらしない格好のままのラグナをジンは見遣る。
 翡翠と、緋翠がかち合う。
「例えば、糖分。疲れた頭にはいい」
「摂り過ぎは毒だよ」
「例えば、ゲーム。息抜きに勝利を味わうのは爽快感がある」
「ぬるかったら逆に潰し甲斐がないよ」
「例えば――」
 ぱちん、と一つ駒が鳴る。
 気付けば四隅の内、三ヶ所に黒が鎮座する。
「甘やかし。『優しさ』と勘違い出来る」
 ひどく甘ったるい言葉に、両者の眉間に皺が寄る。
 互いに抱える記憶は立ち位置が違うだけで意味を大きく変える。まるで被害者と加害者のような、決定的な決別。
 しかし、どちらが先に手をかけてしまったのかは解らない。
 『自己満足』と『我が儘』。似すぎてどちらが醜いか不器用な兄弟には解りはしない。
 もしかすれば、良心の呵責が立場を決めてくれるかもしれない。どちらかが憤って言い分を叩きつければ、選ぶような手間さえ省けるかもしれない。
 けれど兄弟は“過去”よりも“現在”を選んだ。責める言葉など、二人からはとうに失くしていた。
 ああ、それでもと、ジンは咎めるような口調と目つきでラグナに言った。
「……誰にでも優しいのは嫌だよ」
 心からの本音として、ジンはラグナを睨めつける。ムカムカすると言えば、知るかとぶっきらぼうに返される。
 困っている人を見たら放っておけなかったり、頼られると嫌々引き受ける損な性格だと、ジンは把握している。強いられてきた兄気質からだろうと、生来から持ち合わせてきたものだろうと、ラグナは“甘かった”。甘さは命取りだと何度も言っているのに、全く改善の姿勢が見られない。もし、誰かに殺されたなら自分にどう言い訳する気だと文句を言いたくもなる。
 だから甘いのは嫌いだと、冷めているエスプレッソを口に含む。

