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チュン、チュン…チチチッ
窓の外から聞こえる雀の鳴き声。
そして頬にかかった髪を掻き上げられる感触に、あたしはまだ重い瞼をゆっくり押し上げた。
耳元で囁く低めの声が、ぼんやりとした意識を覚醒へと引き上げる。
「おはよう、昴琉」
「んー…おはよ、雲雀くん」
目を擦りながら上を向くとその手を掴んで退かされ、キスをされる。
うぅ、お酒臭いなぁ雲雀くん…って、あぁ!ディーノさん達来てるんだった!!
それを思い出して完全に覚醒したあたしは、毛布を撥ね除けてガバッと起き上がった。
み、見られちゃったかな…?!
火照る顔を左右に振って素早くリビングを見渡す。
良かったぁ。まだみんな寝てる。
ホッと息を吐くと、隣で雲雀くんも身体を起こし少し長めに息を吐いた。
見れば眉間に皺を寄せ、スラリと長い指で軽く額を押さえている。
どうやら流石の雲雀くんも軽い二日酔いらしい。
「お水持って来ようか?」
「コーヒーがいい」
「コーヒーね。少し待ってて」
「……僕も行く。朝から群れたくない」
まだ眠るディーノさん達を視線だけ巡らせて確認した彼は、不機嫌そうに口をへの字に曲げて立ち上がった。
雲雀くんらしい反応に苦笑が漏れる。
幾つになっても彼の根幹は変わらない。
久々に雑魚寝をしたせいで軋む身体に鞭打って、あたしもキッチンへと足を運んだ。
***
コーヒーメーカーのスイッチを入れて、空気を入れ替える為に窓を開け、昨夜はそのまま寝てしまったからお風呂も沸かす。
その間に軽い朝食を作っていると、ディーノさん達も順々に目を覚ました。
みんな一様に顰めっ面なのは、やっぱり深酒が祟っているようだ。
主である雲雀くんやあたしよりも遅く起きてしまったと顔を蒼褪めさせた草壁くんは、何度も何度も謝ってくれて、その上散らかったリビングの片付けを買って出てくれた。
お客さんなんだからそんなことしなくていいって言ったんだけれど、彼は「これくらいさせてもらわなければ、オレが恭さんに咬み殺されます…!」と雲雀くんの方を盗み見ながら言った。
そんな草壁くんを見兼ねたのか、ロマーリオさんも彼と一緒に部屋を片付け始めた。
雲雀くんはといえば、脅える部下を尻目にとっとと朝食を済ませ、ツンツン全開でお風呂に行ってしまった。
キッチンで一緒に朝食を食べていたディーノさんは、それを見て小さく笑う。
「しょーがねーな、恭弥は」
「本当に」
彼の言葉にあたしも同意して苦笑する。
悪い子じゃないんだけど、協調性がないのは否めない。
雲雀くん相手にさぞ苦労してるんだろうなとディーノさんの方を見ると、それまで穏やかな笑みを浮かべていた彼は口元を引き締めていた。
「昴琉。ちょっと真面目な話をするが、いいか?」
「はい」
いつもの親しみやすい彼とは違う真剣な表情に、あたしは少々戸惑いながら返事をする。
雲雀くんがあたしから離れたこのタイミングで話しかけてくるってことは、彼に聞かれたくない話なのだろう。
「恭弥からあいつの生業について聞いているか?」
「風紀財団の委員長をしていると聞いてます。
あ、後はツナくんの雲の守護者を担っているとか…」
「内容については?」
「―――詳しくは知りません」
「そうか」
ディーノさんは少し声を声のトーンを低くして、思案するように軽く握った手を口元に当てた。
その仕草に胸の奥で不安が蠢く。
「……やっぱり危ないこと、してるんでしょうか」
あたしに心配かけまいと、雲雀くんは仕事に関することは何も言わない。
