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玄関で革靴を履いて昴琉の方を振り返る。
数日前までとは比べられないほど明るい彼女の表情に、僕はホッと胸を撫で下ろした。
貴女が元気になってくれたのは嬉しいけど、今度は違う意味で仕事に行きたくなくなるな。
そんなに愛らしい笑顔を向けられては、今すぐにでも咬み殺したくなってしまう。
仕事を休む理由を考え始めた自分に心の中で苦笑して、僕は柔らかい微笑を浮かべている昴琉に普段と変わらぬ笑顔を向けた。
「それじゃ行ってくるよ」
「うん、気をつけてね。…ぁ」
僕の言葉に頷いた彼女は、その直後何かを思い出したように声を漏らした。
少し言い難そうにしながら僕を見上げる。
「あのね、午後京子ちゃんとハルちゃんにお茶に誘われてるんだけど…行ってきてもいい?」
「…あの二人と?」
「うん、新しいカフェが三丁目の住宅街にオープンしたんだって。
そこのシブーストがすっごく美味しいらしいの」
「三丁目…」
僕は少し迷った。
目立った動きはないとはいえ、まだ六道骸が昴琉を狙っている可能性は捨てきれていない。
出来れば外をうろつかせたくないのが本音だ。
僕がついていければそれに越したことはないが、生憎今日の午後は駅前のホテルで毒サソリと会うことになっていた。
勿論昴琉には内緒で。
彼女に知られてしまっては折角の計画も水泡に帰す。
三丁目の住宅街ならば僕達が鉢合わせることはないか…。
だが万が一彼女の身に何か起こってはそれこそ困る。
「あ、いいのいいの。ごめんね、困らせて。
またの機会に誘ってもらうことにして、今日は大人しくしてるわ」
迷っている僕を気遣ったのだろう。
昴琉は申し訳なさそうに眉尻を下げて微笑み、パタパタと手を振った。
彼女達と群れるのを許可はしたけれど、僕が外に出て欲しくないことを聡い彼女は心得ている。
ダメ元で訊いた感じだが、本当なら出掛けたくて仕方ないはずだ。
僕の気持ちを酌んでくれるのは嬉しいけれど、我慢させるのは本意じゃない。
昴琉の遠慮癖はまだまだ抜けそうにないね…。
僕は短く息を吐いた。
「いいよ」
「え、いいの?」
「但し条件付でね」
「条件?」
「行き帰りは哲に送迎させるから、決してひとりにならないこと。
必ずオルゴールボールを身につけて、携帯を持っていくこと。
それから…」
僕は一度言葉を切って、昴琉の細い腰を素早く抱き寄せる。
そして驚いている彼女の顎に手をかけて上向かせ、少し長めのキスをした。
解放して頬を赤らめた彼女の濡れた唇を親指でなぞる。
「その美味いって評判のシブースト、僕の為に買ってくること。いいね?」
「…うん!必ず買ってくるわ!ありがとう、雲雀くん」
花が咲くように破顔した昴琉は、嬉しそうに僕の胸に擦り寄ってきた。
そんな彼女が愛おしくて頭にキスを落とす。
…参ったな。本当に仕事行きたくなくなってきた。
***
「ありがと、草壁くん。送らせちゃってごめんね」
開けられた助手席の窓を覗き込んで、あたしは運転席に座っている草壁くんに声を掛けた。
いくら雲雀くんの命令だとはいえ、私事で彼に送迎してもらうのは気が引ける。
「礼には及びませんよ。
恭さんの大切な人である前に、桜塚さんはオレの友達ですからね。これくらい朝飯前です」
そう言って彼は白い歯を見せて笑った。
あたしに気を遣わせまいとそんな言い方して…優しいな、草壁くん。
でも友達だと思ってくれているのは本当みたい。
雲雀くんの手前敬語で話しているけれど、彼のいない所では一人称が「オレ」になるんだよね。
些細な変化かもしれないけど、あたしはそれが嬉しかった。
あたしも彼に微笑み返す。
「それじゃお礼に草壁くんにもシブースト買ってくるわね」
「それは有り難い。…おっと笹川さんと三浦さんをお待たせしてしまいますね。
では後程お迎えに上がります。楽しんで来て下さい」
「うん、ありがとう。また後で」
草壁くんは軽く頷くと車を発進させた。
あたしはそれを見送って、後ろで待っていてくれたハルちゃんと京子ちゃんとカフェに向かって歩き出す。
二人の情報によると外見は普通の住宅なんだけど、中を西洋風に改装してあるんだって。
店内に飾ってあるアンティークの置物や雑貨は買うことも出来るんだとか。
うーん!楽しみ!
彼女達の案内で細い路地へ踏み入る。
おぉ、隠れ家っぽい。
益々期待に胸膨らむ中、京子ちゃんは「あれ?」と首を傾げた。
「いつもなら路地の入り口に看板出てるのに…」
「そうなの?」
「ここのカフェ奥まった所にあるから、お客さんが通り過ぎないように看板を目印に出しておいてくれてるんです。
ほら、本日のメニューとか書ける黒板の」
「あぁ、あれね」
「あああぁぁぁーーー!」
前を歩いていたハルちゃんが突然声を上げて、一軒の住宅の前に走り寄る。
あたしと京子ちゃんも彼女の後を追った。
その門にはホワイトボードが掛けられていた。
「臨時、休業…」
「はひー!定休日ちゃんと確認してきたのにー!うぅ、ツいてないですぅ」
「ごめんなさい、昴琉さん!折角ヒバリさんからお許しが出たのに…」
「ううん。残念だけど、臨時休業じゃ仕方ないわよ。
カフェが無くなっちゃったんじゃないんだし、近いうちにまたリベンジしましょ?」
「はい!」
「そうですね!」
あたしの提案に二人はそれぞれにっこり笑って返事をしてくれた。
きっとこの娘達モテるだろうな。
可愛いし、素直だし、何てったってこの笑顔!