 ――ぱちん、ぱちん、ぱちん……。

 互いの手が交互に白黒の駒を引っくり返す。とんとんと事が進み、マスが埋まる頃には盤上の色は偏りが大きく、勝者を自ずと示していく。
 ぱちん、と最後のマスを埋めて、ラグナがにやりと犬歯を見せる。
「俺の勝ちだな」
 最後に取った白の駒を裏返すのも面倒だと、椅子の背凭れに片腕を乗せ半身を遊ばせる。勝者の余裕といったところか。
 負けたジンは盤上を見つめ取らせ過ぎたかと詰めの甘さを渋った。
 もう一回やるかと訊ねられるが、飽きたと短く一蹴した。
 ボードの上を片付けもせず二人は椅子に深く腰をかけ、だらりと次のやる事を探した。
 何となしに始まった駒の取り合いはひどく退屈な心地で時間を流し、勝敗に関係無く妙な虚無感を落とした。僅かの動揺も優越感も一瞬だけで、感情の水面の揺らぎはあっという間に収まる。
 物足りないと渇望感に喉を鳴らし、不意に、思いつきのようにラグナの飲んでいたカフェオレに手を伸ばす。
 甘いのは嫌いだと口上したジンがラグナの用意したコーヒーを飲むのを見て、ラグナは何事だと目を眇めた。
 こくりと喉が嚥下して、カップを下ろして現れたのは眉間をきゅうっと寄せた渋面だった。やはり甘いのは嫌なようで、すぐに自分のコーヒーでこびりつく甘さを流していた。
 何を思ってそんな珍しい事をしたか解らないが、日頃澄ました顔か獲物を見るハンターの目をした生意気な顔が苦しげに歪んで、清々した気持ちになる。
 馬鹿じゃねえの、とラグナが皮肉げに言えばカップを置きながら、そうかもね、とジンは薄く嘲笑した。
 甘いのはやっぱり嫌いだよと、確認するようにジンは呟く。
「でも、兄さんの甘いところ、ムカムカするけど、好きだよ」
 屈託なくにこにこと笑うジンに、憮然とした顔でラグナは吐き捨てた。
「…………俺は嫌いだ」
 甘いもの嫌いの弟が、唯一好きだという甘さは、ラグナにとっては許し難い己の甘さだ。自分の甘さが、大事なものを全て壊してしまった。他者に施す甘え。他者に施される甘え。どちらも履き違えていたと気付かされた。
 望んだって、責めたって、自身の過ちは正せない。せめてとその罪科を背負う気でいるが、ジンは言葉を重ねてラグナを苦しめる。
 ラグナを甘いと詰るのと同時に、優しい人と憧憬を送る。
 二つの意味を重ねられて違うとはっきり言えない。
 ラグナにとっては甘さと優しさは違うものだが、ジンにとっては同じだ。甘いと認めていて、優しくないと自身を認めているが、ジンの中で一つのものとして否定される。
 “甘くて優しい兄”か、“甘くなくて優しくない兄”か。どちらもラグナにはなれなかったものだ。
 ラグナの認識とジンの価値観がずれているだけでこんなにも二人でする言葉遊びは難しい。これからもきっと衝突は免れない。
 馬鹿がと面倒な弟に一言吐き捨て、カフェオレを煽る。
 甘さが濃ければ、じくりと喉を焼くような痛みが走る。そんな甘さは、ラグナも嫌いだ。
 温度が下がって変わってしまった味つけにむすりと顔を顰め、徐に、ジンのマグカップに自分のカップの中身を注ぐ。
 突然に勝手な事をされて「あ……」と声がもれたが、ラグナのカップは既に水滴を落とすまでもなく空っぽだ。止める暇などなかった。
 ジンのマグカップを取りゆらゆらと混ぜるように揺らしてから口に運ぶ。
 互いに少なくなっていたから量はそうない。二口分喉を鳴らしてカップをジンに返す。
 差し出されたカップを受け取って中を見ると、コーヒーはまだ残っている。
「それぐらいの苦さならまだ飲める」
 頬杖をつくラグナがそう言い、ジンもそろりと口に運び、冷たいコーヒーを口腔に迎える。
 ラグナの分と合わせられた所為で自分が作った分量から味は変わってしまったが、まだ苦みは充分に残っていた。ほんのり香る砂糖とミルクの甘みが擽るように舌に乗る。
 甘さと苦さが残る中途半端な味つけのコーヒーは、まるで、なにかに似ていた。
「これぐらいの甘さなら、僕もまだ飲めるね」
 くすりとジンは微笑った。
 そうかとラグナは関心の薄い返事をした。
 コーヒーを飲み切って席を立つ。もう一杯淹れようと、湯の用意をしにキッチンに行こうとしたらラグナがジンを呼び止める。
 椅子に座ったままマグカップを差し出し、自分のも淹れろと横柄な態度で言ってくる。
 良い弟ならここでうんと頷くのであろうが、兄と違って性格が捻れていると自覚している。
 ジンがにこりと微笑み嫌だと答えるとラグナの眉がきゅっと寄せられる。
「ついでだからいいじゃねえか」
「僕が淹れると甘くないよ」
「俺が言った量を入れりゃいいんだよ」
「折角のコーヒーに砂糖やミルクなんて入れたくない」
「馬鹿か、本場のブラジルでも馬鹿みたいに砂糖ぶちこんだりするぞ」
「兄さん、『コーヒーは地獄のように黒く、死のように濃く』だよ」
「でも『恋のように甘くなければならない』んだろう」
「意外。知ってたんだ」
「遊ぶ程度にはな」
 そんな事はどうでもいいから淹れろと、またカップを持つ手を伸ばす。それでもジンはいやと首を縦に振らない。
「お湯は沸かしておくね」
「淹れろよ」
「自分でしてね」
 穏やかにしながらラグナを無視してテラスからキッチンへ向かっていく。スリッパを引っ掛け、ぺたぺたと陽で目映い床板を撫でる。しかし後ろからラグナがやってくる気配がしてついと振り返る。不満を露に口をへの字にして、裸足のままジンと同じようにキッチンに行く。
「自分で淹れる気になったんだ」
 頭一つ分上にある顔を冷やかすように言えば、ふんと不機嫌に鼻であしらった。
「ただ淹れるのも癪だから、お前の分にガムシロやミルクをぶち込んどいてやるよ」
「やめて」
 さらりと恐ろしい事を言われて想像したくもない味に眉をひそめていると、隣を抜けてラグナがさっさとキッチンに入っていく。棚にある甘味を加える材料を思い出しながら次から次へと取り出して、台に並べていく。
 袋に詰まる数々の甘味を、苦々しい思いでジンは眺める。使う気もないそれを、ラグナは早速カップに放り込もうと悪い目をしている。
 要らないからと忠告をするが、俺の味に慣れとけとまた理不尽な物言いをする。
「だったら僕のにも慣れてよ」
「ダーメ」
「何でさ」
「兄ちゃんだから」
「何それ。ずるい」
「兄ちゃんだからな」
 歳上の権限だと言いたそうにラグナは気障ったらしく犬歯を見せる。
 ケトルに水を張り、沸いてカップに注ぐ。そしてまた陽射しが気持ち良いテラスに戻る。
 その間までラグナの魔手からカップを守るだけの作業が、かなりの攻防戦になっていた。


《終》
 

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