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あれから少し眠って遅めの朝食を取った。
あたしの為に仕事を休んでくれた雲雀くんは、本当にずっと一緒にいてくれた。
しかもただ一緒にいてくれるだけじゃなくて、必ずあたしに触れていてくれて。
手を繋いだり抱き寄せてくれたり、その方法は色々。
雲雀くんが傍に居てくれると凄く安心する。
不思議だよね…君のことで悩んでいるのに。
天気がいいからとキッチンの椅子を運び出してベランダでお茶をすることになった今も、雲雀くんはあたしの手を握っていた。
反対側の手には少し水滴の付いたグラス。
いつもはホットだけど、今日は少し汗ばむくらいの陽気だったからアイスコーヒーにした。
雲雀くんがそれに口を付け傾けると、中の氷がカランッと涼しげな音を立てる。
続いて上下する彼の喉仏を、あたしは何となく見つめていた。
同じ人間なのに、君にあってあたしにないモノ。
男と女の違い。
視線に気付いた雲雀くんはちょっと小首を傾げた。
「何」
「へ?あ、いや美味しそうに飲むなぁっと思って」
笑って誤魔化して視線を逸らし、あたしもアイスコーヒーを一口飲んだ。
雲雀くんは小さく息を吐いて、「嘘吐き」と手に持ったグラスであたしの頭を小突いた。
「上の空だったクセに」
少しムッとした顔で雲雀くんはあたしを睨む。
うぅ…本当に何でもお見通しなのね。
「ごめん」
「二人きりの時は僕のことだけ考えて」
「うん」
こくりと頷くと雲雀くんは表情を和らげた。
そして彼は繋いでいた手を離すと、今度はあたしの肩に手を回して自分の方に引き寄せ、軽く頬にキスを落す。
その刹那、香ばしいコーヒーの香りがふわりと鼻先を擽った。
誘われるように彼の方を向くと、形の良い彼の唇と自分のそれが重なる。
まるでそうなるのが当たり前みたいに、自然に。
それとは逆にあたしの心臓は不自然なリズムを刻む。
ドキドキと高鳴る胸が気になるけど、与えられる甘い刺激に身を任せる。
軽く啄ばんで離れた雲雀くんは、何かを思いついたように口を開いた。
「そうだ、昴琉。髪切ってよ」
「ん、いいわよ。大分伸びたもんね。
風もないし天気もいいから、ここで切ろっか?」
「あぁ。それもいいね」
「じゃ、決まりね!ちょっと待ってて」
あたしは雲雀くんに笑顔を向けて、散髪の準備をする為に椅子から立ち上がった。
***
チョキン…チョキン…
雲雀くんのふわふわの黒髪を少しずつ掬って切っていく。
こちらに来てからもあちらにいた時同様、あたしが雲雀くんの髪を切っていた。
離れていた間はやっぱり草壁くんに切ってもらってたのかしら。
すっかり大人になった二人が、散髪したりされたりしている姿を思い浮かべるとちょっと面白い。
一生懸命に雲雀くんの髪を切る草壁くん…実際に見たいかも。
髪を切るという行為は勿論テクニックも必要だけれど、それ以上に注意力が必要とされる。
恐らく急に雲雀くんが髪を切れと言ったのも、それを狙ってのことだと思う。
あたしが余計なことを考えないようにという、彼なりの配慮なのだ。
『僕のことだけ考えて』というのもそう。
それは雲雀くんにお願いされるまでもない。
二人きりじゃなくたって、いつもあたしは君のことばかり考えている。
そう、夢の中でだって…。
嫌なことを思い出して、ちょっと眉を顰める。
骸くんはあたしが罪悪感から雲雀くんを好きだと思い込んでいると言った。
そして雲雀くんが不実だとも。
あの時は動揺してしまったけれど、あたしの想いに関しては疑いは無い。
確かに彼を騙して帰してしまったことに罪悪感はある。
けれど思い込みだけでこちらの世界に留まる覚悟なんて出来るものですか。
自分の気持ちだからこそ自信が持てる。
あたしは雲雀くんが好き。
じゃぁ雲雀くんが不実かどうかは?
