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子供の頃から気持ちを隠すのは得意だった。
自分のせいで人が泣いたり、哀しんだり、辛い思いをするのを見るのは苦手だから。
母が病の床に臥せった時も、母を追うように父が亡くなった時も、自分を誰が引き取るか親戚が揉めていた時も、養女にしてくれた老父母の前でも。
自分の本音を隠すことで目の前の人が笑ってくれるなら、それでいいと今まで思ってた。
綺麗事に聞こえるかもしれない。
でも本当にそう思っていたの。
―――――雲雀くんに逢うまでは。
***
あの後、雲雀くんが作ってくれた朝食を美味しく頂いた。
会社に行く支度をしている間も彼は何度か心配そうな顔をしていたけど、結局は出社すると言い張るあたしに負けて渋々送り出してくれた。
駅に向かって歩いていても、電車に乗っても、仕事をしていても、何度も夢がフラッシュバックしてその度に心臓が縮む。
雲雀くんに夢から追い出されたってことは、既に雲雀くんと骸くんは接触しているわけで。
彼にあちらの世界に帰る方法を教えに来たと考えるのが自然だよね…。
二人の関係は知らないけど、雲雀くんが何も言わないのはまだ帰る方法を知らないから?
それとも知っている?
そういえば骸くんが最後に言った「ありべでるち」ってどういう意味だったんだろう。
外国語だよね、きっと。
仕事を中断して、こっそりウェブ検索してみる。
あ、あった。
『Arrivederci…イタリア語で「また会いましょう」の意』
やっぱり…また来るのか。
っていうか、骸くんってイタリア人なの?日本語ペラペラだったよ?
ちょっと変わってるけど、名前も六道骸って言ってたし。
……まぁ、また会うならその時に聞けばいいや。
気持ちを入れ替えて仕事を再開しようとした時、主任に声をかけられた。
「桜塚さん、これ良かったら貰ってくれないかな?俺はちょっと発泡系苦手で」
「え、いやでもこれ凄く高いんじゃ…。しかも二本も」
「貰い物だから値段は気にしないで。美味しく頂いちゃってよ」
「じゃ、じゃぁお言葉に甘えて頂きます」
「うん。それじゃ仕事頑張って」
主任が立ち去ると椅子ごと遥が寄って来た。
「わ!すごっ!これ凄く美味しいってシャンパン好きに評判の高級シャンパンだよ」
「そ、そうなの?返してこようかな」
「いいじゃん貰っとけば。本人飲めないって言ってるんだし」
「うーん…二本貰ったし一本いる?」
「…ホント昴琉って鈍いわねぇ。
傍にアタシがいるのにも拘らず、アンタだけに渡した理由を考えなさいよ」
「モテる女は辛いね〜」とニヤニヤ笑いながら彼女は自分の机に戻った。
それって主任がまだあたしに気があるってことなのかな…。
思わせ振りな態度を取るつもりはないけど、受け取っといて今更返すのも感じ悪いよね。
何か凄いモノ貰っちゃったな…。
今度お礼に何かお返ししよう。
―――今夜は飲みたい気分だったから丁度いいや。
気持ちよく酔っ払って寝ちゃえば、夢を見ないで済むかもしれない。
***
仕事を終えていつも通りに改札を出れば、いつもの場所で雲雀くんが待っていた。
柱に寄りかかって腕を組む彼に歩み寄って「ただいま」とにっこり笑うと、どこかホッとした表情で「おかえり」と返してくれた。
「具合はどうなの」
「ん、平気だよ。もう快調過ぎてお腹空いちゃった!」
「なら今夜はレバーとひじきとほうれん草食べなよ」
「…全部鉄分含む食材じゃない。一気に食べたって貧血は治らないわよ」
「つべこべ言わずに食べなよ」
「…そうさせて頂きます」
言い出したら聞かないのは分かってるし、あたしの身体を心配して言ってくれているのだと思うと苦笑が漏れる。
こんなくだらない会話が出来るのもいつまでだろう。
