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いつの頃からか、気が付けば『幸せ』を感じるのが怖くなっていた。
それは大きなものほど喪失感も大きい。
そうと分かっていても手を伸ばしてしまうのは、結局その甘美な誘惑に耐えられないから。
幾度もこの手から滑り落ちていった『幸せ』。
けれど雲雀くんに出逢って、無くならない『幸せ』もあるのだと知った。
決して同じ形で存在し続けるのではないけれど、確実にそれは育ち、あたしを包んでくれている。
***
暗闇の中で鮮やかに咲き誇る桜。
その下では今夜もやはり同じ光景が繰り返されていた。
異なっていたのはそれを見つめるあたしの心。
愛しい彼に銃を突きつけ引き金を引く自分の姿をジッと見つめる。
―――――もう、目を逸らさない。
銃声に一瞬身が竦んだが、あたしは最後までしっかり見届けた。
…大丈夫。
緊張を身体の外に逃す為に小さく息を吐き、恐らく背後にいるであろう人物に声をかける。
「骸くん。いるんでしょ?」
「―――おや、気付いていたのですか」
少しの間を置いて背後に骸くんが現れた。
あたしは肩越しに視線を送ってそれを確認する。
「おかしいと思ったの。
こちらに来てからあの時の夢は見なくなっていたのに、急に何度も見るようになったから。
―――君が見せていたのね?」
「クフフフ…バレてしまっては仕方がありませんね」
「どうしてこんなこと…」
「言ったでしょう?僕は貴女が好きだと」
ゆっくりとこちらに歩いてきた彼は、綺麗なオッドアイを細めて柔らかく微笑んだ。
また気障な台詞をさらりと…。
つまり骸くんはあの夢を見せることで罪悪感を膨張させて、あたしに雲雀くんを諦めさせようとしていたってことよね…?
その理由があたしを好きだから?
…うーん、どうも腑に落ちない。
あたしは悪びれた様子も無く微笑む骸くんに向き合い、訝しんで訊く。
「本当の、本当に?」
「本当の、本当です」
「……もしあたしを餌に雲雀くんに何か仕掛けるつもりなら、許さないわよ」
牽制の為にわざと声を低くして言い放つ。
そんなあたしを骸くんは少し驚いたように目を見開いて見つめた。
けれどそれも一瞬。
オッドアイを細め、彼はすぐにいつもの微笑をその端整な顔に浮かべる。
「何故そう思うのです?」
「だって何度か夢で会っているとはいえ、君に好かれるようなことしてないもの。
それならあたしを利用して、雲雀くんに何かするんじゃないかと考えた方がしっくりくるわ」
「なるほど。なかなか鋭い推察ですが、正解ではない」
正解ではないけれど間違いでもないのなら、彼が雲雀くんに危害を加える可能性は捨てきれない。
だとしたらいくら恩人とはいえ見過ごすことは出来ない。
そんなことさせないんだから。
あたしは骸くんの微笑みの奥に隠された真実を読み取ろうと、綺麗なオッドアイをジッと覗き込んだ。
探る視線をものともせず暫く愉しそうにあたしを見つめ返していた彼は、ゆっくりと語り始めた。
「…初めはそのつもりでした。貴女を利用して彼を排除しておくのもいいかと。
―――けれど、ふと興味が湧いてしまった。
あの雲雀恭弥が愛した女性がどんな人物なのか…僕はとても知りたくなったんです」
美しい双眸に見つめられて、あたしは一瞬たじろいだ。
「だから何度も昴琉の夢に入り込みました。
気付けば彼に向けられた貴女の想いを自分に向けて欲しいとまで思っていたんですよ。
―――――どんな手段を使ってもね」
「…だからあんな夢を見せ、遥のことまで持ち出したっていうの?
だとしたら逆効果よ。正直ちょっと骸くんのこと嫌いになりかけたもの」
「そのようですね」
骸くんは小さく苦笑を漏らした。
そのようですねって…からかっているのか本音なのか、骸くんって思っていることが分かり難いな。
雲雀くんも似たようなところがあるけれど、良くも悪くも素直だから、彼の方が断然感情が読み取り易い。
苦笑していた骸くんは口元を引き締め、赤と青の瞳をスッと細めた。
「昴琉。貴女はこの間、偽りは要らないと言いましたね?」
「…えぇ」
「それは僕も同じです。
―――だから敢えて貴女と『契約』はしません」
真っ直ぐにあたしを見据える彼の視線が、見えない縄となって身体の自由を奪う。
それが分かっているのかいないのか。
骸くんはあたしとの距離を詰めると、動けないあたしの身体をそっと抱きすくめた。
「…僕は貴女に触れたい。
勿論夢やクロームの身体を借りるのではなく、自分自身の身体で。
その為なら脱獄不可能と言われる復讐者の牢獄からでも抜け出して見せましょう」
上から降り注ぐ切なげな骸くんの声。
それはあたしを抱く腕よりもきつく心を締め付けた。
―――――本当に骸くんはあたしを好きで、必要としてくれているの…?
