50
少し重たい瞼を開けると、一番初めに視界に飛び込んできたのは天井だった。
首だけ動かして見回すとここが広めの和室だと分かったが、見慣れない風景に少し混乱する。
その中央に敷かれた布団に寝かされていたあたしは、ゆっくり上体を起こした。
えっと…確か、黒スーツの雲雀くんらしき人に抱き締められて、そのまま気を失って…。
自分がどうしてこんな所にいるのか思考を巡らせ始めた時、襖がスッと開いた。
「目が覚めたかい?昴琉」
現れたのは『多分』雲雀くんだった。
うん、そう。彼はあたしの知っている中学生の雲雀くんではなかった。
ふわふわの黒髪も漆黒の瞳も白い肌もそのままだけど、背も高くて声も心なしか低くて全体的に大人びた印象を受ける。
さっき会った骸くんもそうだった。
彼は傍まで来ると片膝を立てて座った。
どう見ても雲雀くんなんだけど何だか信じられなくて、恐る恐る彼の頬に手を伸ばした。
「…夢?」
「夢なんかじゃないよ。僕も貴女もここにいる」
彼は頬に触れるあたしの手に自分の手を重ねて、柔らかく微笑んだ。
あ…その笑顔は知ってる。
やっぱり雲雀くんなんだ。夢じゃ、ないんだ…っあたし、君のいる世界に来たんだ…!
彼が本当に雲雀くんなんだと確信した途端、あたしの心には沸々と怒りが込み上げてきた。
な、何であっさりこっちの世界に呼んでるのよッ
どれだけあたしが悩んで君を送り帰したと思ってるの…?!
だけど次の瞬間には彼を騙して送り帰した罪悪感でいっぱいになった。
彼に謝りたいのに言葉よりも先に溢れ出した涙が声を詰まらせる。
「ひ、ひば、りくん…っあ…あた、し…!君に、酷、いこと…っご、ごめんね」
「逢ったら沢山文句言ってやろうと思ってたんだけどね。
……もう、いい。辛い想いをさせてごめんね、昴琉」
雲雀くんは謝ろうとするあたしの身体を優しく抱きすくめて、「逢いたかった…っ」と耳元で呟いた。
まるで絞り出すようなその声に何も言えなくなる。
―――怒って、ないの?
謝らなきゃいけないのはあたしの方なのに。
雲雀くんの想いを裏切って、遠ざけて、辛い想いをさせたのはあたしなのに。
嫌われても、恨まれても仕方ないって思ってたのに…っ
君はあたしを許してくれるの…?
「ごめっ…ん、な…さいっ」
彼の服をぎゅっと掴み肩を震わせ子供のようにしゃくり上げるあたしの背中を、雲雀くんは何度も繰り返し撫でる。
大好きな彼の温もり、匂い…。
また逢えたことが嬉しくて更に涙を誘う。
話したいことは沢山あるのに上手く言葉が出てこなくて、嗚咽ばかりが漏れる。
いつまでも泣き止まないのに痺れを切らせた雲雀くんに上向かされて、半ば強引に口を塞がれる。
情熱的な口付けは、変わってない。
雲雀くん…っ
どうして君がいなくなっても大丈夫だなんて一瞬でも思ったんだろう。
―――好き。好きなの。君が大好きなの。
唇を啄ばまれる毎に彼が与えてくれる熱が、心にぽっかり開いていた空洞を埋めていく。
いつの間にかあたしは泣くことも忘れて雲雀くんに翻弄されていた。
長く深い口付けに身も心も蕩けてしまいそう。
暫く堪能してから名残惜しそうに離れた彼は、まだ濡れたままの頬に手を当てて涙の痕を消してくれた。
大人気なく泣いてしまったことがちょっと照れくさくなって、誤魔化す為に口を開く。
「…背、伸びたね」
「こちらの世界ではあれから5年経っているから」
「そ、そんなに?!あたしの世界だと1ヶ月くらいだったのに…」
「…本当は僕を送り帰した直後の貴女を呼びたかったんだけどね。
異世界の人間である貴女をこちらに連れて来るには、『10年バズーカ』をベースに新たに開発しなきゃいけなくて。
僕をこちらに呼び戻した連中に急がせて開発させたけど、どうにか実用化に漕ぎ着けるのに5年。
貴女を今の僕がいるこちらに飛ばすように設定するので精一杯だったし、僕はもう細かい微調整なんて待っていられなかったから」
今日までの月日を思い出したのだろうか。
雲雀くんは眉根を寄せて少し切ないような、辛いような複雑な表情をした。
あたしは1ヶ月ちょっとだって辛かったのに。
君はあたしが心の痛みに耐えるだけだった間に、もう一度こうして逢う為の努力をしていてくれたんだね。
それほどに彼が求めてくれていたことを嬉しく思うのと同時に申し訳なくも思った。
「雲雀くん…。ごめんね。あたしのせいでそんなに長い間…」
「……本当だよ」
「…ごめんなさい」
「僕が帰った後貴女がちゃんと睡眠取ってくれてれば、もう少し早く逢えたんだけど。
でもまぁ、眠れないくらい僕を想ってくれてたと思って許してあげる」