ちょっと気を緩めると頭をもたげてくる不安を意識の底に押し込んで、何食わぬ顔をして君の横を歩くあたしは狡猾な女だろうか。
スーパーに寄って食材を買い、マンションに帰ってきた。
鍵を開けて玄関に入るとドアが閉まるよりも早く、買い物袋を放り投げた雲雀くんに抱きすくめられる。
そのまま口を塞がれ、心持ち焦りを含んだ彼のキスに戸惑う。
何度か啄ばむと雲雀くんはゆっくり唇を離して、もう一度ぎゅっとあたしを抱き締めた。
「…どうしたの?何かあった?」
「何かって…鈍感。貴女を心配してたに決まってるでしょ」
「雲雀くん…。ありがと。優しいね、君は」
少し拗ねたように呟いた彼の背中に手を回してぽんぽん叩いて宥める。
擦れているようで実は自分の気持ちに素直なんだよね。
嘘偽りの無い本音を紡ぐから、彼の言葉は心に響く。
本当は貧血じゃないから心苦しいんだけど、心配してくれる彼に穏やかな気持ちさせられる。
満足したのか彼は離れるとあたしの持っていた紙袋に視線を向けた。
「それ、何」
「あぁ、シャンパン。主任が飲まないからってくれたのよ」
主任という単語を聞いた途端、不機嫌な顔に早変わりした。
あ…主任は禁句だったか。
「捨てる」
「えぇ!滅多に手に入らない高級シャンパンなんだよ?飲まなきゃ勿体無いよ」
言い募るあたしに彼は溜め息を吐いて、また抱きついてきた。
そして「仕事行かせるんじゃなかった」といつもより低めの声で漏らした。
ご機嫌斜めなのは明白だ。
雲雀くんには悪いけど、やっぱり滅多に飲めない高級シャンパンだし、ちゃんと頂くことにして。
お風呂上りにゆっくり飲もうと、ご飯前に冷蔵庫に入れて冷やしておいた。
***
先にお風呂に入った雲雀くんと入れ替わって、今度はあたしがお風呂に入る。
一日中色々と考えを廻らせていたせいか、身体も疲れていた。
いつもよりもゆっくりバスタブに浸かって、身体をマッサージする。
…はぁ〜、やっぱお風呂最高…。
しかもお風呂上りには冷えた高級シャンパンが待っている。
シャンパンだけに栓を抜いたら一本飲み切らないと炭酸抜けちゃう。
ひとりで飲むには量が多いけど、まさか未成年の雲雀くんに飲ませるわけにもいかないしね。
ま、ゆっくり飲めば良いお酒だし悪酔いしないでしょ。
緊張していた気持ちも身体も大分解れて、あたしはお風呂を上がることにした。
バスルームを後にしてキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。
さーて、飲むぞぉ……あれ?
入れておいたシャンパンが消えている。
しかも二本とも。
ご飯食べてる間も機嫌悪そうだったし、まさか雲雀くん本当に捨てちゃった…?!
リビングのソファに座ってテレビを観ている雲雀くんに近付いて、恐る恐る訊いてみる。
「…ねぇ、雲雀くん。冷やしといたシャンパン、知らない?」
「これのことかい?」
こちらを見ること無く持ち上げた腕の先には、冷蔵庫にあるはずのシャンパンの瓶があった。
しかも栓が抜かれている。
「あぁぁぁぁぁ!中身捨てちゃったの?!」
「捨ててないよ」
彼の前に回り込むと、テーブルには残りのシャンパンの瓶とグラスが置いてあった。
ソファに深く腰を下ろした雲雀くんの頬がほんのり赤く染まっている。
ま、まさか…!
「君、飲んだの…?」
「貴女が捨てるのは勿体無いって言ったんじゃないか」
悪びれた様子も無く、いつものように小生意気に笑う。
アルコールが入っているせいか、雲雀くんの仕草が妙に艶っぽい。
肌が白いから余計にそう見えるのかも。
「だからって何も飲むことないじゃない。第一君未成年でしょ。
風紀委員長が風紀乱してどうするのよ」
「…僕自身がルールだ。だから何をしようと僕の勝手」
また屁理屈を…!