…元彼との別れた経緯を知っているのに、果たして雲雀くんが同じ仕打ちをするだろうか。
プライドが高く賢い彼がそんな愚行をするとは思えない。
それに自惚れかも知れないけれど、雲雀くんに愛されているという実感もある。
ただ怖いのは…それが自分だけに向いているのかどうか、だ。
男性は同時に複数の女性を愛せるとどこかで聞いた。
雲雀くんと話していたビアンキさんを思い出す。
女のあたしから見ても、とても魅力的で率直に綺麗な人だと思った。
スタイルも良くて、まるでモデルさんみたいで。
競って勝てる相手とは思えない。
―――――もし、雲雀くんがあたしに向けてくれている感情を、彼女にも抱いていたら…?
そこまで考えて彼の髪を切る手が止まる。
自分の恐ろしい想像に寒気がした。
手が止まったことを不思議に思った雲雀くんに「昴琉」と名前を呼ばれてハッとする。
「な、何?」
「…凄く視界が開けたんだけど」
「へ?……ぁ」
丁度今あたしは雲雀くんの前髪を切っていたのだけれど…ざっくりとそれは短くなっていた。
いつもは長めの前髪で隠れていた形の良い眉が露になっている。
や、やだ。どうしよう。
考え事してたから他の部分と同じ感覚で切っちゃった…!
うろたえるあたしを雲雀くんは上目遣いで睨む。
「まさか…ぼんやりしてて切り過ぎたなんてこと…ないよね?」
「ま、まさか!そんなことあるわけないじゃない。
計画通りよ。うん。そう、計画通り!」
「……ふぅん。鏡を見るのが楽しみだな」
「あは、あはは」
雲雀くん、口は笑ってるけど目が笑ってないよ…!
自分の失敗と彼の黒い笑顔に、悪い方向へ流されていた思考は一瞬で吹き飛んでしまった。
こ、これはもう考え事なんてしてる余裕はない。
本腰を入れてキチンと仕上げなければ、彼に何をされるか分かったもんじゃない。
深呼吸をして気持ちを引き締め、あたしは再び彼の髪にハサミを入れ始めた。
***
「よし、完成!はい、鏡」
あたしに渡された鏡を覗き込んだ雲雀くんは、一瞬その綺麗な漆黒の瞳を見開いた。
「……短い」
「ほ、ほら。いつもと一緒じゃつまらないでしょ?
それにさっぱりしていいんじゃないかな〜…なんて」
「……」
あたしの苦しい言い訳には答えず、無言で鏡を覗き込む雲雀くん。
変じゃないと思うけど、やっぱり短過ぎたかな…。
うっかり切り過ぎてしまった前髪に合わせて、一か八か他の部分も何とか形になるように切り揃えたのだ。
雲雀くんは大分短くなった髪の先を指で摘んで引っ張ったり、角度を変えて何度も鏡に映る自分を確認した。
あたしはそれをソワソワしながら見守る。
黙って鏡を見つめていた雲雀くんがポツリと呟いた。
「悪くないね」
「でしょ?きっとスーツにも合うわ」
「そうかな」
「そうよ。それに戦う時にも視界が広い方がいいでしょ?」
…今思いついただけだけれど。
何とか彼を納得させようとあたしは思いついた台詞を畳み掛ける。
雲雀くんは二三度前髪を払った。
「…上手く失敗を誤魔化したね。
今回はその腕に免じて咬み殺さないでおいてあげる」
「え?!」
雲雀くんは意地悪な笑みを浮かべて立ち上がると、「頭洗ってくる」と言って呆然とするあたしの肩をポンッと叩き部屋の中に入っていった。
しっかりバレてた。
あたしはへなへなと今まで雲雀くんが座っていた椅子に腰掛ける。
怒られるかもしれないと覚悟していたが、どうやら気に入ってくれたみたいだ。
良かったぁ…。
ほぅっと胸に溜まった空気を吐き出して空を見上げる。
深い青が眩しくて目に痛い。
ベランダにひとり残されたあたしの頭に、また先程の悪い思考が舞い戻ってきた。
大きな溜め息をひとつ零して椅子の背に凭れる。
…酷い別れ方をしてしまったけれど、また骸くんと会うことになるんだろうな。
キス、しちゃったし…。
不意に戻って来たあの時の感覚に、チクリと胸が痛んだ。
あたしを好きだと言ってくれた骸くんには悪いが、戯れだと思いたい。
もし本気ならば、口の上手い彼とまともに向き合って、正直かわせる自信がない。
遥のことまで引っ張り出されて、薄れていた懐郷の念が湧き上がる。
雲雀くん…あたしどうしたらいいのかな?
いくつもの想いが入り乱れて不安に揺れる心を静めようと、あたしは自分の左手に嵌められた指輪をそっと右手で撫でた。
2010.2.7
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