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ひらり、ひらり。
光の支配が及ばない暗闇の中で儚げに、けれど鮮やかに舞う薄紅色の花弁。
その幻想的な空間にあたしはぽつんと立っていた。
視線で舞う花弁の元を辿れば、暗闇に浮かび上がる桜の木。
咲き誇るその姿に胸が切なく締め付けられる。
―――――あぁ…今年も綺麗に咲いたのね。
もう二度と見る事は叶わないと思っていたあの桜の木。
咲いている場所は違うのに、何故か同じ桜だとあたしには分かった。
あれはあたしの『愛』の証であり、『罪』の証。
よく見ればその下で寄り添う一組の男女。
……雲雀くんとあたしだ。
二人の唇が重なる―――刹那、あたしの意識は桜の下の、雲雀くんとキスをしている自分へと吸い込まれた。
甘く…柔らかな…彼の唇。
あたしの大好きな雲雀くん。
けれど自分の手に伝わる冷たい感触にドクンッと大きく心臓が跳ねる。
あたしの手に握られているのは、雲雀くんを送り帰したあの銃だ。
や、やだ…何で?!
自分の手がまるで別の生き物のように勝手に動き、あの時と同じ様に彼の腹部に銃口を押し付ける。
『……さよなら、雲雀くん』
くぐもって聴こえた台詞は紛れもなく自分の声。
引き金に指がかかる。
お願い!止めて!撃ちたくない!
撃ってしまえばまた雲雀くんと離れ離れになってしまう…!
けれど願い空しく銃声が轟く。
古い映写機で映し出されたように次々とあの時の場面があたしの脳裏を過ぎる。
繋いだ手。
青白い月。
長い石段。
桜の木。
鈍く光る銃口。
そして、驚きに見開かれた雲雀くんの漆黒の瞳。
その瞳に映るあたしは、悦に入った表情でニィッと笑っていた。
まるで雲雀くんとの別れを悦んでいるように。
***
「いやぁぁぁぁぁっ」
ガバッと起き上がる。
ここ、何処?!
暗くてよく見えない…雲雀くんは?雲雀くんは何処…?!
激しい動悸のせいか、まるで耳元に心臓があるようにドクドクと脈打つ音が聴こえる。
胸が苦しくて、呼吸が乱れる。
「昴琉、どうしたの?」
すぐ傍でした探し人の声に一瞬息が詰まった。
慌てて横を向くとあたしに撃たれたはずの彼が、心配そうにこちらを見ている。
「ひば、り…くん」
「ん?」
「ごめ…ごめんなさい…っごめんなさい…!ごめんなさい…!」
彼の姿を認識した途端、あたしの目から大粒の雫が溢れ出した。
唐突に泣き出し取り乱すあたしに、雲雀くんは少々動揺したようだったが、すぐに気を持ち直し両手で涙に濡れた頬を挟んであたしを上向かせた。
「昴琉。落ち着いて」
「あっあ、あたし、また、君を…君を撃って…!」
「しっかりして。僕は撃たれていないよ」
「で、でも!確かにあたし引き金を…ッだってほら…!」
あたしは彼の服をたくし上げて、銃を押し当てた場所、腹部に直接触れる。
けれどそこは滑らかな白い肌があるだけで、何にも痕跡がなかった。
「ど、どうして?あたしは確かに君を…」
「―――昴琉ッ」
パンッ!
雲雀くんは活を入れるように、頬を包んでいた両手で混乱しているあたしの頬を叩いた。
強い刺激に驚いて固まる。
彼はまた先程と同じ様にあたしの頬を包み上向かせた。
暗闇でも変わらず綺麗な漆黒の瞳が、真っ直ぐにあたしを射竦める。
「昴琉、僕は撃たれてなんかいない」
「……撃たれて、ない?」
「あぁ。きっと夢だよ」
「ゆ、め…?」
「そう、夢。だから大丈夫だよ」
夢…。
よく見ればここは寝室で、いつも雲雀くんと一緒に寝ているベッドの上。
彼の着ている服も、勿論パジャマ。
視界の隅には恐らくあたしが撥ね除けた掛け布団。
徐々に彼に叩かれた頬がじんじんしてきて、今が現実なのだと確信する。
「よ、良かったぁ…」
心底ホッとして情けない声が出てしまった。
雲雀くんはあたしを落ち着かせるように、まだ涙に濡れている目尻に交互に唇を寄せる。
取り乱してしまった自分が恥ずかしくて、くすっぐたい。
「落ち着いたかい?」
「…うん。ごめんね、寝惚けてたみたい」
「そう…ところで昴琉」
「ん?」
「寒いんだけど」
「へ?……あっ」
雲雀くんの言葉に自分がまだ彼のパジャマをたくし上げたままだったことに気が付いた。
春とはいえ夜だし、直前までお布団でぬくぬくしていたのだから、急に外気に晒されれば寒いに決まってる。
「ご、ごめん!」
慌ててたくし上げていたパジャマを下ろそうとしたが、その手を止められる。
不思議に思って雲雀くんを見上げると、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「真夜中に僕を叩き起こしたんだ。責任…取ってよね」
「…ぇ?ひゃ…っ」
雲雀くんはあたしを押し倒すと両手首をシーツに縫い止め、自分の唇をあたしのそれに重ねた。
ゆっくりと、深く、優しく。
いつもより殊更濃やかなそれは、未だ不安と緊張で強張っていた心を徐々に解していく。
責任取れだなんて言っておいて、このキスはズルイ。
彼の気遣いが、痛いほどに沁みる。
名残惜しそうに唇を離した雲雀くんは、あたしの頭をそっと撫でながら少し眉根を寄せた。
「…あの時の夢を見たのかい?」
「ううん…違う夢よ」
そう、あれは違う。
あの時桜は咲いていなかった。
似ているけれど、違う。
「そう…」
「雲雀くんがキスしてくれたから、もう平気。
あたしって結構現金よね、ふふ」
「昴琉が望むならいくらでもしてあげる」
「ありがと。でももうキスは十分。
その代わりいつもよりきつく抱いて眠って?」
「お安い御用だよ。安心しておやすみ」
「ん…おやすみ、雲雀くん」
挨拶を交わすと跳ね除けられた掛け布団を再び引っ張り上げて、雲雀くんは自分の胸に閉じ込めるようにあたしをぎゅっと抱き寄せてくれた。
少し痛いけど、これくらいが丁度いい。
雲雀くんが傍にいると感じたいから。
こちらに来てからあんな夢見なかったのに、何故今頃になって……。
この間桜を見たからなのかな。
―――――何故か引っ掛かる。
けれど小さな疑問は、愛しいヒトの温もりにすぐに打ち消されて。
あたしは再び雲雀くんの腕の中で眠りについた。
2009.5.13
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