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あたしと雲雀くんだけが残された部屋に、静寂と妙な気まずさが漂う。
雲雀くんはあたしを支えたまま、あたしも雲雀くんに支えられたまま動けない。
彼がマンションを出て行ってから初めて顔を合わせたのだから、気まずくなるなと言う方が無理なわけで。
視線ひとつ動かすのも躊躇われる雰囲気の中、襖の向こう側で鹿威しの音が響く度に心の焦りも増していく。
こ、困ったなぁ…。
言葉を交わさないまま、ずっとこのままでいるわけにもいかない。
そもそもあたしはどれだけ眠っていたの?
身体がこんなに重く感じるなんて、きっと最低でも1週間は経ってるわよね…。
逢わないでいた間、雲雀くんの気持ちに何かしらの変化があっただろうか。
夢の中にまで潜って助けに来てくれたってことは、あたしを嫌いになったわけではないの…?
今もこうしてあたしを自身の胸に抱き留め支えたまま、一向に離れる気配はないし…。
向き合って話を聞いてくれると、期待してもいいの、かな…。
雲雀くんがどんな顔をしているのか盗み見ようと、あたしはすぐ真横にある彼の胸から首へとゆっくり目で辿る。
けれど、どうしても顎から上へ視線を上げられない。
雲雀くんに謝りたい。
あたしの想いを伝えたい。
でも―――怖い。
迷わないって決めたのに、実際に顔を合わせると尻込みしてしまう。
もしも合わせた視線を逸らされでもしたら、あたしのなけなしの勇気はきっと砕け散る。
だからって雲雀くんが動くのを待ち続ける勇気もない。
うだうだと考えては気ばかりが焦り、心臓が闇雲に早鐘を打つ。
あぁ、もう。
ホント意気地なしだな、あたし。
心の中でそっと溜め息を吐いて、自分から話を切り出すきっかけを再び探す。
その時だった。
……何だろう。
雲雀くんがいるのとは反対側の視界の端に、チラチラと映り込む白い何か。
その正体を知るべく、あたしはそちらに視線を向けた。
そこにあったのは、純白のウエディングドレスだった。
「―――綺麗…」
眩いばかりのそれに、思わずほぅ、と溜め息が漏れた。
上からぽつりと雲雀くんの声が零れる。
「…貴女が骸の一味に攫われたあの日の朝、僕に電話がかかってきたの憶えてるかい?」
「うん…」
「あれはこのドレスが出来上がったという報告の電話だったんだ。
だからあの日の午後、一緒に取りに行って貴女を驚かせようと思ってたんだ」
「そう…だったの…」
だからあんなに嬉しそうに君は笑っていたんだね。
あたしを抱き締め「まだ内緒」と微笑む雲雀くんの顔は、今でも鮮やかに思い出せるほど印象的だった。
トルソーに飾られたそれは、見るからに高級な生地に模様の美しいレースが惜しげもなく使われ、上品なプリンセスラインを描いていた。
まるで女の子の憧れを一身に背負って、ブランドショップのショーウインドウに飾られているドレスのよう。
これが雲雀くんがあたしの為に作ってくれたウエディングドレス―――
彼の前でウエディングドレスのカタログを見ていたのは数えるほどしかなかったのに、どうしてあたしの好みが分かったんだろう。
ううん、あたしの好みや想像以上に、目の前のドレスは素敵だ。
けれど―――あたしにまだ、このドレスに袖を通す権利はあるのかな…?
何とも言えない胸の痛みを感じながらドレスを眺めていると、不意に頬に熱を感じた。
気まずさも忘れ、びっくりして上を見る。
「雲雀くん……泣いてるの?」
「…そう見える?」
そう見えるって…。
彼の瞳から零れ落ち、あたしの頬を濡らす雫は切なくなるほど熱いのに。
これが涙でないのなら、一体なんだというの?
あたしは彼の頬に手を伸ばし、そっと触れた。
指先の濡れる感触に胸がきゅぅっと狭くなる。
あたしのせいで雲雀くんが泣いている―――
「…泣かないで、雲雀くん」
雲雀くんはふるふると小さく横に首を振る。
「―――止まらない。止め方も、知らない」
あたしを真っ直ぐに見下ろす漆黒の瞳から零れ落ちる涙は、彼の言葉通り止まる気配を見せない。
どうして君が泣くの?
