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「お口に合いませんでしたか?」
箸の進まないあたしの様子を、向かい側に座った草壁くんが心配そうに窺った。
いつもなら、そこには雲雀くんが座っている。
その日にあった、何てことはない出来事を話して過ごす食卓。
穏やかに、時には声を出して笑い合いながら、たまには愚痴を零して。
他人と思いや考えを共有する時間は、何ものにも代え難い。
それが特別に好きなヒトなら尚更。
今こうして自分の向かいにいるのが雲雀くんだったら……そう思ってしまった自分に嫌悪の念を抱く。
そんなことを望むのは、自分を心配して食卓を共にしてくれている友人に、途轍もなく失礼だ。
あたしは草壁くんに笑顔を向けて、「ううん」と首を横に振った。
「草壁くんが来る前にお腹空き過ぎて、ちょっと食べちゃって。
折角買ってきてもらったのに悪いけど、残りは明日食べようかな」
勿論彼が戻って来るまでの間に食べ物は口にしていなかったが、そうでも言わないとまた草壁くんが気にかける。
その男らしい外見から予想出来ないほど、彼の気遣いは細やかだ。
「無理せずそうしてください」
草壁くんは笑おうとして失敗し、痛そうに顔を歪めた。
彼の顎には、マンションを出る時にはなかった湿布薬が貼られている。
恐らくお屋敷に行き、雲雀くんに事の成り行きを訊いて殴られたのだろうけれど、彼はあたしがそれを訊く前に階段を踏み外して転んだのだと笑って言った。
彼が吐いてくれた優しい嘘。
それを覆すなんて、弱った今のあたしには到底出来なかった。
それでもやはり、全く触れないのも不自然だ。
決まりが悪そうにしている彼に訊く。
「…大丈夫?」
「大丈夫ですよ、これしき」
今度はゆっくり口を弧にして笑った。
……本当に良い人だな。草壁くん。
そんな彼を、あたしと雲雀くんのいざこざに巻き込んでしまったことに、ツキンと胸が痛んだ。
ごめんね、草壁くん。
心の中で謝って、あたしはお箸を置いた。
「…ご馳走様でした。後片付けはあたしがやるわ」
「それならオレが」
腰を浮かせた草壁くんを、手とちょっと意地悪な笑みで制して立ち上がる。
「怪我人は座ってて頂戴」
怪我人じゃなくとも彼に後片付けなんてさせられない。
元々お弁当だから片付ける物も少ないしね。
草壁くんは顎を摩りながら苦笑いを浮かべた。
「それではお言葉に甘えて」
「うん。あぁ、良かったらリビングでテレビでも観てて」
「へぃ」
返事はしたものの、草壁くんはそのまま座っていた椅子に腰を下ろした。
あたしは食器棚から中くらいのお皿を取り出し、残してしまったお弁当の中身を移してラップをかける。
まだ温かいので冷蔵庫に入れずにテーブルの上に置いておこう。
空の容器は軽く洗ってゴミ箱へポイ。
食後はいつもコーヒーだけれど、草壁くんはどうだろう。
背後を振り返り、落ち着かない様子で座っている草壁くんに確認する。
「コーヒーでいいかな?」
「へぃ。恐縮です」
「ううん。ちょっと待っててね」
コーヒーメーカーをセットしているあたしの背中に、草壁くんが遠慮がちに話し掛けた。
「…桜塚さん」
「なぁに?」
「恭さんですが…」
「…うん」
「……恐らく、今夜はお戻りにならないと思います」
言い難そうに告げられた言葉に、心臓がきゅっと縮んだ。
けれどそれを悟られないよう、あたしは努めて平然と答える。
「そっか」
意識していたにも拘らず、我ながら白々しく、そっけない声が出た。
しくじっちゃったなぁ…。
微妙な雰囲気が生まれ、背後で草壁くんが躊躇っているのが分かる。
別の話題を振ろうとしたが、先に口を開いたのは草壁くんの方だった。
「……おひとりで大丈夫ですか?
差支えがなければ、オレ、今晩泊まりましょうか?」
「ぇ?」
意外な申し出に驚いて、あたしは彼の方を振り返る。
すると草壁くんは自分の発した言葉にハッとして、慌てて言い繕い始める。
「あ、いや!決して変な意味ではなくてですね!あの…!
