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07


昨夜最後に見たのは、はらはらと舞う薄紅の桜と挑発的な光を宿した漆黒の瞳。

あまりにも幻想的で、あれは夢だったんじゃないかと思うほどに目の前の彼は美しく。

そんな彼がいつもより柔らかい微笑を浮かべ、囁いた言葉は何だったか。
半ば意識を手放していたあたしの耳に響く甘い声に感じた、焦りにも似た胸の高鳴りと戸惑いだけは憶えている。


……あぁ、目が覚めたらどんな顔をして彼に向かい合えばいいんだろう。


目覚めの瞬間にそんなことを考えてしまうくらいに、昨夜の出来事は衝撃的だったようだ。
心地好い温かさと重さを感じながら、霞がかった意識が徐々に覚醒する。

ん…?重さ…?

ゆっくり目を開けると視界が真っ白だった。
いや、よく見ればシャツがはだけてそこから覗く白い肌。
こ、これは世に言う鎖骨…だよね?
なんで鎖骨が目の前に……


「おはよう、昴琉」

「おは…よ、ぅ?!」


頭上からかけられた声を振り仰げば、昨夜最後に見たその人の顔があった。
な、なに、この状況。
どうして雲雀くんがここにいるの?
雲雀くんの部屋は使ってなかった部屋を改装して作ったじゃないか。
ここはあたしの部屋のベッドの上で、温かいと思っていたのは雲雀くんの体温で、感じていた重みは背中に回された彼の腕?!
あたしは抱き枕よろしく雲雀くんに抱き締められていたのだ。

そう理解した途端、身体が硬直して体温が急上昇した。
だらだらと変な汗まで出てきた。
ちょ、ちょっと、どうしよう……!
何にも憶えてないよ……っ
まさか、あんなことやこーんなこととか、したりされちゃったりしてないわよね?!
ひとりで赤くなったり青くなったりしているあたしを、雲雀くんは面白そうに見ている。
何でそんなに余裕ぶっこいてるのよっ
どうせあたしは大人になりきれない大人ですよっ?!
アタフタしてるあたしがバカみたいじゃない…っ!

そこまで考えて重要なことを思い出してハッとする。
背中に回されたままだった雲雀くんの腕を振り解き、ガバッと起き上がって目覚まし時計を引っ掴み、見れば7時45分を表示していた。
今日は平日。勿論通常通り仕事。
8時にはマンションを出なくてはいけない。
あたしは目覚まし時計をガッシリ握り締めたまま、寝転がっている雲雀くんに恨めしげな視線を投げた。


「何で起こしてくれなかったのよぉ!」

「八つ当たりはやめてよね」


少しつまらなそうに雲雀くんは欠伸をすると、ひょいっと起き上がって部屋を出て行った。
あれ?拗ねた?
機嫌損ねちゃったかな…。
でも起きてたなら起こしてくれたっていいじゃない。

本当は次の休みにお花見行こうかと思ってたのに今日雨が降るって聞いて、雨で桜が散っちゃう前にと、昨日急遽雲雀くんを呼び出してお花見に誘った。
ついつい桜が綺麗で飲み過ぎちゃった自分の失態に心の中でガックリ肩を落とす。

―――って落ち込んでる場合じゃない!まだ急げば間に合う!

バスルームに駆け込んで軽く汗を流し、顔を洗って、歯磨きして、寝癖をブラシで押さえつけ、あたしは猛烈な勢いで身支度を整えた。
勿論悠長に朝ご飯を食べてる暇はない。
玄関でパンプスを履いて振り返ると、いつの間にか雲雀くんが立っていた。
忍者か、君は。


「悪いんだけど、朝ご飯適当に食べて!後、鍵お願い!いってきますっ」


こくりと頷いて「いってらっしゃい」といつもの口調で呟いた雲雀くんに安堵して、パンプスだから高が知れてるけど、あたしは駅に向かって猛ダッシュした。

だって、遅刻しちゃったら皆勤手当が貰えなくなっちゃうっ


***


急いだ甲斐もあって、いつもの電車の一本後に乗れた。
普段会社には少し早く着くように通っていたのが幸いした。
これで皆勤手当を逃さないで済む。
ガメツイと言う事なかれ。
うちには今食べ盛りの少年がいるんだから、雀の涙の手当といえどバカに出来ないのよ。

いつものように黙々と伝票整理をしていたら、隣で仕事をしていた遥があっと小さな声を上げた。
彼女の視線を辿って見れば、ぽつりぽつりと雨の雫が窓を叩き始めていた。
あ〜ぁ、やっぱり降って来ちゃった。


「昴琉、アンタ今朝急いで来たんでしょ?傘持ってきた?」

「ううん、起きた時は覚えてたんだけど流石に気が回らなかった。
 はぁ〜、コンビニでビニ傘買うかなぁ」

「しょーがないなぁ。アタシ置き傘二本あるから貸してあげるよ」

「え!ホント?!」

「フッフッフ。感謝し給え、友よ!」

「するする!めいいっぱいするっ」


デスクに踏ん反り返る遥とそれを両手を合わせて拝んでいるあたしの姿は、周りから見ればさぞ滑稽だろう。
それでも、遥の優しさが嬉しかった。
……ビニ傘代浮いたなんて思ってないよ?