額を押えて溜め息を吐くと、彼に手を引かれて隣に座らされる。
テーブルの瓶をよく見れば一本は既に空。
もう一本もグラス一杯程度しか残っていない。
隣の雲雀くんからはフルーティーなシャンパンの香り。
あぁ、もう…!口当たりが良くて水のように飲めるのは分かるけど、急に沢山飲んで急性アルコール中毒になったらどうするのよ。
顔を顰めていると、相変わらず小生意気な笑顔を浮かべたままの彼が問いかけてきた。
「何。怒ってるの?」
「…半分ね」
「もう半分は?」
「飲みたかったなぁと思って」
「…ふぅん。そんなに飲みたいなら飲めばいい」
「え…!あっ、んっ…!」
そう言うなり口にシャンパンを含んだ彼にぐぃっと抱き寄せられ、唇を重ねられ、無理矢理流し込まれる。
彼の口に一度含まれたことで少し温くなったそれは、あたしの口に移されても風味を損なうこと無く泡を弾けさせる。
自分の意思とは関係なく流れ込んできたシャンパンをゴクリと嚥下すると、雲雀くんはまた己の口に含み同じ行為を繰り返した。
もしかしなくても雲雀くん酔ってる…?!
立て続けに口移しで飲まされ、流石に苦しくて彼に抗議する。
「…はぁっちょ、ちょっと雲雀くん…!」
「飲みたいって言ったのは昴琉でしょ。
それとも何。貴女に惚れてる主任のシャンパンは飲めて、僕の口移しのシャンパンは飲めないって言うの?」
彼はあからさまに不機嫌な顔になって、再びシャンパンを口に含むとあたしをソファに押し倒し口付ける。
どういう理屈よ…!
結局主任がくれたシャンパンに変わりないじゃない。
寝転がった状態では上手く飲み込めず、思わず咳き込むと口の端からシャンパンが零れた。
雲雀くんはそれを舌で舐め取り、あたしの呼吸が落ち着いたのを見計らって唇を重ねてきた。
今度はシャンパンではなくて彼の舌があたしを酔わそうと口内を蹂躙する。
ほんの少しイケナイことをしているような錯覚に陥って、身体と心がざわつく。
長めの口付けを交わした後ゆっくり離れた雲雀くんは、アルコールのせいで少し潤んだ瞳で真っ直ぐ見つめてきた。
「…ワォ、やらしい顔」
「なっ!」
「貴女にそんな顔をさせられるのが僕だけだと思うと…うん、いいね。ゾクゾクするよ」
独占欲の強い年下の彼の可愛いヤキモチだと気が付いても後の祭。
そんなつもりはなかったとはいえ、彼の加虐心に火を点けてしまった。
「このまま酔いに任せて、貴女をぐちゃぐちゃにしていい?」
長めの前髪から覗く熱の篭った瞳に見つめられ、そう囁かれては否応なしに身体の芯が熱くなる。
そう言いながらも彼の理性はちゃんと働いているらしく、首筋や胸元に顔を埋めて口付けるだけでそれ以上のことは求めてこなかった。
そして優しく微笑む。
「昴琉、好きだよ」
アルコールが彼の心を解放しているのか、いつも以上に真っ直ぐな告白。
尋常じゃない速度で自分の心臓が脈打つのが分かる。
何度も「好き」と繰り返し呟きながら雲雀くんは真っ赤になったあたしにキスを落とす。
―――――あぁ…心のままに想いを吐き出せる君が羨ましい。
今あたしが思っていることを全て伝えられたら、どんなに楽だろう。
君が好きで、大好きで、何よりも誰よりも愛おしいと言えたなら。
それ故に不安で、怖いのだと。
どうかあたしをひとりにしないでと、何もかもかなぐり捨てて縋りつけたら…!
今この瞬間ほど、自分の気持ちに素直に生きたいと思ったことはあっただろうか。
沢山の想いをくれる彼に、ともすれば溢れ出そうな涙を堪えて。
たった一言「あたしも好きだよ」と情けない笑顔を浮かべることしか出来なかった。
2008.8.24
*注意!お酒は20歳になってから!(笑)
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