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『柿ピー、この女全然起きないびょん。…腹減ったし、喰っていい?』
『犬…そんなことしたら骸様に殺される…』
ぼんやりした頭に誰かの会話が流れ込んでくる。
どちらも男の声だ。
ひとりは呂律があまり良くなく、ひとりは話すのも億劫そうだ。
『そ、それは嫌ら…』
『だったら大人しくしててよ…』
『らってコイツ、何かいー匂いすんらもん』
言葉の直後、すんすんと誰かがあたし眼前で匂いを嗅いだ。
鼻先にかかる誰かの息遣いは、夢だと思うにはとてもリアルで。
いー匂い?…さっきまでサンドイッチ作ってたから、多少食べ物の匂いはするかもしれない。
…って、え?もしかして『コイツ』ってあたし?
もしそうなら―――喰われるなんて冗談じゃない…!
そう思った途端、ぼんやりした頭が一気に冴え渡る。
慌てて閉じていた瞼を開くと、舌を垂らした金髪の青年があたしの顔を覗き込んでいた。
「きゃっ」
「んあ?!」
至近距離での対面に、お互い声を上げて飛び退く。
青年は勢い余って床に尻餅をつき、あたしは寝かされていたソファから危うく落ちかけた。
「きゅ、急に起きんな!心臓止まるかと思ったびょん!」
「ご、ごめんなさい!」
金髪の青年の怒声に思わずあたしは謝ってしまった。
素直に謝られると思っていなかったのか青年は一瞬きょとんとしたが、すぐに「わ、分かればいーんだびょん」と少し気まずそうに言って立ち上がった。
彼の隣には、ニット帽を被った眼鏡の青年が立っている。
マンションの玄関で何かの薬をあたしに嗅がせた人物だ。
この二人って…
「もしかして、犬くんと千種くん?」
「!!なんれオレ達のこと知ってるびょん!」
「あぁ、えっと、骸くんに聞いて…」
本当は直接聞いたわけじゃない。
以前彼が見せてくれた記憶の断片に、この二人が頻繁に現れていたのが印象的だったから憶えていただけだ。
それと雲雀くんと戦っていたのをコミックスで見たからね。
そしてもうひとり、右目に眼帯をした少女の存在を思い出した。
多分彼女も彼らと一緒に行動しているはず。
「あ、あの…クロームは?」
恐る恐る訊ねると、軽く眼鏡を指で押し上げて位置を直した千種くんが口を開いた。
「……あんたに頼みたいことがある…」
し、質問の答えになってない…。
どうしよう。
危害を加えてくる様子はなさそうだし、一先ず彼の話を聞いてみることにしようか。
「頼みたいこと?」
「アレ…」
そう言って彼は薄暗い室内の反対側を指差した。
あたしはその先を目で追う。
そこにはもうひとつソファが置かれていて、その上に誰かが横たわっていた。
誰だろう?
確認する為に立ち上がり、そちらへゆっくり近付く。
そこにいたのはクロームだった。
唯一面識のある彼女の存在にホッとしたのも束の間、あたしはその尋常ではない様子に驚いた。
力なく横たわるクロームの呼吸は荒く、顔はリンゴのように真っ赤。
額には玉のように汗が吹き出している。
あたしの気配に気付いたのか、クロームは閉じていた目を少し開けた。
「……昴琉、様…」
「!クローム、大丈夫?」
あたしは慌ててしゃがみ、こちらに伸ばしてきた彼女の手を握る。
「大、丈夫…」と弱々しく握り返す手は、見た目通り発熱しているようでとても熱い。
相当衰弱しているのか、クロームはすぐに瞼を閉じてしまった。
こちらにはあまり近寄らず、数歩離れた所で立ち止まった犬くんが言った。
「一昨日ぶっ倒れてからずっとその調子だびょん」
「一昨日って…病院は行ったの?」
「脱獄犯が堂々とそんなトコ行けるかっつーの!
オレ達を逃がしてくれた骸さんの為にも、もう捕まるわけにはいかねーびょん」
フンッと犬くんは横を向いてしまった。
あぁ、そっか。
こうしてると普通の人に見えるけど、一応脱獄犯なんだよね。
「―――だからってこのまま放っておくわけには…」
「今は目立てない理由がある…。
…それに骸様が、あんたならクロームの面倒見てくれるだろうから呼べって言った…」
そっぽを向いてしまった犬くんの代わりに、今度は千種くんが答えた。
千種くんの頼みたいことって、クロームの看病だったのね。
まぁ、呼ぶっていうより攫われたような気もするけど。
目立てない理由、ねぇ…。
犬くんと千種くんは脱獄出来たけど、骸くんはまだ牢獄の中。
もしかしたら千種くん達は彼を助け出す算段をしているのかもしれない。
今見つかってしまっては、その計画がおじゃんになるってことかな?
