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「うん、うん…大丈夫よ。本当に雲雀くんってば心配性なんだから。
……うん、ありがとう。君もお仕事頑張って。また後でね」
あたしは受話器を戻して人知れず苦笑を漏らした。
いつものように買い物を終えてマンションに帰り、玄関を開けるとタイミングよく電話が鳴って。
慌てて出ると今朝心配そうにしながら仕事に出掛けた雲雀くんだった。
優しい彼は仕事を休んで一緒にいると言ってくれたけど、高が怖い夢を見たくらいで仕事を休ませるわけにはいかない。
勿論その気持ちは胸が締め付けられるほど嬉しかった。
昨夜の夢で雲雀くんを撃つ瞬間の自分の表情を思い出しゾッとする。
あの時に似ていたけど、やっぱり違う。
夢なんてみんな意味不明なもの多いし、気にすることないわよね。
なのにどうしてこんなに引っ掛かるんだろう…。
すっきりしない気持ちのままキッチンへ向かい、買ってきた食材を冷蔵庫に入れていると不意にチャイムが鳴った。
こんな時間に珍しいと思いつつインターホンの画面を見てあたしは驚いた。
「ディーノさん?!」
『よぉ昴琉。ちょっと邪魔してもいいか?』
あたしは逡巡した。
雲雀くんには訪問者が来ても一切出なくていいと言われている。
けれど、ディーノさんなら話は別よね。
「はい。今開けますね」
エントランスのロックを解除し玄関を開けて暫く待っていると、エレベーターの方からひょっこりディーノさんが現れた。
うーん、男の人にいうのも何だけど相変わらず美人さん。
雲雀くんもそうだけど、こっちの世界の人って美男多くない?
…なんか、女として自信なくしちゃうなぁ。
彼はあたしの前まで来ると人懐っこい笑顔を浮かべ「よ!」っと片手を挙げた。
あたしも笑顔で答える。
「いらっしゃい。どうかなさったんですか?」
「ちょっと恭弥に用事があって屋敷に行ったんだが、あいつ居なくてさ。
確か新居この辺りだって思い出して、見学兼ねて待たせてもらおうと思ってな」
「そうなんですか。何もないですけど、どうぞ」
「邪魔するぜ」
ディーノさんを迎え入れリビングに案内する。
取り敢えずソファに座ってもらう。
部屋の中を興味深げに見渡していた彼にコーヒーを出す。
「なかなかいい部屋じゃねーか」
「でしょ?雲雀くんが見つけてくれたんです。
ここね、向こうの世界で住んでたマンションに似てるんですよ」
「え…」
「間取りだけじゃなくて、家具とかカーテンとか。
離れている間に雲雀くんが少しずつ集めてくれていたんです。
だから新しいんだけど、懐かしいような…不思議な感じです」
ディーノさんの隣に腰を下ろして苦笑するあたしに、彼は表情を引き締めた。
「…それって辛くないか?」
「平気です。全くあちらを思い出さないかって言ったら嘘になりますけど、それを辛いとは感じません。
何より雲雀くんがあたしを想ってしてくれたことですから」
今度はにっこり笑って答えると、ディーノさんは軽く目を見開いていたが「そうか」と笑った。
「昴琉は強いな」
彼はあたしの頭に手を伸ばしてわしゃわしゃと撫でた。
ちょっとおどけた態度に気持ちがフッと軽くなる。
優しい人だな、ディーノさんって。
まだ数えるほどしか会ったことのないあたしを心配してくれるなんて。
雲雀くんの家庭教師がこの人で良かった。
暫く談笑しているとガチャッと玄関の方で音がした。
…雲雀くん?
けれど彼が帰って来るにはまだ早い時間だ。
不思議に思った刹那、「ただいま」と雲雀くんの声。
やっぱり雲雀くんだ!
