ああやだ。やだやだ。
だめだ、そんな事、考えてちゃ。

嫌われたくなんかない!








近頃の私はマイナス思考になりがちだ。自分で分かっている内は何とかなるだろうと思っていたのだけれど、現実は悪化する一方だ。




少し嫌なことがあった。
仕事柄仕方のないことなのは分かってはいる。それに、これくらいでへこたれていたらどんな仕事であろうと使い物にはならない。



スポーツクリニックで働いている私だけど、やはり患者さんにああだこうだと文句を付けられる事はよくある事だ。
それは私だけに限らないし、そんな事は実際小さなストレスなだけで、そう堪えるものでもない。





実は、ある男性の患者さんにしつこく言い寄られているのだ。
その患者さん、昔から通ってくれていて、それにすごく良い人だった。
優しくて、大人で、紳士的、そんな印象を持った。
私が相談に乗るべき筈の立場なのに、たまに相談に乗ってもらったりなんかした。
仲良くなって、連絡先を渡されたのだが、どうしようと悩み彼氏に相談したところ、普通に「いいんじゃないの」なんて言われたので、私もまぁいいかと思い連絡をした。





「登録お願いします」くらいの言葉だけで、それ以上はするつもりはなかった。



邦広が信じてくれているぶん、私も大概彼にメロメロな訳で。
こうして、大人に対応しているあたりも凄く良いと思った。







しかし、だ。

その男から毎日のように連絡が来る。
大切な患者さんの1人だからと始めは返事を返していたのだが、さすがにこんなにしたくもなく一度潔く無視をしてみた。

すると、クリニックに来た時、いつものようにマッサージをしていたら、「どうして返事くれなかった」だとか言って言い寄られたことがあった。





その時、私は凄く嫌な予感がしたのだ。



それから、私の予感は的中し、メールの内容がだんだんセクハラっぽい内容に変わってきた。



これはもう無視するしかないと思ってずっと無視をしていた。





邦広に相談したいけど、邦広も今は忙しい。
変な負担はかけたくないし、何より彼のバレーをしている姿が大好きなんだ。
邪魔するような真似、出来るはずがない。






私の仕事のことだし、とりあえず今は耐えるしかない。










そんな感じで毎日を送っていた。

そろそろ、限界かも…
頭の中がイライラしてしまう。



いや、だめだだめだ。
顔に出したら負けだ。





セクハラ男にも笑顔で対応する。
仕事に支障は出したくない。



ちょっと触られるくらい、なんてことない。







だいじょうぶ。
口の中で呪文のように唱えた。






何より、今から邦広に会えるんだ。
暗い顔なんてしてられない。








遠くにいる愛しい彼を見つけると、自然と表情が綻んだ。










「ごめん邦広!ちょっと仕事長引いちゃった。」






「いいよ、お疲れ様。どする?飯どっかで食う?」







柔らかい笑顔と穏やかな喋り方に泣きそうになってしまった。





慌てて頷くと、「行こうか」と手を引いてくれた。









――――――――







食事を済ませて、ふらふらと歩いていた。
暗い街並みを眺めながら。








「どーしよっかあ。…明日休み?」






口を開いた邦広に、笑顔で頷いて見せると、彼も軽やかににっこり微笑んだ。







「じゃ、オレん家くる?」





これは「お泊まり」という意味かな?
そうこう考えながら頭を熱くさせていたら、背後から高めの声が邦広を呼んだ。







「邦広ーっ!久しぶりぃ!」






すっと白く長く伸びた足を盛大に出したミニスカートと栗色の長い髪を縦に巻いた美人なお姉さんが邦広へと寄ってきた。






素敵なプロポーションですこと。

邦広が懐かしそうにその女と喋っているのを端から見て、乳でかいな、なんて思っていた。






楽しそうな邦広の横顔。
幼なじみとか同級生とかそうゆう感じの繋がりなんだろう。私は2人の会話がまるで分からなかった。








浮気すんなばか。

いつもはそんなこと思わない。
なんでだろう。やっぱりマイナス思考悪化してる。









邦広はいつだって私のこと信じてくれてるんだ。



私だって、信じないと、いけないのに。








「…空。空?」







呼ばれてはっとした頃にはもうあのセクシーなお姉さんはそこに居なくて。









「ごめん、行こっか。」








苦く笑って言ってやると彼は不思議そうに首を傾がせた。







「空、なんか最近疲れてる。ちゃんと休めてる?」








「へっ?そ、そんなことないよ!」






顔に出てしまっていたのかと思うと申し訳ない。


笑って誤魔化してはみたけれど、それさえも上手くできたか分からなかった。










邦広の家に着くと、「ただいま」なんて言ってしまいそうになるくらい馴染みがあって、ほっと安心する。





ふとかばんを開けると携帯の小さなったライトが点滅していて開いて見てみる。







あ、またメール。
着信もある。





上手く忘れていた嫌な出来事が頭をよぎって、半ば乱暴に携帯を閉じた。



考えたらだめだと必死に思っていると、こんどは先程のセクシーなお姉さんを思い出してしまった。






邦広が、私に束縛とかしないのって、私のこと信じてるとかそうゆうのじゃなくって…、自分が他の女の子とかと遊びたいから、なのかなあ。
自分が束縛されたくないから、私にもしないのかな。