雲雀くんとはまた違う感じで癒されるのよね。
お友達になってもらえて本当に良かった。
頬が緩んでいるあたしに、京子ちゃんは困り顔で訊ねてきた。
「でもこれからどうしましょう…」
「折角三人で会えたんだし、このまま帰るのは勿体無いわよね」
「そうだ!確か駅前のホテルでケーキバイキング始めたって、チラシが入ってました!」
「わぁ、ケーキバイキング?!行きたい行きたい!」
「駅前ならデパートでショッピングも出来るし、いいかもね」
「それでは意見も合ったことですし、昴琉さん、京子ちゃん、レッツゴーです!」
ハルちゃんは元気よくそう言ってあたしと京子ちゃんの間に身体を滑り込ませた。
そして片方ずつ腕を絡めてあたし達を引っ張るように歩き始める。
評判のシブーストが食べられなかったのは残念だったけど、こうして彼女達と遊ぶのも楽しいから結果オーライかな?
あぁ、でも雲雀くんと草壁くんに買って帰る約束したのにどうしよう。
ホテルでも買えるかな。
美味しいケーキ売ってるといいんだけど…。
迎えに来てくれる草壁くんには後で連絡を入れることにして、あたし達は一路駅前のホテルに向かった。
***
三丁目のカフェから駅前のホテルまでは少し距離があったけれど、三人で雑談しながら歩いていたからあっという間に着いてしまった。
背筋をピンと伸ばしたホテルマンににこやかに迎えられ、あたし達はロビーに足を踏み入れた。
初めて中に入ったけど、わぁ…柱も床も壁も一面大理石だよ。
見上げるほど高い天井からは落ちないのが不思議なくらい大きくて煌びやかなシャンデリアが吊るされ、中央の階段には遠目でも分かる上質な赤いカーペットが敷かれている。
こんなに立派な所ならもっとお洒落してくれば良かったかな。
ケーキバイキングを行っているビュッフェは17階。
豪華さに圧倒されつつエレベーターの前まで移動して、それが下りて来るのを待つ。
そういえばここって、雲雀くんとビアンキさんが一緒に出てきたホテルだよね。
こんな高級ホテルで一体何をしているんだろう。
―――――もしかして鉢合わせしたりして。
バカバカしい自分の考えに小さく首を振る。
そんな偶然、滅多に起こるもんじゃないわよね。
そう思っていたのに。
知らない振りをしようとしていた罰が当たったのだろうか。
チン!と音が鳴って到着したエレベーターの中から現れたのは、今一番逢いたくない人物だった。
「雲雀、くん…?」
「!昴琉…」
あたしに気付き切れ長の瞳を見開いた彼の隣には、ハッとした表情のビアンキさん。
一瞬にして和やかだった空気が変わり、京子ちゃんとハルちゃんが傍で息を呑むのが分かった。
ど、どうしよう…!
まさか本当に鉢合わせするだなんて…!
あり得ないと思っていた状況に、心臓がバクバクして変な汗が出てくる。
ピンと張り詰めた空気。
眼前の雲雀くんは気不味そうに視線を逸らして、真一文字に口を結んでいる。
自分がここにいる理由に触れて欲しくないって顔だ。
だけど何故あたしに内緒でビアンキさんと会っていたのか問い質すなら、こんなに適した場面はない。
ないんだけど……
喉元まで上がってきた詰問の言葉をあたしはぐっと堪えた。
今更ジタバタしたって仕方ない。
当初抱えていた疑惑は京子ちゃんとハルちゃんが否定してくれているし、時期が来ればきっと密会の理由を雲雀くん自身が教えてくれるとも言っていた。
だから今は時期じゃないんだ。
閉まりかけたエレベーターのドアをボタンを押して止める。
あたしは出来る限り平静を装って笑顔を浮かべ、雲雀くんに話しかけた。
「雲雀くんお仕事?」
「…あぁ。昴琉は?」
「実はね、例のカフェ行ったんだけど、臨時休業だったからこっちのケーキバイキングにしたの」
「そう」
「じゃ、お仕事頑張って。また後でね」
何とも白々しい会話を雲雀くんと交わして、ハルちゃんと京子ちゃんにエレベーターに乗るよう視線で促す。
ハルちゃんは困ったように雲雀くんの方を盗み見た。
「でも…」
「いいから。行こ?」
「待って」
エレベーターに乗り込もうとしたあたしの腕を捕まえたのは、雲雀くんではなくビアンキさんの方だった。
「貴女が昴琉ね?」
「は、はい」
展開に驚きつつこくんと頷くと、ビアンキさんはあたしに優しい笑みを向けた。
そして雲雀くんを軽く睨め付ける。
「こうなってしまった以上、もう言い逃れは出来ないわ。潮時よ、ヒバリ」
潮時って何?…どういう意味?
雲雀くんは唇を固く結んだまま何も答えない。
そんな彼に京子ちゃんが声を掛けた。
「あの、ヒバリさん…余計なお世話かもしれないけど、ちゃんと説明した方がいいと思います」
「ハルも京子ちゃんの意見に賛成です。
好きな人を不安にさせるのはやっぱり良くないですよ!」
ビアンキさん、ハルちゃん、京子ちゃんの非難の視線を受けて、沈黙を守っていた雲雀くんは観念したように深々と溜め息を吐いた。
「…分かった。全て話そう」
2010.8.6
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