……何にしろクロームをこのままにしておくことは出来ないわね。
「分かったわ。クロームの看病はあたしがする。
でもここは駄目よ。病人には環境が悪過ぎるわ」
言ってあたしは、室内を見回す。
恐らくここは骸くんと雲雀くんが戦った黒曜ヘルシーランド。
外と内を隔てる窓ガラスは殆どが割れていて、隙間風が入るどころの話じゃない。
長い間掃除された様子のない床は、塵が積もり、歩く度に埃が舞う。
光源は破れたカーテンから漏れる陽の光のみ。
何より身体を休めるベッドがない。
これじゃぁ治るものも治らない。
う、うーん。雲雀くん怒りそうだけど、病院に行けないならこれしか方法ないかな…。
「一先ずあたしの家に運んで、お医者さん呼んで診てもらいましょ?」
あたしは思い浮かんだ方法を提案した。
けれど、それを聞いた犬くんが怖い顔であたしを睨んだ。
「…おまえの家って、アヒルの家だよな」
「あ、アヒル?」
「…雲雀恭弥のこと」
千種くんが説明してくれる。
どうやら犬くんは雲雀くんのことを『アヒル』と呼んでいるらしい。
なんでアヒル…?鳥繋がり…?
「うん、そうよ。一緒に住んでるから」
「ダメら!アヒルの世話にはぜっっってーならねーびょん!!」
そ、そんなに力一杯拒否しなくたっていいのに。
自分の慕う人と対立している人物に、借りを作るのが嫌なのは分かるけど。
んー、他の方法となると…
「じゃぁ、ツナくんに連絡取ってみる?」
確かクロームもツナくんの守護者なんだよね。
仮にもボスだし、優しいツナくんなら養生する環境を整えてくれるんじゃなかろうか。
そう思ったんだけど、
「それもダメら!ボンゴレの手なんか、もっと借りたくねーびょん!!!」
犬くんはこれでもかと言わんばかりに歯をむき出して拒否した。
病院も駄目。うちも駄目。ツナくんに頼るのも駄目。
こ、この子は…!
提案を悉く突っ撥ねる彼に、流石にあたしもカッとなってしまった。
「んもう!子供みたいな我が侭言わないで!緊急事態なのよ?!」
「う、うるへー!!骸さんにちょっと気に入られてるからって命令すんな!」
あたしの反撃に一瞬気圧されたようだったが、犬くんはすぐに気を取り直して怒鳴り返してきた。
き、気に入られてるって…な、何よ、それ…!
犬くんの反抗心は、もしかしてヤキモチなんじゃ…。
あぁ、もう!ややこしいっ
骸くん、あたしのことこの子達に何て説明したのよっ
彼を説得しようとした時、握ったままだったクロームの手が僅かにあたしの手を引いた。
驚いて彼女の顔を見ると、苦しいだろうに健気にもあたしに笑顔を向ける。
「…私の、家……私の家なら…誰も、いないから…。
お願い……犬、千種…」
クロームは途切れ途切れに言葉を紡ぎ、二人に懇願した。
が、すぐにまた瞼を閉じてしまう。
これ以上言い争って、彼女に負担をかけるのはよくない。
クロームのお陰で幾分冷静さを取り戻したあたしは、犬くんと千種くんにお願いすることにした。
「迷っている暇はないわ。あたしからもお願い。彼女の家に連れて行って」
「だから命令すんな!」
「…分かった。クロームの家に行こう」
頑なに拒む犬くんとは反対に、成り行きを黙って見守っていた千種くんはあっさり賛成した。
「な…!オレは反対だびょん!なんれブスの家になんか…?!」
「煩いよ、犬…」
千種くんの手にはいつの間にかヨーヨーが握られていた。
先程までの気だるげな様子が嘘のように一変し、彼の纏う空気が冷たいものに変わる。
たまに雲雀くんが見せる、あの怖さだ。
―――――ゾクリとした。
それは犬くんも同じだったようで、
「…ちぇ!しょーがねーびょん。全部骸さんの為らかんな!」
と渋々折れてくれたのだった。
2011.8.27
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