24
気が付くと、あたしは光ひとつない闇の中にぽつんと立っていた。
どこだろう、ここ…。
右を見ても左を見ても真っ暗で、どちらに進めばここから抜け出せるのか皆目見当がつかない。
このままここに立っていようか、適当に歩いてみようか逡巡する。
その時不意に背後から近付く人の気配を感じた。
振り返ると遥か遠くに点のように光が見える。
そちらから誰かが歩いて来た。
黒髪に同色の瞳、白い肌。
羽織った学ランは周りの闇に同化して、紅い『風紀』の腕章が妙に鮮やかだ。
雲雀くんだ。
知らない場所にひとりで心細かったあたしは、見知った顔に安堵して彼に声をかけようとした。
…が、声が出ない。
喋っている感覚はあるのに音だけが出ない。
酸欠の金魚のように口をパクパクするあたしに全く気が付いていない雲雀くんは、横を通り過ぎてしまった。
やだ…!待って…!
彼を捕まえようと伸ばした手は、彼の身体を通り抜けてしまった。
えぇ?!ど、どうして?!
その間にも彼はドンドン先に進んで行く。
その先にはここよりも尚深い漆黒の闇が広がっていた。
……そっちに行っちゃダメ。
本能がそう告げる。
先に進んでしまった雲雀くんを引き止めようと走っても、その場から進まず全く追いつけない。
待って雲雀くん!そっちに行ったら二度と逢えない気がするの…!
お願い…!あたしを置いて行かないで……!!
『ひとり』は嫌…っ
雲雀くんの姿が見えなくなる直前に『やっと、見つけた』と誰かの声が頭に響いた。
それと同時に足元の感覚が無くなって身体が落下し、次の瞬間にはあたしは水の中に落ちていた。
暗く冷たい水の中で、上に昇っていく気泡とコポコポという音だけがやけにリアルで、あたしの身体は引き摺られるようにほの暗い水の底に落ちていった。
***
「……!…昴琉!」
誰かの呼ぶ声と頬を軽く叩かれる感触に、唐突に意識が引き戻されてあたしは覚醒した。
目の前には雲雀くんの少し心配そうな顔。
………今のは、夢…?
「ねぇ、大丈夫?酷く魘されていたけど…」
言われて自分がびっしょり汗をかいているのに気が付く。
汗が流れる感覚と共に、目からも涙が零れ落ちた。
良かった…あれは『夢』だったんだ。
あたしは雲雀くんにしがみついた。
温かい…雲雀くんはちゃんとここにいる。
抱きつかれた彼は少し驚いたみたいだけど、安心させるように抱き締めて頭を撫でてくれた。
「……怖い夢を、見たの」
「そう。それなら起こして正解だったね」
「うん、ありがと…雲雀くん。
………って、ちょっと待った!また君こっそり入ったの?!」
つまりあたしの寝室に。そして布団に。
「うん」と当たり前のように返事をする彼から離れて、あたしは頭を抱えた。
何度駄目だと怒っても雲雀くんは何処吹く風で、あたしが寝てる間に潜り込む行為を止めようとはしなかった。
あたしだって朝起きて一番に目に入るのが、好きな人の顔だったりその一部だったりするのは凄く嬉しくて幸せなことだと思うよ?