でもあたしはこちらの世界に来る直前、殆ど斜め読みだったとはいえコミックスを読んでいたから、彼がマフィアに係わっていることを知っていた。
そして彼が戦うことに至高の悦びを感じていることも。
―――――そう。幾つになっても彼の根幹は変わらない。
あちらの世界でも彼は自ら裏社会に身を投じて風紀委員会を発足させた。
上手く隠してはいたが、小さな喧嘩や闘争を毎日のようにしていたのは想像に易い。
勿論あたしとしては心穏やかでいられないのだけれど、水と魚の関係のように雲雀くんにとって戦いがなくてはならないものなら仕方ないと甘んじている。
普段の生活でそれを気にしたりはしないが、漠然とした不安はいつも心の片隅にあった。
だからこの時、あたしはつい訊いてしまったのかもしれない。
不安げなあたしに気が付いたディーノさんは、端整な顔に浮かべた表情を少し和らげた。
「恭弥が何も言わねーのに、第三者のオレがあれこれ口を挟むのは野暮ってもんだが……オレは昴琉にも知る権利があると思ってる。
夫婦になるのなら尚更だ。オレは教え子である恭弥も、あいつが惚れたあんたも大切だ。
隠し事をしたまま一緒になって、後々こんなはずじゃなかったと後悔して欲しくないんだ」
「ディーノさん…」
「昴琉も既に気付いているようだが、オレ達の家業に危険は付き物だ。
マフィアであるボンゴレの守護者を務める恭弥は、いざという時ツナを護る為に否応無しにその矢面に立たされる。
まぁ、あいつの場合自分から突っ込んで行きそうだが…。
場合によっちゃ、あんた自身も命を落すような危険に晒されるかもしれない。
正直、平穏無事に過ごせる確率の方が遥かに低いんだ」
ディーノさんの口調は淡々としていたけれど、その言葉は漠然としていたあたしの不安を肉付けし、はっきりと浮かび上がらせた。
お陰で雲雀くんが何故あんなにも過保護なのか納得出来た。
今まで無事に過ごせていたのも、きっと彼が持ち得る力の全てで守ってくれていたからだろう。
あたしの身勝手な行動がどれだけ彼の神経を磨り減らしていたか…。
しかも結婚すれば、その負担は一生雲雀くんに伸し掛かる。
あたしには自分が命を落すことより、そちらの方が怖く感じられた。
そんな心の揺らぎをディーノさんの鳶色の瞳は見逃さなかったようだ。
瞼を閉じて小さく息を吐き出すと、キャバッローネのボスはしっかりとあたしの目を見据えて訊ねる。
「雲雀恭弥の妻になるということは、つまりそういうことだ。
―――それを踏まえた上で、昴琉はあいつと一緒になれるか?」
直球なだけに、心を射貫く質問だった。
目の前の青年は『イエス』か『ノー』か、ただそれだけをあたしに求めている。
至極簡単な、けれどとても重要な二択。
それでもあたしにとって、それは選択の余地など要らない質問だった。
心配してくれる彼には申し訳ないけれど。
あたしはディーノさんに笑顔を向ける。
「はい。勿論です」
危険な世界に足を踏み入れるのは、怖い。
あたしは雲雀くんのように自分の身を護る術も知らない。
彼の負担が増えるのは目に見えている。
―――――それでもあたしは雲雀くんと一緒にいたい。
雲雀くんはあたしを望んでくれる。
愛する人に望まれる幸せは何物にも代え難いのだから、結婚する理由はそれだけで十分だ。
雲雀くんのプロポーズを受けた時からあたしの心は決まっている。
何があっても雲雀くんと添い遂げようと。
「…そうか。昴琉に迷いがないのなら、それでいい」
ディーノさんはあたしの答えに満足そうに大きく頷いた。
「恭弥がいるから大丈夫だろうが、困ったことがあったらいつでも相談してくれよ?
