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63


新居への引越しは本当にあっという間に終わってしまった。
あたしの荷物もまだ少ないし、雲雀くんの荷物もあたし以上に少なくて。
唯一大きかった物といえば彼が買ってくれていた桐の洋服箪笥くらいだ。
マンションに和室はないから合わないんだけど、それでも彼が買ってくれた物だからね。
寝室に運び込んでもらった。

本当にこのマンション、間取りがあちらで住んでいたマンションにそっくりで驚く。
この部屋で初めて迎えた朝は一瞬あちらに戻ったのかと錯覚するほどだった。
横に寝ている雲雀くんが成長していなかったら、本気で勘違いしたかも。

そう、あの頃と同じように。
あたしは大好きな雲雀くんと穏やかで幸せな毎日を過ごしていた。


***


雲雀くんは玄関先で靴を履くと、彼の背後にいるあたしの方を振り返った。


「それじゃ、行ってくるよ」

「いってらっしゃい」


彼を送り出す言葉を紡ぐあたしの顎を掬うとちゅっと軽くキスをする。
すぐに離れるかと思った唇は啄ばむようなキスを繰り返し始めた。
ちょ、ちょっと…!
彼の腕はいつの間にかあたしの逃げ腰をしっかり抱き寄せている。
あたしは徐々に本気でキスをし始めた彼の唇を人差し指で押えた。


「雲雀くん?」


少し顔を赤らめながら、窘めるように彼の名を呼ぶ。
雲雀くんはつまらなそうに溜め息を吐いた。


「どうせ出勤時間なんて自分で決めるんだから、ここで貴女とキスしたって支障はないよ」

「君はワンマン社長ですか…っ
 草壁くん待ってるんでしょ?早く行かなくちゃ」

「……分かったよ。昴琉、夕飯ブリ大根食べたい」

「はいはい。雲雀くんの仰せのままに」

「じゃ、またね」


もう一度、今度は頬にキスを落として雲雀くんはドアの向こうに消えて行った。
はぁ…やっと出勤した……。
こちらに移ってから出勤する時はいつもこんな感じで送り出すのも一苦労だ。
でもまぁ、これも新居に移った特権よね。

好きなヒトが仕事に行くのを見送れるっていうのは。

自然と綻ぶ口元を両手で押えて、あたしは年甲斐もなく小躍りしながらリビングへ戻った。


***


午後から買い物にやって来たのは『並盛商店街』。
勿論雲雀くんの言いつけを守ってオルゴールボールを身に着けている。
雲雀くん、ブリ大根が食べたいって言ってたっけ。
先に八百屋さんに行こうか魚屋さんに行こうか悩みながら歩いていると、通りのあちこちに『St. Valentine's Day』と書かれた垂れ幕が下がっているのに気が付いた。

そっか…もうそんな時期なんだ。

雲雀くんと初めて逢ったのが去年のバレンタイン。
そういえばあの子、元彼にあげる予定だった高級チョコ一箱をペロリと食べちゃったっけ。

まだ1年。それとももう1年?

雲雀くんにとってはもっと年月は過ぎてしまっているけれど、それでも付き合うようになってから初めてのバレンタインデーなのよね。



―――――ちゃんとチョコあげたいな。



俯くと自分の左手の薬指に嵌められた指輪が視界に入った。
こちらに来てから本当にあたしは雲雀くんに与えられてばかりで。
ひとりで生活してきたあたしにとってそれはとても申し訳なく感じるのだ。

この指輪のお返しだってしていない。

婚約指輪のお返しと言えば腕時計…かな。
結婚するとは言ってもこちらの世界にあたしの戸籍はないから、せめて何か形に残る物を彼に渡したい。
出来る事なら自分で働いて稼いだお金で彼にプレゼントしたいところなんだけど、働くのはダメだって釘を刺されちゃってるしなぁ…。
それに仕事を見つけるにしたってバレンタイン当日までもう日もないし。
やっぱり無理よね…。
そう諦めて通りかかったケーキ屋さんのショーウインドウに張り紙を見つけて、あたしは食い入るようにそれを見た。

アルバイトの募集してる…!

しかも即日からバレンタインデーまでの超短期。
時間は雲雀くんが仕事に出掛けていて丁度居ない11時から17時まで。

これなら雲雀くんに内緒で働けるかも…。
何よりその張り紙の下の方に書かれた『特別報酬』にあたしの心はぐぃぐぃ惹かれてしまった。
だって『急募につき当店のパティシエも使用する高級ベルギーチョコ進呈!』って書いてあるんだもの。
溶かしてチョコフォンデュにしても良し、手を加えてトリュフやケーキにしても良し。
雲雀くんに食べてもらうなら美味しい物がいいに決まってる。
本来なら彼に相談するのが筋なのだろうけど反対されるのは目に見えているし、相談している間に募集が埋まってしまう可能性だってある。
何より雲雀くんを驚かせたいという気持ちがあたしの中にはあって。

あたしは意を決してケーキ屋『ラ・ナミモリーヌ』のドアを開けた。


***


「ただいま、昴琉」

「お帰りなさい、雲雀くん」


仕事を終えて帰ってきた彼をドアを開けて出迎えると、頬を両手で包まれてキスを落とされる。
離れかけた彼は一瞬動きを止め、くんくんと匂いを嗅ぎ出した。


「な、何?」

「……昴琉何だか甘い香りがする」

「ぇえ?!気のせいじゃない?だって今までブリ大根作ってたのよ?」


思わず裏返ってしまった声に焦りながら、あたしは彼に微笑みかけた。
雲雀くんは腑に落ちない様子で「ふぅん」と少し考えるように顎に手を当てる。
彼の視線に思い当たる節のあるあたしは内心ダラダラ冷や汗をかいた。


「分かった。僕に内緒でケーキ食べたんでしょ」

「…へ?あ、あぁ、うん。そう、そうなの!雲雀くん鼻利き過ぎ!
 ごめんなさい、ひとりで食べちゃって」

「別にいいけど。もうちょっとくらい太ってくれた方が抱き心地いいし」

「だ、抱き心地って…」

「でも口寂しくて食べるくらいなら、僕を呼びなよ。
 すぐに帰って来て貴女の可愛い唇を塞いであげる」


不敵に笑って妖しく囁いた雲雀くんは、愛おしむようにもう一度キスを落とし着替える為に寝室へ入って行った。
彼の台詞と危険な綱渡りで早鐘のように打つ胸を、あたしは落ち着かせる為にそっと押えて息を吐く。

な、何とか凌いだ…まさかケーキまで当てられるとは。
本当に彼の勘は鋭くて困る。

実はあれからすぐに採用されて、今日既にケーキ屋さんで働いてきたのだ。
ダメ元で働きたい旨を店長さんに告げると、両手を広げて歓迎してくれた。
よくよく考えれば履歴書もないあたしを採用するなんて、余程切羽詰っていたんだろう。
まぁ、あたしにとってはラッキーだったけれど。
彼に秘密を作るのは後ろ暗いが、そこはちょっとだけ見ない振り。

どうか、最終日まで雲雀くんにバレませんように……。

あたしはそう願いながら、夕食の最後の仕上げする為にキッチンへ向かった。



2009.2.14


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