僕と彼女と癒しの時間
「お帰りなさい、雲雀くん」
「ただいま」
仕事から帰った僕を笑顔で出迎えてくれた婚約者を抱き寄せて、軽くキスを交わす。
物足りなくてより深く口付けようとすると、彼女は「あ、いけない!」と慌てて僕の腕から逃れてキッチンへ行ってしまった。
…つまらないな。
小さく溜め息を吐き、仕方なく僕も昴琉の後を追ってキッチンへ向かう。
「今日寒かったからシチューにしたの。すぐに準備するわね」
どうやら鍋を火にかけたままだったらしい。
コンロの火を止めてこちらを振り返った彼女は、にっこり笑って夕食の仕上げに取り掛かる。
部屋まで行って着替えるのも億劫で、僕は上着を脱ぐとそのままキッチンの椅子に腰を下ろした。
ネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを二つほど外す。
―――――疲れた。
このところ昴琉には言えない『仕事』が立て込んでいて、実はこうやって帰宅するのも厳しい状況だった。
それでもやはり彼女の顔は見たいし、心配させたくないから帰ってきてしまうのだけど。
「どうしたの?着替えもしないでこんなところに座って」
テーブルにサラダを運んで来た彼女が、不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。
……やっぱりシチューより昴琉だ。
僕は彼女の細い腰に腕を回して抱き寄せ、その胸に顔を埋めた。
彼女は驚いて一瞬だけ身を硬くしたが、すぐに力を抜いて何も言わずに僕の頭を優しく撫で始める。
途端にもたらされる安堵感。
触れるはずはないのに、彼女の白魚のような指が激務でささくれ立った僕の心まで優しく慰撫しているようで。
少しだけ、弱音を吐いてみようか。
「…疲れた」
「お仕事忙しかったの?」
「少しね」
「そう…」
年上の彼女は僕の頭をぎゅっと抱き締めた。
「お疲れ様。偉いね、雲雀くん」
簡素だけれど心が篭った言葉だと、その声色で分かる。
柔らかく、温かい声。
昴琉なら褒めてくれると分かっていたけれど、やはり労いの言葉をかけられるのは気恥ずかしい。
僕は黙って瞼を閉じ、トクントクンと心地好いリズムを刻む彼女の心音に耳を傾けた。
こんなにも傍にいたいと思った人はいない。
こんなにも僕を癒してくれる人も。
不便なこともあるけれど、帰る場所があるっていうのも悪くない。
貴女に逢う以前の僕なら、並盛以外にそんな感情持たなかっただろうね。
最愛の人の温もりをもっと感じたくて、僕は彼女の腰に回した腕に力を込めた。
彼女もそれに応えるように僕の頭にキスをひとつ落す。
暫くの間、抱きついたまま離れない僕を優しく抱き留めていた昴琉は、ぽんぽんと軽く促すように僕の頭を叩いた。
「そろそろ着替えてらっしゃい。その間にシチュー温め直すから」
「面倒だから貴女が着替えさせてよ」
「んもう!バカなこと言ってないで、ほら、立つ!」
顔を真っ赤にした年上の彼女は、腕を引っ張って僕を椅子から立ち上がらせた。
2010.2.19
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