あたしは慌ててソファから立ち上がって玄関に向かった。
「お帰りなさい。今日は随分早かったのね」
「昴琉が心配だったからね」
「雲雀くん…」
さっきも電話してくれたばかりなのに、結局早く帰ってきちゃうなんて…。
彼の深い愛情に、きゅんと胸が狭くなる。
柔らかく笑った雲雀くんはあたしにただいまのキスをしようとして、足元に視線を落とした。
そこにはディーノさんの靴。
途端に彼の表情が険しくなる。
「…誰か来てるの?」
「うん、ディーノさんが…」
「よぉ、恭弥!上がらせてもらってるぜ」
丁度その時あたしの背後からひょっこりディーノさんが現れた。
雲雀くんの眉間に深い縦皺が刻まれ、見る見る不機嫌顔になる。
そしてまずその矛先はあたしに向けられた。
「昴琉。何で家に上げてるの。
訪問者は一切相手にしなくていいって言ったよね」
「ご、ごめんなさい。でもディーノさんだったから…」
あたしの言葉に小さく溜め息を吐いた雲雀くんは、今度はディーノさんに鋭い視線を向ける。
「どうして貴方がここにいるの。この場所は教えていないはずだよ」
「そう警戒するなよ。ちょっとおまえに話が…うわっ」
ディーノさんは爽やかな笑顔を浮かべ、こちらに歩いてきて何もないところで躓いた。
―――あたしの真後ろで。
「ひゃぁっ」
背後から背の高いディーノさんに倒れ込まれ、支え切れずに今度はあたしが雲雀くんの胸に倒れ込む。
わわ、このままじゃ三人共々将棋倒しになっちゃう…!
けれど流石は男の子。
雲雀くんはあたしとディーノさん、二人分のタックルを喰らっても倒れなかった。
つまりあたしは二人の間に挟まれてサンドイッチ状態。
転ばなくて良かったけど、く、苦しい…!
背中にディーノさんの重みを感じつつ、お礼を言おうと雲雀くんの顔を見上げてギョッとする。
さっきまでの不機嫌顔から一変して彼の唇は弧を描いていた。
とってもとっても黒い微笑を湛えて。
あたしにしがみ付いて転倒を逃れていたディーノさんは、危険を察知しバッと離れた。
両手を上に上げて降参のポーズを取り、彼は慌てて弁明する。
「お、落ち着け恭弥!わざとじゃねーから!今のは本当に躓いただけだからな!」
「……へぇ。僕が留守中に上がり込んでおいてよく言うね」
雲雀くんはあたしを自分の背後に隠すように身体を入れ替えると、背筋が凍りそうなほど冷たい視線で自分の家庭教師を見た。
ディーノさんは益々慌てて言い繕う。
「確かに昴琉の顔も見に来たが、オレはおまえに用事があったんだよ!
可愛い教え子の婚約者にちょっかい出そうなんて考えてねーから!」
「言い訳なんて聞きたくないよ。昴琉に何するつもりだったの?」
「だからやましいことは何も…ッ」
「咬み殺す…!」
雲雀くんは殊更黒い笑みを口元に浮かべると、何処からともなく取り出したトンファーを胸の前で構えた。
す、凄い怒ってる…!
ていうか家の中で戦うのやめて…!
「チッヒトの話はちゃんと聴けよ…ッ仕方ねー!」
迫り来る教え子にディーノさんは懐から鞭を取り出し応戦する。
いや、しようとした。
雲雀くんの動きを止めようと彼の振るった鞭は、何故か本人にぐるぐると巻きついてしまった。
…そうだ!ディーノさん部下がいないとダメなんだった!
結局ドテンッと大きな音を立ててディーノさんは廊下に倒れ込んでしまった。
う、うわ、痛そう…。
一瞬の沈黙。
雲雀くんは大きく溜め息を吐いて、構えていたトンファーを下ろした。
「今の貴方を叩きのめしても面白くなさそうだ」
「は、ハハハ…」
「……なんて、僕が簡単に許すと思う?」
雲雀くんは冷たく自分の家庭教師を見下ろすと、トンファーではなくその長い脚でぐるぐる巻きのディーノさんを容赦なく踏みつけた。
「ぐはっ」
い、今の鳩尾入ったよ。
無抵抗の相手にそこまでする?!
雲雀くんはグリグリと踵で踏みつけ、止めと言わんばかりにディーノさんを蹴飛ばした。
ひ、雲雀くん…怖い…。
「―――ッおまえなぁ…少しは年上を敬えッ」
「フン。で、何。僕に用事って」
「あ、あぁ。実は…」
自分に絡まった鞭を解いていたディーノさんは続きを話そうとして、言い淀んだ。
そしてあたしをチラリと見る。
え?え?
察した雲雀くんが口を開いた。
「昴琉、悪いけどちょっと外してくれるかい?」
「あ、うん。それじゃ寝室に居るから、終わったら呼んで」
「あぁ」
「わりぃな、昴琉」
「いいえ」
にっこり笑ってあたしは寝室へ移動する。
することもなくてベッドの上に腰を下ろすとギシッと鳴った。
あたしに聞かせたくない話って何だろう。
…危ないことじゃ、ないよね?
何故だろう…胸騒ぎがして落ち着かない。
雲雀くん…。
少しずつ脈打つ速度が増す胸を押えて、あたしはディーノさんと話しているであろう彼に思いを馳せた。
2009.5.26
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