君が泣く必要なんて少しもないのに…。
「良かった…っ貴女が目を開けてくれて…本当に、良かった…っ」
雲雀くんは声を詰まらせながら呟く。
あぁ…そっか。
凄く、心配してくれていたんだ。
緊張の糸が切れたんだね。
そして君もあたしと同じように、自分のしたことを後悔していたんだね。
彼の頬に触れていた手の指先で、あたしはゆっくり雫を拭う。
「大丈夫、だから…もう…泣かないで…。
君は何も悪くない…悪くなんてないの…」
「だけど僕は…貴女を―――ッ」
後悔を紡ごうとした唇に、あたしは人差し指を押し当てた。
「助けに、来てくれた。それだけで十分」
「昴琉…っ」
指を彼の頬に戻して、伝い続ける涙を再び拭う。
「―――声がね、聴こえたの。君が、あたしを呼ぶ声」
夢の中で、もうダメだと思った時に聴こえた君の声。
あの時雲雀くんの声が聴こえなかったら、あたしは今頃ここにいない。
きっと現実に向き合えないまま、骸くんの優しさに溺れてしまっていた。
「……貴女も、僕を呼んでくれたよね?」
「うん。だから来てくれて、本当に嬉しかった」
彼を安心させたくて、あたしは笑顔で雲雀くんを見つめる。
今なら素直に、言える。
「ありがとう、雲雀くん。それから…ごめんね」
あたしの言葉に、雲雀くんは唇を噛んで横に首を振った。
「…謝らなきゃならないのは、僕の方さ」
雲雀くんは涙を拭っていたあたしの手に自分のそれを重ね、そっと握って頬を寄せる。
「昴琉を残してマンションを出てから、ずっと後悔してた。
貴女が僕を裏切るはずがないのに、何故信じられなかったんだろうって。
何故、話を聞かなかったんだろうって」
薄く開いた彼の唇から、吐息が漏れる。
「―――冷静になればなるほど、貴女を傷付けたという事実が怖かった。
傷付けないでいられるようになるまで、離れようと心に決めた。
けど、そんな自信はいくら経っても持てなくて……そのせいで、昴琉をもっと傷付けてしまった」
泣いたせいで少し赤くなってしまった鼻を、雲雀くんは小さくすんと鳴らして呼吸を整えた。
「流石に今度ばかりは嫌われたと思った。
だからもう、二度と言葉を交わすことは出来ないと思ってた。
―――こうして抱き締めることも」
雲雀くんは自分の胸に閉じ込めるように、あたしを優しく抱き締める。
久方振りの抱擁。
壊れ物を扱うようなぎこちなさがあるものの、その心地好さに思わず溜め息が漏れる。
1ミリの隙間もなく埋まる雲雀くんとの距離。
心が、身体が、あたしの全てが、喜びに震えてる。
あぁ、やっぱり『ここ』だ。
君じゃなきゃ、ダメだ。
ねぇ、雲雀くん。
君との絆を、もう一度強く結びたいよ。
そっと上を向くと、まだ涙を零している雲雀くんと目が合った。
いつだって自信に満ち溢れている彼には相応しくない、不安げな表情。
きっとあたしだけしか知らない顔。
愛していると伝えたら、君は泣き止んでくれるかな。
もっと泣かせてしまうかな。
それとも―――困らせて、しまうかな。
結果がどうなろうと、湧き上がるこの想いを、もう自分の内側に止めておくことは出来ない。
今の気持ちを君に伝えたい。
勢いよく空気を吸い込んで、吐き出すそれに告白を乗せようとした矢先、雲雀くんが形の良い口を開く。
「僕の犯した過ちを赦してほしいなんて、烏滸がましいことは言わない。
でも、貴女の傍にいることは許してほしい」
涙に濡れた雲雀くんの漆黒の瞳に捕らえられる。
「愛してるんだ、昴琉」
真摯な告白に、息を呑む。
―――ズルい。
あたしから伝えようと思っていたのに。
また先を越されてしまった。
選択の余地があるように見せかけて、いつだって君の用意する選択肢はひとつ。
あたしと君が一緒にいること。
それが雲雀くんの望みであることが嬉しくて、一気に視界が滲む。
本当に、どうしていつも君はあたしと同じことを望んでくれるんだろう。
愛しい人と同じ気持ちだというだけで、こんなにも心は幸せで満たされる。
まだ上手く動かないあたしの手は、それでも無意識に彼の服を手繰り寄せていた。
「あたしも…っ君が好き。大好き。愛してるの。
だからお願い。ずっと、ずっと傍にいて…っ」
溢れる想いで声が詰まってしまう前に、あたしは急いで雲雀くんに答えた。
返答が終わるや否や、大粒の涙と優しい口付けが降り注ぐ。
あたしはこの日、初めて雲雀くんの涙を見て、共に泣いた。
2014.9.9
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