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「――いたっ」
 背後で小さな声が上がった。
 ラグナは何だと振り返ると、ずっと自分の背を追いかけていたジンが立ち止まり顔に手を当てて伏せていた。
 いつもなら無視をするかざまあみろと叫んでそのままとんずらこく事が出来た。けれども今日は大人しく、さあ殺ろうよと言って刀を抜いてくる気配が無い所為もあって、放置する分には居た堪れなさを感じてしまった。
 要するに、“弟”には甘い自分がそこにいた。
「どうしたあ?」
 気怠げな声で伏せた頭に訊ねると「睫毛が目に入っちゃった……」と呟いて手袋を着けた手でごしごしと目元をこする。
「んなにこすんな。余計目を痛めんぞ」
 目元をこするジンの手を掴み、人の通りの少ない道の端へと誘導する。タウンの人が多い通りで立ち止まっていれば通行妨害も甚だしい。しかも背丈の高い野郎が二人、深緋の上着に紺青の制服でやたら人目を引いてしまう。
 更にいえば、ジンは顔を伏せて目元を手で覆っているので何も知らない人間からすれば泣いているようにも見える。冗談ではない。日々泣かされているのはこちらなのに、泣かせていると赤の他人に後ろ指を差されるなど堪ったものじゃない。
 道の端から端まで人で混雑している道に立ち止まる所はなく、仕方無く建物の隙間のような狭い路地へ入り、改めてジンに向き直る。
「ほら、見せてみろ。面倒臭せえけど取ってやるよ」
 文句を言ちりながら右手を差し出そうとしたが思い止まり、左手の手袋を取ってジンの前髪を分ける。ラグナの素手のあたたかさと感触にジンはぴたりと手を止め、そろりと下ろした。
 軽く上向かし、乱れた金の髪を払うときゅっと唇を引き伸ばして目を瞑る弟の顔が晒される。
 自分と似ていないこの弟は、何で妹に生まれなかったんだと天上に向かって恨みを吐きたくなった。そうすれば、己に求めてくる歪んだ願望や、己以外に対する人当りに僅かな救いがあったのではないか。
 そんなどうしようもない事に意識を奪われていた所為で、ラグナはジンが身動ぎをしていた事に気付かなかった。
 音もさせず一歩足を踏み出し、つま先に力を込めて背伸びをする。そうすれば目線は自然と上がり、ジンの顔も近づく。
 ラグナの瞬きが終えた次の瞬間には、ジンの閉ざされて綺麗に揃っている睫毛が目の前にあった。
「んなっ……!」
 長くない空白の後、された事に気付き咄嗟に後ろへ跳ねるとジンはうふふと嬉しそうに微笑う。その笑いにラグナの顔がカッと赤くなった。
「てんめぇっ……、騙したな!!」
「そんな事無いよ。こすってた時に取れちゃっただけだよ」
「なら早く言えっつーの!!」
 ジンが愛しそうに自分と触れた唇を撫でるものだから恥ずかしさのあまりじたんだを踏んでしまう。
 兄の子供のような仕草に弟の笑みがより深くなる。
「だって、まさか兄さんから取ってやるなんて言われると思わなくてさ」
 会えば武器を交えて、剣戟音と閃光を走らせて、互いへの殺意に身を焦がしているというのに。かといってこちらから何もしなければ冷たくあしらわれ鼻にもかけてもらえないのに。
 兄自らが歩み寄ってくるなど、夢裡の出来事かと見紛いそうである。
「僕、すごく嬉しかったんだよ。わかる、兄さん?」
 両手を胸にそえ、ねえと語りかける笑顔はあどけない清らかさを持っていたが、同時に歪さも孕んでいた。緑の瞳は甘く熱をもって揺れるが、何を切っ掛けにして狂気の炎を灯すか解らない。今保たれている平静はいつ崩れるか想像出来ないでいる。
 ラグナは注意深くジンの動向を探りながら一歩後退する。
