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それは結婚の準備も大分進み、夢のような幸福感に浸っていたとある朝の出来事だった。
朝食を食べ終え、寝室で仕事に行く雲雀くんの身支度を手伝っていると、ベッド脇のナイトテーブルに置いてあった彼の携帯電話が鳴った。
勿論着信音は彼の愛する並盛中学校校歌だ。
卒業して何年も経っているのに―――本当に好きなのね、学校。
彼の勤める風紀財団も母体は並盛中の風紀委員会だって話だし、それからも雲雀くんの並盛愛が本物なんだって思い知らされる。
因みに雲雀くんが買ってくれたあたしの携帯電話にも、貰った時から既に並盛中の校歌が入っていた。
折角だからあちらにいた時と同様、雲雀くんからの着信は校歌に設定している。
余談はさて措き。
雲雀くんはネクタイを締めようとしていた手を携帯電話に伸ばし、気だるそうにそれに出た。
丁度傍にいたあたしは、電話で手の離せない彼の代わりに締めかけのネクタイを締めてあげる。
こうしてると新婚さんみたいで少し照れ臭い。
締め終えて見上げると、雲雀くんは声を出さずに形の良い唇で『ありがとう』の形を作って優しく微笑んでくれた。
う…ちょっと、きゅんとしてしまった。
赤くなってしまった顔を見られたくなくて俯く。
本当に雲雀くんはカッコよくて、困る。
結婚式を挙げるって決めてから、彼が今まで以上に大人びてカッコよく見えちゃって…あぁ、これって贔屓目なのかな。
でも仕方ないよね。
す、好きなんだもん…。
ひとりでモジモジしていると、通話を終えた雲雀くんが満面の笑みであたしを自身の腕の中に閉じ込めた。
「昴琉、午後から一緒に出掛けよう」
「構わないけど、一体何?」
電話に出る前とのテンションの差に面食らいつつ、あたしは愛しい彼に訊く。
すると雲雀くんは少し腕を緩め、楽しげにあたしを見下ろした。
「まだ内緒」
「えー、意地悪」
少し頬を膨らませると、雲雀くんは宥めるようにあたしの額に軽く口付ける。
「少し片付けたい仕事があるから午前中は屋敷に行ってくる。
昼頃には戻るから、出掛ける準備をしておいて」
「うん。あ、お昼御飯どうする?」
「軽い物でいい。すぐ出掛けたいから」
「分かったわ。…それにしても随分ご機嫌ね」
「まぁね。きっと貴女も午後にはこうなるよ」
そう言って雲雀くんはあたしを抱く腕に力を込め、頬擦りしてきた。
本当に、鼻歌でも歌い出しそうなくらいの機嫌の良さ。
彼をこんなに笑顔にさせるくらいだから、きっと物凄く良いことがあったに違いない。
そう思うとあたしの胸も釣られて弾んだ。
***
一通り家事を済ませて身支度を整え、少し早いけれど昼食の準備をする。
手早く食べて出掛けるなら、サンドイッチがいいかな。
冷蔵庫を漁って、サンドイッチに使えそうな食材を取り出す。
卵を茹でている間に、トマトやレタス、ハムなんかの具材を適当な大きさに包丁でカット。
食パンにマーガリンを塗りながら、あたしは今朝の雲雀くんを思い出していた。
あの雲雀くんがあんなに喜ぶなんて、やっぱり結婚式関係のことかしら。
結局話の流れで今の段階ではあたしのすることは殆どなくなってしまったから、準備がどれだけ進んでいるのか分からないのよね。
結婚指輪が出来上がるにはまだ早いし…。
あ、ツナくんにお願いした人前式の会場が決まったとか?
それともウエディングドレスが出来上がったんだろうか。
そうしたら雲雀くんのタキシードがやっと選べるなぁ。
雲雀くんならどんなデザインだって似合いそうだけれど、やっぱりドレスとのコーディネートは大事よね。
それにしても―――雲雀くんとの関係も色々変わったなぁ。
初めは同居人。
次は恋人。
今は婚約者。
そして今度は夫婦。
夫婦、か。
言葉にするとなんだかちょっぴりくすぐったい。
でも……早く、雲雀くんの奥さんになりたいな。
結婚したからって劇的に今の生活が変わるわけじゃない。
関係を表す単語がどれだけ変化したって、雲雀くんは雲雀くんで、あたしはあたしだ。
そうと分かっていても、心は逸る。
だって、大好きな人と一生添い遂げると誓って過ごす日々は、とても素晴らしいと思うから。
勿論今だって十分幸せなんだけれどね。
欲張りな自分に苦笑して、あたしはいつの間にか止まってしまった調理の手を再び動かした。
鼻歌交じりで茹で上がった卵の殻を剥いていると、ふいにチャイムが鳴った。
セールスかなと思ったけれど、剥きかけの卵をまな板の上に置いて一応インターホンの画面を確認する。
そこに映っていたのは雲雀くんだった。
普段彼は鍵を持ち歩いていて、帰宅時も自分で鍵を開ける。
だから彼がインターホンを鳴らすことは通常ないのだけれど……。
首を傾げながら通話ボタンを押し、あたしは画面の向こうの雲雀くんに声をかけた。
「どうしたの?」
『屋敷に鍵を忘れてきたみたいでね。開けてくれるかい?』
…珍しい。
しっかり者の雲雀くんらしからぬミスだ。
それに彼が戻ると言ったのはお昼頃。
帰って来るにはまだ早い時間帯だった。
―――――どこか拭えない違和感。
『昴琉?』
逡巡していると、雲雀くんが不思議そうにあたしを呼んだ。
「あぁ、ごめんね。今開けるわ」
きっと出掛けるのが嬉しくて、急いで帰って来たから忘れちゃっただけだよね。
そう納得してあたしはエントランスのロックを解除した。
程無くして再び部屋にチャイムが鳴り響く。
あたしは小走りに玄関まで移動し、ドアスコープから彼の姿を確認して鍵を開けドアを押し開く。
「早かったのね。まだお昼作りかけで……!?」
笑顔で出迎えた瞬間、腕を掴まれぐぃっと外に引き摺り出される。
勢い余って彼の胸にぶつかってしまった。
な、何…?!
驚いて雲雀くんを見上げると、今度はハンカチのような白い布で口元を覆われた。
途端に鼻腔に広がる甘い芳香。
何か薬を嗅がされてる?!
恐怖心が全身を駆け巡り、冷や汗が出る。
危険を感じた身体が反射的に抵抗するが、逃すまいと咄嗟に回された腕に押さえられる。
「めんどいから、暴れないで」
揺らぎ始めた視界が捉えたのは、愛しい婚約者の姿ではなくニット帽を被った眼鏡の青年だった。
ついさっきまで雲雀くんだったのに…!
それにこのヒトは―――――
襲い来る猛烈な眠気に抵抗出来ず、あたしは意識を手放してしまった。
2011.7.10
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