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81


冷たくなる指先に必死で血液を送ろうと、ドッドッドッと心臓が忙しなく脈打ち始める。

あたしが…思い込んでいる…?
骸くんは何を言っているの?
雲雀くんへのあたしの想いが偽りだと言うの?

あたしは頭を激しく振って否定した。


「ち、違うわ…ッあたしは本当に雲雀くんを…!」

「それなら何故動揺しているのですか?
 たとえ僅かでも、そう考えたことがあったからではありませんか?」

「やめて…ッ」


そんな話聞きたくない…!
あたしは彼から逃れようと力一杯身を捩ったが、無駄な抵抗だった。
骸くんは余裕の笑みさえ浮かべて話を続ける。


「クフフフ…否定することはありませんよ。それは貴女の優しさですから。
 不実なあの男には勿体無いくらいです」

「ふ、じつ…?何、言ってるの…?」

「恍けなくとも。
 彼が貴女以外の女性と逢っているのを見てしまったんでしょう?」

「!!」


クスッと小さく笑って、骸くんはあたしの目の前でパチンッと指を鳴らした。
するといつもの夢が忘れようと心に仕舞った光景に変わる。

偶然見かけてしまった雲雀くんとビアンキさんの密会。

目の前の光景はあたしからは見えなかった雲雀くんの顔が見えた。


―――――優しく微笑んでいる顔が。


どうして雲雀くんはそんな顔で笑っているの?
どうしてビアンキさんにそんな優しい笑顔を向けているの?

どう、して…?

激しく脈打つ胸が痛い。
抵抗を忘れ愕然と立ち尽くしたあたしに、骸くんは追い討ちをかける。


「言っておきますが、これは僕の作り出した幻ではありませんよ。
 クフフフ。昴琉一筋に見せかけて浮気なんて、彼もなかなかやるじゃありませんか」

「雲雀くんは浮気なんてしないわ…!」

「本当にそう思いますか?貴女と再会するまで5年。
 彼だって男だ。
 目の前に魅力的な女性が現れたとしたら、淋しさを埋める為にフラリと気持ちが揺らいだっておかしくない」

「雲雀くんはそんなことしない…ッ」


だって否定してくれたもの…!
あたしだけだと言ってくれたもの…!
ぎゅっと拳を握る。
掌に食い込む爪と冷たい指先の感触で、ともすれば折れそうな自分を奮い立たせる。
これは夢よ。
あたしは雲雀くんを信じると決めたんだ。
詰まる喉からあたしは声を押し出した。


「骸くん…どうしてそんな意地悪なことを言うの?」


彼があたしと雲雀くんの仲を裂こうとする理由が分からない。
しかも自分のところへ来いと言う。
何も出来ないあたしを傍に置いたところで、足手纏いにしかならないというのに。


「そんなの決まってるじゃないですか。貴女のことが好きだからですよ」

「…え?」


口調も変えずあまりにもさらりと骸くんが言ってのけるから、あたしは思わず聞き返してしまった。
今骸くん、あたしを好きだって、言った…?
ぎこちない動きで首だけ回して振り返ると、柔らかく細められたオッドアイと視線が絡む。


雲雀くんに見られているようだと感じた理由はそれ…?


万が一にも考えていなかった結論に頭が混乱する。
訳が分からない。
骸くんは一度腕を緩めてあたしを自分の方へ向かせるとぎゅっと抱きすくめた。


「貴女が好きです、昴琉。
 あんな不実な男は止めて、僕のモノになって下さい」


甘く、どこか切なさが漂う骸くんの告白の言葉が、あたしの弱った心を揺さ振る。
彼の胸に触れる頬から伝わる少し速めの鼓動も動揺を誘う。

冗談、だよね?
またからかわれてる?

あぁ…冷静な判断が出来ない。
もし仮に彼の気持ちが本当だとしても、あたしは…。
恐る恐る顔を上げて骸くんを真正面から見据え、あたしは拒否の言葉を口にする。


「……ダメよ。君だってあたしが雲雀くんを好きなの知ってるでしょ?
 それに何があってもあたしは彼の傍にいるって決めたの」

「僕よりも貴女を閉じ込めて他の女性と密会するような男を取るというのですか?」

「そういう言い方はやめて。何か理由があるのよ。
 あたしは雲雀くんを信じてる。彼はあたしに嘘は吐かない」

「昴琉…嘘を吐かないことは決して真実を語ることと同義ではないのですよ?」


骸くんの正論にあたしは唇を噛み締めた。
そんなこと、分かってる。
雲雀くんは嘘は吐かない。
だからといってあたしの知りたいことを必ずしも教えてくれるわけではない。

