42
深く暗い水の底からゆっくりと意識が現実世界に浮上して。
閉じた瞼に感じる光と開け放した窓から流れ込んでくる夏の午後の風が、覚醒へとあたしを導く。
ついさっきまで見ていた夢と対照的だなぁ、なんて思いながらゆっくり目を開ける。
そして起き抜けに飛び込んできたのは微笑を浮かべてこちらを見ている雲雀くんだった。
えっと…あたし今キッチンのテーブルに自分の腕を枕にして突っ伏して寝ちゃってたんだけど…。
なんで雲雀くんも同じ様に横で突っ伏して、しかもこっちみて笑ってるの…?
もしかしなくても、寝顔ずっと見てた?!
思わず固まるあたしに彼は「おはよう」と心地好く耳に響く声で囁いた。
何となく視線を外せなくて、そのままの体勢で彼に謝る。
「お、おはよ。ごめんね、折角の休日なのに…。つい寝ちゃった」
「いいよ。最近眠れてなかったんでしょ」
「…気付いてたの?」
「僕を誰だと思ってるの?」
雲雀くんは微笑を崩さず、あたしと同じ体勢のままこちらに手を伸ばしてきた。
細くて長い指があたしの髪を一房掬い取り、彼はそれを指に絡めて毛先を弄ぶ。
彼のしたいようにさせるけど、気恥ずかしさから顔が赤くなる。
あたしの反応を見て雲雀くんは喉の奥で笑った。
その少し大人びた笑顔にドキッとする。
ちょっと前まで子供だと思っていたのに、ここ最近彼の垣間見せる表情は『男』のそれで。
飽きもせず髪を弄る雲雀くんとあたしの間に流れる時間は確かに同じはずなのに、速さが違う気がして少し寂しい。
あたしの成長は気が付けばいつの間にか止まっていて。
でも目の前の彼はこれからどんどん成長して大人になっていくんだ。
きっとこちらの世界にいるよりも、あちらの世界で過ごした方がより大きく彼を成長させるのだろうと思う。
決して卑屈になっているわけではなく、彼にマフィアのボスの守護者なんて危ないことをさせたいわけでもなくて。
ただ、漠然とそう感じる。
それでも、あたしは選べなかった。
雲雀くんがあたしを好きになってくれて、傍にいてくれる幸せを知ってしまったから。
遥とも元彼とも違う安心感。
初めの頃はいつかは居なくなるんだからのめり込むまいと、心の何処かでブレーキをかけていた。
だけど気が付けば、雲雀くんはするりとあたしの心に入り込んで、もう無くてはならない大切な人になっている。
こんなにも愛しい人をどうして失えようか。
まして自分の手で彼との関係を断つことなんて…。
覚悟が決まらない今、思い悩んでも答えは出ない。
強がりでも、雲雀くんの前では出来るだけ笑顔でいたい。
まだ髪を弄んでいた彼の手をそっと外させて、あたしは椅子に座り直した。
雲雀くんも今度はテーブルに頬杖をつく。
「洗濯物取り込まなきゃ」
「やっておいたよ」
「えぇ!!」
思わず椅子から立ち上がってリビングのソファの上を見ると、きちんと畳まれた洗濯物が置いてあった。
ご丁寧にあたしの下着まで…!
洗濯物を指差し、驚きと恥ずかしさで声の出ない口をパクパクさせながら雲雀くんを見る。
彼は頬杖をついたまま、「何か問題でも?」と意地悪な笑みを浮かべた。
「な、なっな、な、何で!いつもしないのに…!」
「昴琉、気持ち良さそうに寝てたからね」
「だ、だからって!あたしの…し、下着まであんな綺麗に畳まなくても…!」
「貴女だって僕の下着畳むじゃないか」
「あたしが畳むのと君が畳むのじゃ、大違いなのっ」
「へぇ、男女差別かい?」
「『区別』よ!」
「ふぅん。そんなに僕に下着畳まれるの嫌なんだ」
「あ、当たり前でしょ」
「確かにその歳でイチゴ柄はないよね」
「……悪かったわね」
歳のことを言うな…っ
臆面もなく笑顔で言い放つ雲雀くんに、怒る気も失せてあたしはガックリ項垂れた。
イチゴ柄の何が悪い。イチゴに罪はない…!
