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掛け布団を撥ね除けて起き上がり、頽れる昴琉を支える。
夢の中で僕に触れられる度に強張っていた彼女の身体は、意識を失っている今、抵抗することなくすんなりと僕の胸に倒れ込んだ。
そのまま昴琉をベッドの上に引き上げ、胸で彼女の背中を受け止めて華奢な身体を抱き締める。
なんて小さな身体だろう。
クロームの身体を核とし、有幻覚として実体化した僕の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
そっと昴琉の髪に頬を寄せると甘い香りが鼻先を擽り、触れている部分から伝わってくる温もりが、愛おしさを倍増させる。
夢の中以外で昴琉に触れるのは、彼女がこちらに来た時以来だ。
復讐者の牢獄に閉じ込められている自分にとって、それはごく最近のような、それでいてとても昔のようにも感じられる。
それでもこうして昴琉に触れたいと焦がれていたのには違いない。
そう―――焦がれていた。
本来なら、昴琉は係わることなど決して無かった別世界の人間。
彼女の世界に飛ばされた雲雀恭弥を帰還させる為と、牢獄暮らしの退屈凌ぎに夢の中で彼女と話すうち、その人となりに触れ、利用出来ると思って近付いたのに。
いつの間にか好きになっているなんて、まるでありふれた三文小説じゃないか。
しかも選りによってあの雲雀恭弥の女だなんて…ね。
本当に何の因果か、彼とはどこまでも対立する運命にあるようだ。
自嘲的な笑みを漏らし、僕はくたりと力の抜けた昴琉の左手をそっと掬い上げた。
その薬指には、控えめだが一目で婚約指輪と分かるそれが嵌められている。
胸の奥の方が針で刺されたようにチクリと痛む。
―――――昴琉…やはり貴女は彼を選ぶのですね。
最後に夢の中で逢った時、彼女ははっきりと自分の心を示した。
僕ではなく雲雀恭弥に愛されたいと。
彼だけを愛し、彼の為だけに生きたいと。
あの時の、僕を真っ直ぐ見つめる誠実な昴琉の瞳が忘れられない。
お人好しの貴女なら情に訴えかければ靡くだろうなんて、とんでもない勘違い。
僕を傷付けると分かっていて、それでも偽らずに答えをくれた貴女。
そんなことをされては、益々手に入れたくなってしまうではありませんか。
忌々しく輝く婚約指輪ごと彼女の手を握る。
外してしまおうか、こんな安い誓いの証など。
そしていっそ、契約を結んでしまおうか。
この柔肌を三叉槍の切先でほんの少し傷付けさえすれば契約は完了し、手っ取り早く昴琉の身も心も僕の思いのままに出来る。
……それでは意味がない。
心のない操り人形に愛されたところで虚しいだけだ。
それが分かっているから何度チャンスがあっても、僕は昴琉と契約をせずに来たのだ。
契約を交わさずとも堕とせる自信があった。
けれど―――
じわりじわりと心を蝕んでくる怒りにも似た切なさに、再び僕は昴琉の細い身体を抱きすくめた。
こんなにも愛おしいと想っているのに、貴女の心が動くことはないのですか…?
この世界の、何と理不尽なことか。
たったひとりの女性と想いを重ねることすら許されない。
それに引き換えあの男―――雲雀恭弥は昴琉を手に入れ、何不自由なく外を歩き回り、幸福を享受している。
幾度となく忍び込んだ昴琉の夢も、彼を想う気持ちばかりが溢れて。
一体僕に、何が足りないと言うのか。
知らず噛み締めていた唇を開くと、遣る瀬無い吐息が零れた。
こうしている間にも、空は刻一刻と闇色に支配されていく。
止めることも出来たのに、昴琉が彼の鳥に手紙を託し放すのを見逃してしまった。
それは彼女を想うが故であり、僕の迷い故だった。
行かせてやりたい。
けれど行かせたくない。
矛盾した思考が頭の中で鬩ぎ合う。
雲雀恭弥がここにやって来るのも時間の問題だろう。
牢獄になど囚われていなければ、このまま貴女を連れ去れるのに。
回復してきたとはいえ、今のクロームの身体には、長時間僕を具現化させておくだけの力はない。
雲雀恭弥との戦闘など以ての外。
そうなれば―――
ごそりと心の奥で頭を擡げた黒い感情。
そして、奸計。
実行するなら今この時を措いて他にない。
根本的な解決には程遠い、姑息な手段だと分かっている。
クロームを親身になって看病してくれた恩を仇で返し、恐らく貴女が今以上に僕を拒絶する結果が訪れることも。
それでもこのまま彼のもとに帰すよりはいいのではないか?
昴琉と彼の関係。
僕と昴琉の関係。
気に入らないのなら、どちらも壊してしまえばいい。
そして一から新たな関係を築き直せば、或いは。
ほんの僅かでも、貴女の心を射止められる望みがあるのなら、僕は―――
一度だけ躊躇って。
愚かな思考に囚われた僕は、艶やかな髪の隙間から覗く昴琉の白い首筋にゆっくりと唇を寄せた。
2012.2.5
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