今だってそうだ。

何かが起こっているのに教えてくれない。
仕事のことも、ビアンキさんのことも。
彼の態度は都合の悪いことを隠しているようにも取れる。
けれど…彼には彼の考えがあるのだと、決して不実なのではないと思うから。
震えそうになる声を抑え、あたしは骸くんをキッと睨んだ。


「これ以上彼を悪く言うのなら、いくら骸くんでも許さない」

「気丈、ですね。クフフフ、そこがまた魅力的で堪りません」


骸くんは悪びれた様子もなくにっこり笑い、何やら考える素振りで瞳を閉じた。
そしてゆっくりそれを開ける。


「いいでしょう。今すぐに雲雀恭弥を見限れとは言いません。
 急に僕を好きになれというのも難しいでしょうし…まずは夢の中だけでも僕のモノになりませんか?」

「なっ!バカなこと言わないで…っ君、あたしに二股かけろって言うの?」

「二股だなんて。少しずつ貴女が僕に本気になってくれればいいだけの話です」

「……夢は夢よ。あたし偽りは欲しくない」

「クフフ…これでも偽りだと言えますか?」


そう言うと骸くんは素早くあたしの唇を塞いだ。
ご丁寧に逃げられないよう後頭部を押えて。
雲雀くんのそれとは違うけれど、温かく柔らかい感触。
それに戸惑ってしまった一瞬の隙を突いて、骸くんはより深く口付けようとした。

い、いや…ッ

自由を奪われたあたしに唯一残された抵抗する手段。
彼の唇にあたしは思い切って噛み付いた。
じわりと口内に鉄の味が広がる。


「…ッ」


骸くんの顔が痛みの為か一瞬歪み、あたしの唇から離れる。
ご、ごめん…骸くん。
彼はあたしに噛まれ血の滲んだ唇をぺろりと自身の舌で舐めた。
そして静かに熱を孕んだオッドアイであたしを真っ直ぐに見つめる。


「ほらね。こんなにリアルだ」


ゾクリとするほど不敵な笑み。
確かに…感情も体温も血の味すらもこんなにはっきり感じる。
骸くんの真剣な瞳を見ていると、本当にこれが夢ではなく現実なのではないかという思いに囚われてしまう。
耐えられなくなって視線を逸らしたあたしを再び抱き締めて、骸くんは更に誘惑の言葉を続けた。


「昴琉、貴女が僕のモノになってくれるのなら…あちらの世界のお友達に会わせて差し上げてもいいですよ」

「ぇ…」

「と言っても夢でですが。僕ならそれが出来る。
 如何です?悪い特典ではないでしょう?」


―――遥に、会える?
親友である彼女に何も言えずこちらに来てしまったことは、あたしにとってかなり心残りだった。
二度と会えないと思っていたからこそ、諦めもついたというのに。
突然降って湧いた話にあたしの心はぐらぐらと揺れた。

楽しい時も悲しい時も。
いつもあたしを支えてくれた遥。
大切なあたしの親友。


―――――遥に会いたい。


それは正直な気持ちだった。
このまま元の世界を忘れ雲雀くんと暮らすか。
それとも雲雀くんとの関係を断って骸くんを受け入れ、再び元の世界との繋がりを結ぶか。
骸くんはあたしにとって大切な二人を天秤にかけろと暗に言っているんだ。

次から次へと畳み掛けられ、唯でさえ不安で弱っていた心が悲鳴を上げた。
それは雫となって溢れ出し、頬を伝う。


「…で…ッ」

「昴琉…?」

「見損なわないで…!」


声を絞り出しそう言うのが精一杯だった。


「…すみません。僕としたことが、些か焦り過ぎたようですね。
 でも昴琉、これだけは憶えておいて下さい。
 ―――――僕は本気です」


骸くんは少し淋しそうに笑って、涙に濡れたあたしの頬を指先で拭う。
そして髪を一筋掬いキスを落とすと、名残惜しそうにあたしを解放した。
その瞬間視界がぐらりと揺らいだ。

突然突きつけられた嘘と真。


そして誘惑。


混乱するなと言われても無理。


覚醒へ向かうと思われたあたしの意識は、混沌とした暗闇に飲み込まれるように沈んでいく。



深く、暗い、底の更に奥へ。



―――――その中で、微かに口内に残る彼の血の味だけが鮮明だった。



2009.12.14


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