でもまだあたしと雲雀くんの関係には早い気がして、素直に受け入れることが出来なかった。
「お願いだからそろそろ言うこと聞いて。
自分の知らない間に忍び込まれるの、嫌なのよ。
雲雀くんだって同じことされたら嫌でしょう?」
「僕は貴女だったら構わないよ」
「あたしは構うの…!毎朝毎朝こんな不毛な言い合いするのもいい加減疲れるのよっ」
いつもより強い口調で文句を言ってしまったのは、少し怖い夢を見たせいかもしれない。
彼があたしを置いて何処かに行ってしまうという不安は、どんなに否定しても、気が付かない振りをしても、常に心の奥にあった。
それは雲雀くんが悪いわけじゃない。
あたしの心が弱いせい。
けれど、少なからずヒトの気も知らないで、マイペースに自分のしたいことだけを貫く彼にあたしは苛立っていた。
いつもと違うあたしの拒絶の仕方に雲雀くんの方もムッとしたようだ。
彼はあたしを切れ長の目で軽く睨むと、無言で布団から脱け出し寝室を出て行った。
結局彼はそのまま自室に篭り、朝食も取らず、あたしが家を出る時も出て来なかった。
…きつく言い過ぎてしまっただろうか。
ううん。あれくらい言わないと雲雀くんみたいなタイプは分かってくれない。
少し、反省すればいいのよ。
久し振りに自分で玄関の鍵をかけ、イライラしながらあたしは会社に向かった。
***
数字を照らし合わせながら、いつもの伝票整理を黙々とこなす。
仕事の合間に今朝の雲雀くんの顔を思い出しては、その度に手が止まる。
……今頃どうしてるかな。
朝食一応テーブルに置いてきたけど、ちゃんと食べたかしら。
やっぱり今朝は言い過ぎちゃったかな…。
あんな風に言わなくてもよかったよね。
怖い夢を見た後の倦怠感とイライラが重なって、言い方がきつくなってしまったのは否めない。
寧ろ八つ当たりに近い。
頭ごなしに嫌だ嫌だと言われれば、雲雀くんじゃなくたって怒るかもしれない。
段々自分がとても酷いことをしてしまったという後悔の念に襲われる。
あの調子じゃきっと今日は駅に迎えには来ないだろう。
家に帰ったら雲雀くんにちゃんと謝ろう。
―――もしかしたら、あたしを嫌いになって家からも出て行ってしまったかもしれないけれど。
そう思うときゅぅっと胸が締め付けられた。
後5分で仕事も終わりという時に、不意に机の上に出しておいた携帯が震えた。
すぐに切れないところをみると、メールではなく着信のようだ。
マナーモードにしておいて良かった。
そうじゃなければ今頃雲雀くんの学校の校歌が流れていたところだ。
手に取って確認すると画面には雲雀くんの名前。
どうしよう、心の準備がまだ出来てないよ。
だからってこのままにしておくわけにもいかず、少し緊張しながら電話に出た。
「…はい」
『あぁ、良かった!繋がった!昴琉姐さんですか?!』
てっきり雲雀くんだと思っていたのに、聞こえてきたのは酷く慌てた他の男の人の声だった。
しかも姐さんって。でも、この声どこかで…。
「あ、あの、どちら様でしょう?」
『突然申し訳有りません!私は風紀委員の、雲雀委員長の部下で何度かお迎えにあがった運転手です。
緊急を要したので委員長の携帯を無断でお借りしてかけています。
じ、実は委員長が撃たれて、今病院へ…!』
「…え?うた、れ、た?」
『は、はい。隣町の組との抗争中に…!私が傍にいながら、申し訳有りません…っ
ですから姐さんにはこれから言う病院に急いで来て頂きたい!』
雲雀くんが、うたれた?
『うたれた』って何?ピストルとか銃とかそういうモノで『撃たれた』ってこと…?
一気に激しくなる鼓動と眩暈を堪えながら病院の場所を聞き急いで帰る準備をし、退社時間ピッタリにタイムカードを押してあたしはオフィスを飛び出した。
気ばかり焦って足が回らない。
どうして今日に限って高いヒールを履いてきてしまったんだろう。
どうして朝雲雀くんにあんな態度をとってしまったんだろう。
今朝見た夢を思い出してゾッとする。
このまま彼がいなくなってしまったらどうしよう…!
いくら彼が強くたってトンファーと銃じゃ、狙い撃ちにされてはどうしようもないじゃないか。
あんなに焦って風紀委員の人が連絡してくるくらいだもの。
きっと酷い怪我なんだ…!
元の世界に帰るどころか、彼の存在自体が消えてしまうなんて考えもしなかった。
こんな気持ちのまま雲雀くんと別れなきゃいけないなんて…っ
そんなの絶対に嫌!!!
涙が出そうになるのを堪え、何度も転びそうになりながら、あたしは雲雀くんの無事を祈ってただひたすら走った。
2008.6.15
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