さっきまでの夢とこの現実のギャップは何よ。
調子狂うなぁ、もう。
良くも悪くも雲雀くんはいつもマイペース。
けど、その自由奔放な振る舞いにあたしはかなり助けられてる。
実際今もあんな話を聞かされた後だというのに、平静を装っていられる。
「…イチゴの話してたら果物食べたくなった。ねぇ昴琉、スイカ切ってよ」
「はいはい。仰せのままに」
冷蔵庫で冷やしておいたスイカを適当に切って、お皿に載せる。
「こっち」と雲雀くんに呼ばれてリビングに行くと、彼は窓際に腰を下ろし開けた窓からベランダに足を伸ばしていた。
あたしを見上げてここに座れと言わんばかりに自分の隣をポンポン叩く。
わざわざこんな狭いとこチョイスかい。
素直に隣に座る。
二人も座れば勿論キツキツで、気を抜けばお互いの腕も触れる。
彼にスイカを一切れ渡しながら訊いてみる。
「どうしてここなの?」
「空見ながら食べるの、夏って気がしない?」
「…あぁ…するね」
キラキラ輝いて眩しい太陽。夏の濃い青い空。それに浮かぶ白い雲。
何処かでセミも鳴いていて、正に夏って感じがする。
これで風鈴でもあって蚊取り線香なんか焚いちゃったら、もっと雰囲気出るかもね。
雲雀くんって若いのに案外風流なこと好きだよなぁ。
…でもたまにはこういうのも悪くない。
スイカにガブリと噛り付く。
しゃりしゃりとした食感と水分を程よく含んだ甘さが、寝起きの渇いた喉に心地好い。
あたしはスイカの種を出すのが苦手なんだけど、雲雀くんは口の中で器用に除けてお皿に種を出している。
彼に負けないように口の中で種を除けていると、空を見ながらスイカを食べていた雲雀くんが口を開いた。
「ねぇ、昴琉」
「ん〜?」
「貴女は大人だし我慢しなきゃいけないことが沢山あって、僕に言えないのも分かるけど。
眠れなくなるほど辛いことなら、我慢しなくてもいいんじゃないの?」
「…ぇ?」
「何があっても僕は貴女の傍にいるから」
「雲雀くん……」
ほら、また。
こちらを見ずに空を見上げたまま、いつもと同じ口調で話す彼の横顔はとっても逞しくて。
雲雀くんはその腕だけじゃなく、言葉でもあたしを抱き締めてくれる。
言わないけれどきっと彼は元の世界に帰れる方法を骸くんから聞いている。
それでも傍にいてくれると、迷わず言ってくれる。
いつもあたしの望む言葉をくれる。
彼の言葉に反応して、トクントクンと自分の心臓が鳴っているのが分かる。
―――――あぁ、本当に雲雀くんには敵わない。
「……男の子だね、雲雀くんは」
「当たり前でしょ。
気に入らないヤツがいるなら僕が咬み殺して……何泣いてるの」
雲雀くんはスイカを持ったままぽろぽろ涙を零すあたしに、少しギョッとしたような声を出した。
「…っだって、雲雀くんが、優し…っ」
「……バカだね」
涙を拭おうとした手を掴まれて、代わりに雲雀くんの舌が頬を伝う涙を拭う。
そしてそのままスイカをパクリ。
ビックリして彼の行動を見ていると、雲雀くんは悪戯っぽく笑って言った。
「スイカには塩でしょ」
ポカーンとするあたしの頬をまたペロリと舐めて、彼はスイカを食べる。
これって、雲雀くんなりの励まし…?
そう思ったら途端に可笑しくなって、思わず吹き出してしまった。
「少しは元気出たかい?」
「う、うん!なんていうか、雲雀くんは凄いね」
「ちょっと引っ掛かるけど褒め言葉として受け取っておくよ。
昴琉、もうちょっと泣いてなよ。スイカ、まだ残ってるんだ」
「うん…!」
きっともっと泣いてスッキリしろってことなんだろうけど、今はもう辛くも悲しくもなくて。
けれど彼の優しさが嬉しくて、涙が勝手に込み上げてくる。
それをまた彼は調味料代わりに舐めてスイカを食べる。
あたしも泣きながらスイカを食べた。
泣いているのに相反する気持ちを感じるなんて初めて。
嬉しくて楽しくて穏やかで。
そんな風に感じさせてくれる雲雀くんが大好きなんだと再認識せずにはいられない。
スイカを食べ終わる頃には涙も流石に止まった。
キッチンに戻ってお皿を洗っていると、後ろから雲雀くんが覆い被さるように抱きついてきた。
あ、洗いにくいなぁ。
「もっと食べたい」
「ん?スイカ食べ足りなかった?」
「スイカじゃなくて昴琉」
「ぇ?ひゃ?!」
そう頭上で呟くと、雲雀くんはあたしの身体をクルッと反転させて自分の方に向けた。
そして素早く唇を重ねられる。
軽く何度かキスをした後、彼はあたしの頬に手を当てた。
「今夜はぐっすり眠れるように、イヤというほど咬み殺してあげるよ」
真っ直ぐ目を見つめられ、艶っぽい微笑を向けられる。
嬉しいような、怖いような…。
うろたえるあたしに構わず軽々と抱き上げると、雲雀くんはその発言を実行する為に寝室へと歩き出した。
2008.9.9
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