 こんな所で戦闘にでもなれば無関係な一般人を巻き込むどころか、そこらにいるだろう咎追いを呼び寄せる事にもなる。しかしこれ見よがしな遁走をすればジンを刺激する事も明白。
 どうするかと色彩の異なる目を泳がせているのを暗がりでもジンはしっかり捉えていた。
「――逃げないでよ」
 声が真下から聞こえる。
 人間二人分もあった距離から一瞬で、ジンはラグナの眼前にまで詰めていた。
 紡がれた声の低さ。危険を孕んだ存在の近さ。それらにぞわりと背筋に冷たいものが走り、本能的に腰に提げている大剣を構えようとしたが、それより早くジンの手がラグナの手の甲を押さえた。細い腕からの思わぬ力の強さにラグナの双眸が見開かれる。
「駄目だよ兄さん……。今剣を抜いたら、僕は兄さんを殺さなきゃいけないじゃないか」
 見上げる瞳は鋭くラグナを射抜く。ラグナも威圧するようにジンを睨み据える。
 陽の射し込まない路地でも二人の瞳の色が解る程に強く輝きを放ち、停滞した刻の中で沈黙を以て互いを見据えた。
 目を逸らした方が地に伏すような錯覚を感じ始めた頃に、大剣を押さえていたジンの手がふと軽くなった――かと思えば次いで胸に重みが乗る。
 ジンの体が前に傾ぎ、ラグナの服に顔をうずめた。
 無防備な背を晒す行動の意味が解らずラグナは硬直してしまい、視線を変える事も出来ず背に回る腕の感触を許してしまった。
「…………おい、ジ」
「――兄さん」
 沈黙するのに堪えれず名前を呼ぼうとしたら後から口を開いたジンの語気の方が強く、自然と口を噤んでしまった。
 抵抗が無いのをいい事にもぞもぞと顔を動かし、ラグナの心音がよく聞こえる位置を探した。
 トクッ、トクッ、と一定に刻まれる音を、今自分だけが聴いている。
 誰にも捕らえられない『死神』を、今自分の腕が捕らえている。
 そんな独占が心地好く、快楽のようで神経を興奮させ、自身の何もかもを昂らせた。
 知らずくつくつと笑いが込み上げ、手により一層力を込める。
 妖異な笑いに気を張るが、狂った眼差しと共に向けられる殺意の熱気や、刀を喚ぶ時に漂う冷気はどこにも感じられない。
 戸惑う事しかしていない兄をジンがもう一度呼んだ。
「兄さん……早く取ってよ……」
「ああ?」
 何を、と言おうとしたが訊かずともジンが続ける。
「睫毛……。痛くて、痛くて、涙が出てくる……。死んじゃいそうだよ……」
 ひくりと喉を震わせながら途切れ途切れに呟かれた言葉にラグナの胸元が湿気ているのに気付いた。
 ジンの顔は見えないが、泣いているというのは覚った。肩も僅かながら震えている。英雄と呼ばれる程の男が目の痛みくらいで涙を流す筈がないとは解っている。そもそも痛みの原因である物は取れていると本人も言っていた。

――なら、何に泣いているんだよ、コイツは……。

 ジンが秘かに恨んでいる決定的な鈍感さが、硝子細工のような繊細な心の動きを捉えていなかった。
 痛みで泣くのも、悲しくて泣くのも遠い昔にどこかで忘れてきた。
 それでも今のこの感触が嬉しくて、夢のようなひとときが堪らなくて、気持ちが高揚し過ぎて涙腺が狂ってしまっている。
 哀しい事は何も無い。あるのは兄に触れて、誰の目にも映していないこの瞬間という甘美な程の『今』。
 兄を独占出来るそれだけで、ジンの心が可哀想なくらい満たされていた。
 けれどラグナには涙の理由が解らず、かける言葉さえ見つけれず、躊躇いがちにくしゃりと頭を撫でると顔を上げたジンの、眥に溜まる涙を指で掬うぐらいしか出来なかった。


(どれだけ僕が歓喜に震えているか、兄さんにはわからない)

(それでもやはり兄さんがこの泣きたいほどの、死にたいほどの幸せを壊していくんでしょ)



《終》
 

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