雲雀くんは謝るあたしの頭を撫でてくれた。
けれどすぐにその手が止まる。
「あぁ、でも…許せないことがひとつある」
「…何?」
「貴女が僕の言葉よりもあの男の…六道骸の言葉に従ったことだよ」
スッと切れ長の瞳を細めて言う雲雀くんの声は、荒げてこそいなかったが明らかに怒気を含んでいた。
…怒るのも無理はない。
だって雲雀くんは骸くんにあんな仕打ちを受けてるんだもの。
あたしはその相手の言葉に従って、雲雀くんの想いを踏み躙ってしまったんだ。
それに雲雀くんがどこまで知っているか分からないけど、あたしにはこっそり夢の中で骸くんと逢っていた後ろめたさもある。
虫がいいのは百も承知だけど、再会を果したのに雲雀くんに嫌われるのは嫌。
また離れ離れになるのかと思うと背中に冷たいモノが走る。
そうよ、その可能性だってあるのよ。
こうしてこちらに呼んでくれたからといって、雲雀くんがあたしをずっと好きでいてくれるとは限らない。
5年も経っているのなら尚更。
あたしを呼んだのはただ文句を言いたかっただけかもしれない。
雲雀くん結構根に持つタイプだからありえそうだし、さっきのキスだってあたしを泣き止ませる為にしただけかも…。
あたし、すっかり雲雀くんに逢えて舞い上がってた。
急に怖くなって彼の胸に縋り付く。
「ご、ごめんなさい…っお願いだから嫌いにならないで。
許してくれるならあたし何だってするから…!だから…っ」
一瞬彼はあたしらしくない行動に呆気に取られたみたいでポカンとしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「ふぅん。何でも?」
「あ、あたしに、出来ることなら」
「僕に約束を破らせた罪は重いよ?」
「―――ッ」
…分かってる。
約束させといて彼にそれを破らせたのは、他でもないこのあたし。
好きでいてほしいなんて贅沢は言わない。
雲雀くんが許してくれるなら、嫌いにならないでくれるなら…何だって、出来る。
黙り込んでしまったあたしの頭上で、彼がフッと笑う気配。
そして、
「だから、貴女の全てで償って」
雲雀くんはそう言ってあたしの左手を取ると、薬指に指輪を嵌めた。
可愛らしいピンク色のダイヤが添えられた指輪。
…え。コレって…。
予想外の彼の行動に今度はあたしが呆気に取られる。
何でこの流れで指輪…?しかも、く、薬指…!
意味が分からなくて指輪と彼の顔を交互に見ていたら、雲雀くんはほんの少し切ない微笑を浮かべた。
「本当はあちらの世界で渡すつもりだったんだけどね。―――もう、待つのはうんざりだ」
「雲雀くん…?」
「僕のお嫁さんになってよ、昴琉」
突然彼の口から飛び出した言葉に驚いて、あたしはパチパチ瞬きした。
う、嘘…!今何て言った?
あたしが雲雀くんの、お嫁さんに…?!
つまり一生をかけて償えってこと?
至近距離のプロポーズに胸が張り裂けそう。
で、でもそれじゃ償いにならないよ…!
「勿論答えはイエスだよね?」
ノーなわけがない。
一も二もなくコクコク頷くと雲雀くんはドキッとするくらい今までで最高に綺麗な笑みを浮かべた。
そして指輪を嵌めた手にキスを落とす。
「本当に、あたしでいいの?」
「勿論。もう二度と、貴女をひとりになんてしないよ。
元の世界に帰りたいって言っても帰してなんかやらない」
「雲雀くん…!」
「昴琉……愛してる」
連続して起こる幸せな事態に、あたしの心臓は今までの人生で最高潮のリズムを刻んで悲鳴を上げる。
彼の『好き』は離れている間に『愛している』に変わって。
あたしもちゃんと伝えなきゃ。
大人とか子供とか、住む世界が違うとか、そんなくだらない枠を越えて。
「あたしも…雲雀くんを愛してる」
「昴琉…嬉しいよ」
彼の腕が再びあたしを包み込む。
「…貴女の全てを僕に頂戴。その代わり僕の全てを貴女にあげる」
雲雀くんの熱の篭った視線に射竦められて頷くと、彼にゆっくりと布団に押し倒されて口付けられる。
あたし達はお互いの存在を確かめるように、何度も何度も、キスを交わした。
―――恐らく自分の住んでいた世界に戻ることは、もうない。
未練がないとは言い切れないけれど、あたしにとって雲雀くんはそれ以上に必要で。
だから、気持ちを誤魔化すのはもう終わりにしよう。
知らない世界での生活に不安はあるけど、君と一緒なら何でも乗り越えられそうな気がするの。
彼から与えられる熱に浮かされながら、あたしは今まで住んでいた世界に別れを告げた。
2008.11.26
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