もしそうならば、嬉しい。
嬉しいけれど……彼の望む形で応えることは出来ない。
情に絆され応えてしまえば、それは忽ち互いに望まない『偽り』に変わる。
あたしが雲雀くんを愛している限り、必ず。
少し多めに息を吸って決意を固め、あたしは吐き出す空気に答えの言葉を乗せた。
「ありがとう。でも、ごめん」
「…それは僕の気持ちに応えられないという意味ですか?」
腕を緩め顔を覗き込んできた彼を見上げ、あたしはこくんと頷いた。
骸くんの端整な顔が曇る。
申し訳ない気持ちでいっぱいになるけれどあたしは言葉を続けた。
「雲雀くんを送り帰したあの時は、彼が存在していてくれるだけで幸せだと思ってた。
傍にいられなくても、別の世界で生きていてくれさえすれば幸せだって。
―――――でもね、ダメだったの。
ずっと待っていてくれた雲雀くんに逢って、あたし欲張りになっちゃったみたい」
「昴琉…」
眉尻を下げて苦笑するあたしを、骸くんは形の良い眉を顰めて見た。
「骸くんの気持ちは凄く嬉しい。
こちらへ連れてきてくれた君の頼みなら何だって聞いてあげたい。
だけど…あたしは雲雀くんに愛されたい。彼だけを愛して、彼の為だけに生きたい」
目を逸らさずに自分の気持ちを素直に告げる。
そうする以外に好きだと言ってくれた骸くんに誠意を示す方法が思いつかなかった。
骸くんはそっと瞼を閉じて、小さく笑う。
「やれやれ…貴女ならそう言うと思っていましたよ」
「骸くん…」
「クフフ、仕方ありません。今は大人しく退きましょう。
僕が自由の身になるまでは、雲雀恭弥に貴女を譲っておきます」
「譲ってって…!だからあたしは…?!」
雲雀くんのものだってばと言いかけたあたしの口に、骸くんはスラッと長い人差し指を押し当てた。
「彼なら護衛に丁度いいですからね。
精々僕の代わりに昴琉を護って頂きましょう」
護衛って…。
雲雀くんが聞いたら烈火の如く怒りそうなんですけど。
あぁ…彼が愛用のトンファーを振り回して骸くんに襲い掛かる光景が容易に想像出来る…。
っていうか話が掏り替わってる!
振られたというのにいつものように微笑を浮かべ憎まれ口を叩く骸くんの姿は、ふとあたしに彼が幻術を操るのだという事実を思い出させた。
もしかしたらこの微笑みは本音を隠す為の幻術なのかもしれない。
あたしは骸くんの胸を軽く押し、緩んでいた腕の中から逃れた。
「前にも言ったけど、あたしに出来ることがあったら言ってね。
君のものにはなれないけれど、骸くんに感謝していることに変わりはないから」
「クフフ…昴琉は本当にお人好しですね」
「みたいね。雲雀くんにもよく言われる」
そう答えて笑うあたしに骸くんは少しだけ淋しそうな視線を向けた。
けれどすぐににっこり微笑む。
「さて、そろそろ僕は行きます。
…また夢にお邪魔してもいいですか?」
「ダメって言っても来るんでしょ?」
「無論です」
「全く…君も雲雀くんに負けず劣らずしょうのない子ね。
…またね、骸くん」
振ろうとしたあたしの手を素早く掴まえて、骸くんはその甲に軽く音を立ててキスをした。
んもう!油断も隙もあったもんじゃない。
いくら道標だと言われたって、雲雀くん以外の人にキスをされるのは抵抗がある。
…雲雀くんにキスされるのもドキドキするから困るのだけれど。
顔を赤くしたあたしを見て気分を良くしたらしい骸くんは、艶っぽい笑みを浮かべて別れを告げた。
「…Arrivederci、昴琉」
彼が手を離すと同時にグラリと歪む視界。
ごめんね、骸くん。
でも、ありがとう。
謝罪と感謝。
その二つの気持ちが、この夢の最後にあたしが感じた意識だった。
2010.7.10
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