***


仕事も終わって、帰る頃には雨も本降りになっていた。
車で来ていた上司が遥とあたしと他二人の社員を駅まで送ってくれたから、遥から借りた折り畳み傘はまだ出番はなくバッグに仕舞ったまま。
反対方向のホームに向かう遥と別れ、あたしは帰りの電車に乗り込む。
雨の日独特の湿気が車内の雰囲気を重くしていた。
それにも拘らず、あたしは昨日と今朝の出来事を思い出して、ちょっとだけ面映い気持ちになる。

どんな顔をして彼に向かい合えばいいんだろうか。

今朝目が覚める瞬間に考えていたのと同じことをまた考えていた。
マンションを出る時は遅刻するかしないかの瀬戸際だったから、ゆっくり考えてる暇はなかったんだけど。
車内の、ましてこのアンニュイな空間では否応なく思い出されてしまう。

堂々巡り。

無情にも電車は予定時刻通りに最寄り駅に着いてしまった。
はぁ。結局答えなんて出ないのよね。
別に態度を変える必要なんかないんだ。

あたしはあたしなんだから。

マンションに着くまでに心を落ち着けよう。
よし!と心の中で気合を入れて改札を抜ける。
辺りには待ち合わせをしている人や迎えに来た人、到着した電車から降りてきた人で少しごった返していた。
迎えに来た子供が父親に傘を渡すなんて微笑ましい光景を視界の片隅に捕らえながら、バッグに手を突っ込んで遥に借りた傘を探す。
けれど傘を手探りで探しながら歩き出したその先に、柱に凭れて佇む少年の姿を見つけ、あたしは愕然とした。

『風紀』の腕章をつけた黒い学ランを羽織り、人の群れを鬱陶しそうに見つめているのは、紛れもなくあたしの同居人、雲雀恭弥くんだ。

しかもその手には、これまた信じ難いことに、ピ、ピンク色の花柄の傘を持っている。

雲雀くんがここにいることにも驚いたけど、それよりもその存在と可愛らしい傘とのギャップに、歩いていた足も傘を捜していた手も止まってしまった。
完全に不意を突かれた。
そんなあたしに雲雀くんが気が付いて軽く手を上げた。
それを合図に硬直が解けたあたしは、慌てて雲雀くんに駆け寄る。


「おかえり」

「た、ただいま。……もしかして迎えに来てくれたの?」

「そうだよ」

「何で…」

「何でって。今朝昴琉慌てて出て行ったから、傘持って行くの忘れたでしょ」


ふぃっと視線をあたしから逸らして「探したけどこれしか見当たらなかった」と前に突き出したのは、さっきのピンク色の花柄の傘。
その先端からはポタポタと雫が落ち、雲雀くんがこれを差してここまで来た事実を如実に物語っていた。
年頃の男の子がこんな可愛らしい女性物の傘を差して歩くのは、どんなに恥ずかしく、どんなに勇気が要ったことだろう。
それを思うと胸がきゅんと苦しくなった。
あたしは遥に借りた折り畳み傘が入ったバックをぎゅっと握り締める。

ごめんね、遥。
折角貸してもらったけど、使う必要なくなっちゃったよ。

突き出されたままの傘を受け取り笑顔で「ありがとう」と言ったら、雲雀くんはくるりと背を向けて「…貸しにしとくよ」と呟いた。

ねぇ雲雀くん。耳が赤く見えるのはあたしの気のせいかな?