お戻りになったばかりですし、こんな状態では心細くはないかと…!」
まるで銃を突き付けられた人のように、両手を上げて弁解する彼の慌て振りたるや、見ているこちらが可哀想になってくるほどで。
思わず声を出して笑ってしまった。
「あはは、そんなに慌てなくても大丈夫よ。分かってるから」
―――本当に、草壁くんは良い人だ。
「心配してくれてありがとう、草壁くん。
でも平気!たまにはひとりの夜も悪くないわよ」
おどけてくすくすと笑うあたしに、草壁くんは眉尻を少し下げて「そうですか」と少しホッとしたように言った。
***
寝返りを打つ度に、灯りの消えた寝室にギッ…ギッ…とベッドが軋む音が空しく響く。
―――――眠れない。
身体を包み込む布団の感覚も心地好いというのに、ちっとも睡魔がやってくる気配がない。
久し振りの我が家だというのに、まるで他人の家に泊まりに来たような緊張感。
頭は変に冴え、心臓は小刻みに血液を送り出し、けれど身体は頗るだるい。
それは数時間前にこの部屋で起こった出来事のせいかもしれないし、隣に雲雀くんがいないせいかもしれない。
それに……眠った後、夢に骸くんが現れるのを恐れているのかもしれない。
遠い地の牢獄奥深くにその身を囚われた彼は、いつも夢を渡ってあたしの前に現れるから。
あたしは諦めてふぅっと息を吐き、泣いてしまったせいで重い瞼をゆっくり押し上げた。
薄暗い空間に視線を当てもなく彷徨わせる。
思い出さないようにしていても、静かな夜という状況は、否応なしに一日を振り返させる。
厄介なことに、嫌なことなら尚更。
人知れず深い溜め息が漏れる。
草壁くんがお弁当を買いに行くとマンションを出た後、あたしはバスルームで自分の身体を調べた。
結果、それらしい痕跡は何も残っていなかった。
首筋に残された紅い印以外は。
今はそれも雲雀くんに上塗りされて消されている。
思い出したら不意に首筋が鈍く痛み出して、あたしはそっと掌で押さえた。
雲雀くんと骸くん、それぞれの想いを刻まれたそこは、あたしの体温よりも高い熱を放っていた。
―――――雲雀くん、どうしているだろう。
怪我をさせてしまった草壁くんとは、うまく仲直りしてやれているかしら。
ちゃんとご飯食べたかな。
お風呂には入ったかな。
着替えはあちらにもいくつか置いてあるはずだから心配ないよね。
最近はドライヤーで乾かすのを面倒がっていたけれど、髪を濡らしたまま眠ってないかな。
……眠れて、いるのかな。
本当なら今頃、こんな心配なんてしないで、君に抱かれて眠っているはずだったのに……。
不安に後押しされて、鼓動がまた少し速くなる。
あの時あたしを調べようと伸ばされた手を拒まなければ、今君は傍にいてくれた?
それとも結果は同じ?
ひとりにしないと言ってくれたのに、このまま離れていってしまうの?
君と再会したあの日にした約束を、守らせてはくれないの―――?
そう思ったら途端に鼻の奥がツンとして、止まっていた涙が再び込み上げてきた。
あたしは自分でクロームの看病をすることを選んだ。
それは人として当たり前だと思ったし、後悔はしていない。
けれどその結果、雲雀くんを傷付けてしまった。
自分の一番大切なヒトを―――
泣いちゃ駄目。
自業自得じゃない。
雲雀くんにとってあたしが骸くんに係わることが、どれだけの意味があるのか。
それを推し量れなかったあたしは、本当に至らない。
明日も朝から草壁くんが来てくれると言っていた。
瞼が腫れていたら、また心配させちゃう。
掛け布団を胸に抱え込み、熱くなった目頭をそれに押し付け遣り過ごそうとした。
けれど、彼の居ないベッドは小柄なあたしには広過ぎて。
助長された胸の痛みは嗚咽となって身体の外へ溢れ、押し付けていた掛け布団を濡らしていった。
2012.12.2
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