オレはあんた達を応援するぜ」
「ありがとうございます」
「おぅ。そうだ、一度イタリアに来いよ!新婚旅行にでもさ。
オレんちホテル代わりに使ってくれてもいいぜ?部屋だけは沢山あるからな」
「本当ですか?!…あ。でもあたしパスポートが…」
「そんなモンいらねーよ。昴琉なら幾らでも密入国させてやるぜ」
「だ、ダメですよ!犯罪じゃないですか」
ディーノさんは「そうだな!」と屈託なく笑って、最後のひとかけらになったクロワッサンを口に放り込んだ。
そしてコーヒーで流し込むようにそれを食べると、空になったマグカップをこちらに突き出して朝に相応しい爽やかな笑顔を浮かべた。
「昴琉、もう一杯頼む」
***
「ディーノさん達帰っちゃったよ」
あたしは開け放したままの窓からベランダを覗き込み、ヒバードと戯れている雲雀くんの背中に声を掛けた。
群れたくないとお風呂上がりからずっとそこに避難していた彼は、こちらを振り返って溜め息混じりに呟く。
「そう。やっと静かになった」
その様子が心底良かったと言わんばかりで苦笑が漏れる。
雲雀くんは一瞬嫌そうに眉根を寄せたが、こちらに向けて両手を軽く広げた。
来いってことなのかな?
ベランダ用のサンダルに足を通して彼の前へ移動すると、間髪を容れず抱き締められる。
驚いて見上げると、不機嫌さを隠さない漆黒の双眸があたしを見下ろしていた。
「跳ね馬に何吹き込まれたんだい?」
「吹き込まれたって…口が悪いわよ、雲雀くん」
「そんな事はどうだっていい。随分楽しそうに話してたじゃないか」
「普通の会話しかしてないわよ。んもう!すぐに君はヤキモチ焼くんだから」
あたしは彼の頬をえぃ!と摘んで引っ張っる。
雲雀くんは口をへの字に曲げて益々ムスッとした。
そんな顔したって、可愛いだけでちっとも怖くないんだから。
頭の上にヒバードも乗ってるしね。
大体会話が気になるなら一緒にいればよかったのに。
でもまぁ、こういう彼の子供っぽいところもあたしは好きだったりするんだけど。
不満げにあたしを見つめる雲雀くんに頬がつい緩んでしまう。
何も教えないのは可哀想だから、さっきディーノさんが言ってくれた言葉を教えてあげようか。
「ディーノさんね、新婚旅行にでもイタリアへおいでって。
あたし達のこと応援するって言ってくれてたよ」
「応援?全く…相変わらずお節介だね、あの男」
「あたしは嬉しかったけどな」
「跳ね馬の手なんて借りずとも、イタリアなんて僕が幾らでも連れて行ってあげるよ」
あたしは彼の的外れな返答に目を瞬かせた。
そ、そういう意味で言ったんじゃないんだけど。
雲雀くんの家庭教師であるディーノさんは、それだけ雲雀くんのことを分かってると思う。
そんな彼に『応援する』って言ってもらえたのは、あたしが君に相応しいって認めてもらえたのと同じだと思うの。
それが嬉しかったんだけどなぁ。
―――もしかして。
雲雀くんにとってはあたしと一緒にいることは当たり前で、だから問題にすらならない……とか?
もしそうなら、凄く嬉しいな。
あたしはクスリと笑って大好きな雲雀くんの胸に擦り寄る。
「ねぇ、結局大酒飲み対決はどっちが勝ったの?」
「僕が勝ったに決まってるでしょ…と言いたいところだけど、生憎途中から記憶が曖昧でね」
「そうなんだ」
「でも、昴琉とキスしたのは憶えてるよ」
「…んもうっ」
意地悪な笑みを浮かべる雲雀くんの胸をぽかっと叩いて照れをぶつけてから、改めて擦り寄ると頭上に優しいキスが降ってきた。
「みんな、また遊びに来てくれるといいな」
「…僕はもう群れたくないよ」
未だ不満げな雲雀くんは、そう言って大きく溜め息を吐いた。
2011.3.6
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