***


迎えに来てくれた雲雀くんが持ってきた傘は一本しかないから、自然と相合傘で帰ることになる。
やっぱりこの傘を差すのは恥ずかしいのか、今傘の柄はあたしが握っていた。
二人で入るには女物のこの傘はちょっと小さくて、肩が濡れてしまう。
雲雀くんが濡れやしないかと傘をそちらに傾ければ「僕は平気」と押し返されてしまった。
そう言われてもやっぱり気になってそーっと傾けるんだけど、こちらを見ることもなく無言で押し戻される。
何度かそれを繰り返すうちに、雲雀くんが溜め息を吐いて立ち止まった。


「昴琉、いい加減にしなよ。貴女が濡れたら僕が迎えに来た意味がないでしょ」

「だって気になっちゃうんだもん」

「全く貴女も頑固だね」

「そんなのお互い様じゃない」

「大体僕に合わせて傘持ってるのも大変なんでしょ?たまに腕震えてるよ」

「わ、分かってるなら雲雀くんが持ってくれればいいじゃないっ」

「嫌だよ。その傘僕の趣味じゃない」

「―――ッ」


優しいのかそうじゃないのかよく分からない……。
口で何言っても雲雀くんに敵わないのは、この1ヶ月半の共同生活で思い知らされていた。
頭の回転が速い彼に言い負かされるのなんて日常化していて、その度にあたしは『雲雀くん理論』に振り回されている。
顔もスタイルも、その上頭も良いなんてずるいよ。
だからその分性格が屈折してるのかしら。
きっとそうだ。そうに違いない。

濡れて欲しくないのはあたしも同じなのに。

言い返せない悔しさから口を尖らせて俯いているあたしを見下ろして、雲雀くんはまたひとつ溜め息を吐いた。
そして徐にあたしの腰に手を回して自分の方に引き寄せる。


「ひ、雲雀くん?」

「これ以上の譲歩はしない。まだ煩くするなら昴琉と言えども咬み殺すよ」


予想外の行動に驚いて見上げるあたしに、雲雀くんはちょっと声のトーンを落としてそう言い放った。
か、咬み殺すときたか…。
どうも彼の口癖らしいんだけど、この場合での『咬み殺す』は『この会話はもう終わり』という意味のようだ。
前を向いて再び歩き始めた彼に、押し出されるようにあたしも歩き出す。
確かに二人の距離が縮まった分さっきより濡れない。
でも…こ、これじゃ、傍から見たら恋人同士みたいじゃないの。
彼に触れている部分に今朝と同じ温もりを感じて、落ち着きかけていた心が再びざわつき出した。
何か喋ってないと、おかしくなっちゃいそう。


「そうだ、昨夜はごめんね」

「…どうして?」

「雲雀くんがマンションまで連れて帰ってくれたんでしょ?」

「まぁね」

「酔っ払うと眠くなっちゃう性質みたいでさ。記憶も途中からあんまりなくて、あは、ははは」

「酔った貴女を運んだのは二度目だよ。大人なんだからヒトに迷惑かけないでよね」

「返す言葉もございません…」


ヤバイ。振る話題を間違えた。
これはまた怒られるパターンかも。
でもそれ以上追撃の言葉は彼の口から発せられることはなく、再び沈黙が訪れた。
うぅ…気まずい。
何で今朝一緒に寝ていたのかとか訊きたいことはあるけど、正直訊くのが怖い。

マンションが見えてきた頃、こちらを見ることなく雲雀くんが呟くように話し出した。


「……昴琉の反応が面白いから黙っていようかと思ったけど」

「ん?」

「貴女が心配しているようなことは何もないよ。
 一緒に寝ていたのは貴女が僕の服を握ったまま放さなかったから、そのまま寝てただけ。
 ……安心した?」


君はあたしの心が読めるのかい、雲雀くん。
でも安心したかと訊かれて、すぐにうんと頷けなかった。
だってね、ホッとしたのと同時に残念だなぁってちょっぴり思ってしまっていたから。

何だろうこの気持ち。

返事に困っているあたしに気が付いているのかいないのか、雲雀くんは前を向いたまま歩き続ける。
そうしているうちにすぐマンションに着いてしまった。
傘を畳もうとした時、初めは独り言のように、次はあたしに言い聞かせるように雲雀くんが呟いた。


「僕は、何かあっても良かったんだけどね。
 …僕の前以外であんな無防備な姿を晒さないでよ」


思ってもみない彼の言葉に心臓が飛び跳ねた。
雲雀くんはあたしの腰に回していた手をサッと外して、スタスタとマンションのエントランスに入っていってしまった。
あたしはといえば傘を畳むことすら忘れて、早鐘のように打つ鼓動に耐えながら、颯爽と歩く雲雀くんの後姿を呆然と見つめていた。

ねぇ、雲雀くんそれって……

一生に打つ心臓の鼓動数は決まっているというけれど、それならあたしの寿命は今日一日で一体何年縮まったんだろう。
雲雀くんに出逢ってからドキドキさせられっぱなしだよ。
明日辺りぽっくり天国に召されてしまうんじゃないだろうか。
―――なんてバカなことを考えつつ、あたしは気持ちを落ち着けるように差していた傘を閉じて、既に姿が見えなくなっていた雲雀くんの後を追った。



2008.4.11


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