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なんて安らぎに満ちた空間だろう―――
温めのお湯で満たされたバスタブに、疲れ切った身体を沈めている時のような心地好さ。
ともすると、やんわりと自分を包む優しい温度に、意識を失いそうになる。
ここがどこなのかは分からない。
周囲はぐるりと淡い光を放つ何かで覆われている。
触れてみるとそれはしっとりと柔らかく、どうやら巨大な花弁のようだった。
骸くんに眠らされている間に、ここへ閉じ込められたのは間違いないと思う。
何度も外へ出ようと試みた。
一見柔らかく簡単に破れそうな花弁は、叩いても蹴っ飛ばしてもびくともしない。
外に出ようともがけばもがくほど、あたしを逃すまいと温もりが見えない蔦となって全身に絡みついてきた。
蔦は優しくあたしを締め付けて自由を奪い、外へ出ようとする意志を執拗に挫いて、深い眠りに誘う。
悪意は全く感じない。
それは労りであり、憐情であり、慈愛だった。
きっとこれは骸くんの想い。
唯々その力であたしを深い眠りにつかせ、癒そうとしてくれているのだ。
身を委ねてしまえばきっと心穏やかに眠れる。
けれど―――そうなったら『彼』に逢えない。
それは酷く、酷く哀しいこと。
だからあたしは身体を丸めて膝を抱き、包み込んでくれる安らぎを拒絶した。
そして弱った心の隙をついて入り込もうとするそれに負けないよう、繰り返し繰り返し愛するヒトの名を呼ぶ。
雲雀くん…
雲雀くん……
彼の名を呼ぶ度に、胸がチクリと痛む。
何故自分がここにいるのか。
そんなことすら分からなくなるくらい思考に霞が掛かっていても、繰り返されるその痛みが、完全な眠りへ落ちるのを防いでくれていた。
閉じた瞼の裏に、大好きな雲雀くんの姿が浮かぶ。
ふわふわで触り心地の好い漆黒の髪。
女のあたしから見ても、羨ましいくらい綺麗な白い肌。
涼しげなのに、情熱を秘めた強い眼差し。
力強く抱き締めてくれる逞しい腕。
向けられるだけで胸が高鳴る優しい微笑み。
どうして彼のことを考えると、こんなに胸が痛いんだろう…。
あたしの全てを愛してくれたヒトなのに…。
―――あぁ、そっか。
壊れてしまったんだ、あたし達。
そしてあたしは骸くんに―――
痛みの理由を思い出した胸は、ズキズキと激しく痛み、張り裂けんばかりに暴れ出す。
脇目も振らず長い年月をかけて求め続けてくれた雲雀くんも、今回ばかりは愚かなあたしに愛想を尽かせたはずだ。
その証拠に、あたしの薬指に彼の贈ってくれた指輪は、ない。
どんなに後悔したって、眩しいくらい幸せに満ち溢れたあの日々は、もう戻らないんだ。
骸くんの言うとおり、もう彼があたしを愛してくれることも―――
弱った心は、易く悲哀に侵食される。
それならいっそ、このまま眠ってしまおうか。
その方が楽じゃない。
骸くんのしたことは赦せない。
でもそれだけあたしを強く想ってくれている。
たとえその根底にあるのが、別の想いだったとしても。
報われない愛の痛みへの共感が、固く結ばれた拒絶の紐をゆっくり解いていく。
君のいない世界に何の意味がある?
君に愛されないあたしに何の価値がある?
あたしには君のいない今を、未来を…生きる自信がないの。
雲雀くんを傷付けたあたしに、癒される資格なんてないのかもしれない。
けれど、愛しい君にもう二度と必要とされることがないのなら、このまま温もりに溶けて消えてしまいたい……
全てを―――忘れてしまいたい。
抗うことに疲れ果て、気を抜いた―――正にその時だった。
『昴琉…っ』
微かにあたしの名を呼ぶ声が聞こえた。
くぐもってはいたが、それは繰り返しあたしが呼んできた愛しいヒトの声。
―――ひばり、くん…?
幻聴だろうか?
彼の声が聞こえるなんて。
まさか、ね。
雲雀くんがあたしを呼ぶはずがない。
けれど、たった一度耳に届いたそれは、絶望に打ちひしがれたあたしの心に、再び小さな希望の火を灯した。
―――…いや…嫌だ…ッ
このまま彼と離れるなんて、イヤ…ッ
あたし、雲雀くんに逢いたい…!
それは自分でも驚くほど強い感情だった。
心の奥底から溢れ出る強い願い。
それが安らぎの波に飲み込まれかけていた意識を浮上させた。
辛い現実から目を逸らしちゃいけない…っ
きっとあたしを呼び寄せてくれたまでの5年間、雲雀くんは今のあたしなんかよりもっともっと辛かったはず。
先の見えない不安に何度押し潰されそうになったことだろう。
必ず逢える保証など、どこにもなかったというのに。
それでも残酷に突き放したあたしを求めてくれた。
彼に比べたら、こんな苦しみなんて大したことない…!
一度拒絶されたからって何よ…!
あたしはまだ、彼の口から離別の言葉を聞いていないじゃない。
ちゃんと雲雀くんの気持ちを聞くまでは、何度だって諦めるもんですか…っ
なんて浅ましい。
この期に及んであたしの心は、雲雀くんへの未練でいっぱいだ。
でも、それでいい。
いいのよ。
どんなに取り繕ったって、それがあたしなんだもの。
落ちそうになる意識を強く唇を噛んで保ち、鉛のように重い瞼を無理矢理押し上げる。
あたしは絡み付く温もりに逆らって、膝を抱えていた腕を上へ伸ばした。
ぴったりと重なり合う花弁の頂点は尚遠く、届かない。
それでもあたしは自由の利かない身体を起こし、雲雀くんに逢いたい一心で必死に手を伸ばした。
伸ばした手は、何度も何度も虚しく空を掴む。
こっちに来た時、決めたんだ。
この恋にだけは正直でいたい。
この想いだけは貫きたい。
自分の気持ちを押し殺し、桜の木の下で引き金を引いたあたしとは違う。
あたしはもう、雲雀くんを諦めない…!
ひとりにしないと誓ってくれた君を信じたいの…っ
ちゃんと謝りたいの…っ
大好きだって伝えたいの…!!!
そう強く思った刹那、あたしをこの場に留めようとしていた温もりの拘束が緩んだ。
フッと身体が軽くなる。
あたしは花弁の壁に縋って、覚束ない身体を支えて立ち上がった。
ひとつ、またひとつ。
役目を終えたと言わんばかりに温もりの蔦があたしから離れていく。
そしてぴったりと閉じられていた花弁の頂点が、たおやかに開き始めた。
ひば、り…くん……っ
力を振り絞って精一杯上に伸ばした手を、誰かが強く掴み、上へと引っ張り上げた。
2014.5.5
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