だから、見たこともないような人でも連絡していいよなんて平気な顔して言ったのかな。









ぐるぐると考え出せば、悪い方向にしか進まない。

どうしよ、鼻がツンとする。喉が熱くて息が詰まる。
こんなこと、考えてしまう自分に腹が立つ。









「どした?体調悪い?」








顔を覗き込む邦広の顔は心配そうだ。





「なんでもないよ」と返そうとして笑った所で、重たい邦広の手が頭を優しく撫でたもんだから、涙が勝手に溢れてしまった。









「…っ、ごめ。ちょ、と、疲れてた、かも……」







精一杯笑って見ようとするけど、微妙だ。
更に嗚咽が込み上げて上手く喋れない。







「やっぱ、ここ最近、ずっと疲れてたんでしょ。」







バレてた。そんなことより、ふぅっとため息のようなものが聞こえて、不安になって、恐くなって、もう全てが終わりそうな気がした。






めんどくさいよね。急に泣かれても、困るよね。





ごしごしと目を擦って涙を止めていたら、突然その手を握られた。








「そんなに擦ったら、痛くなるよ。」







彼を見たら、眉を下げふわりと微笑んできた。








「なんかあったんでしょ?」







優しく抱きしめられて問われた。
嗚咽のせいか酸素が上手く回らなくなって冷たくなった指先で私も邦広の背中を抱きしめた。







「何でも、ないの…」




「嘘だ。そんなに泣いて、何でもない訳ない。」




「心配、かけたくないっ」




「何にも教えてくれない方が心配なんだから…。なに、教えて?」






後頭部を優しく撫で、あやすように背中をとんとんと軽く叩いてくれているのが、凄く心地いい。








「…か、患者さんが…、全然、よく、ならないって…お金、払ってんだから、ちゃんと、見てって…あた、当たり前だけどっ…そんなの、一週間やそこらでっ治るわけ、なっない…!」






「そうだね。神の手じゃないんだから。」







苦笑気味に返してくれる邦広が暖かすぎて、口が止まらなくなる。
ついでに涙も止まらない。
軽いやつだけ言おうと思っていたのに。







「っおばさんには…、聞きたくもない娘の愚痴とか聞かさ、れて、私も…おか、さんに……そんなふに、おもわっ…れて、かなって」




「んな訳ないよ。空のお母さんは、空のこと大好き。オレが知ってる。本当は嫌だけど、きっとオレよりお母さんの方が、空のこと愛してるよ。…ほかには?全部話して?」







もう、言いたくない。けど、言いたい。
そんなんより、もっともっと辛いこと…







「くに、…嫌わないで」






小さな声でそう呟くと、ぎゅっと腕に力を込められそっと離れて目を見つめられた。








「嫌わない。全部話してくれたらもっと、好きになる。」







いたずらな顔で微笑む彼に、今度は私から抱きついた。









「さっき…、邦広…」





「ん?どーした?」






「綺麗な人…と、た、楽しそうだっ、た…っ」







「え、あ、あれ、高校時代のただの友達だよ。…あれには昔からつきあってる彼氏居るし、何でもないただの友達。…ごめんな、不安になったな。」






少しの同様を見せたが、その後はなぜだか嬉しそうに笑いながら教えてくれた。







「ごめんっ…こんな、こと…っ。邦広は、いつも、しんじ、てくれて…っのに…」








「だいじょうぶ。」








またひくひくなる呼吸を知ってか、再び背中をさすってくれた。




これを言えばもう、あの事を言ったって構わない気がした。









「あ、あとっ。」






「はーい?」






「お、男の…患者さんに…」






ずっとしてくれていた相槌か突然切れて、不安になったから体を離して邦広の表情を覗くと、いつもの穏やかな表情は消えて真剣な顔をしていたからこわくなった。








「なに、何かされた?」






声も心なしかいつもよりピリッとしていた。






「へん、な…メールとか来たり…」






誰にも言えなかった重荷を吐き出したせいか、また涙が止まらず苦しくて上手に喋れない。







「電話っとか、…毎日かかって、きて、」






「いちいち返事してたの?」





「むし、したらっ、職場で、変なこと、され、て…」





「は?なにされた?」






「腰、とか、なでられ…っ」





「なにそれ。黙ってそんなことられてたんだ。」







こんな邦広見たことないくらいに、表情は怒りで満ちていて、すごく怖くて「ごめんなさい」と小さく謝った。


「いや、ごめんじゃなくて。」




「し、仕事に支障、だしたくな、くてっ、私のせ、で、クリニック全体に、めいわく、かけれな、し…」







「…っ!?、もしかして、そいつ、前に連絡とっていいかってゆう…」






はっとした邦広にゆっくり頷くと、がばっと抱き寄せられて苦しかった。







「ばかだ、オレ。あーもう。…なんでそれ早く言わないんだ。って、ごめん、オレが悪いんだけど。」






「だ、て、邦広今、たいせつな、時期…」








長いため息が聞こえた。
呆れているみたいだ。







「オレのことなんか、気にしなくっていいのに。」






そう噛みしめるように呟いた邦広は私の額にこつんと、自分の額をつけてきた。








「ほんと、むかつく。」






「え…、」





「…メール、どんなの?」



「えと…ちょ、と、自分で、言うの、はずかし、」





「あぁ?そんなこと?…見せて。」





また怒りが込められた言葉にびくっとしてしまう。
普段から温厚で、怒ったりなんてしない人だから。






携帯を見せると、眉が寄せられ眉間にシワが刻まれた。








「着信拒否、するね?」






私の返事を待たないうちに、かちゃかちゃと携帯を操作しだした。







「よし、あと、アド変しよう。」





そう言うと携帯を渡された。
頷いてアド変をしようと操作をしていると、邦広はゆっくりと口を開いた。







「空、そのこと、院長さんに話して、なんとかしてもらお?」





「で、でもっ…」





「オレのために、そうして?」





真剣な顔で言われて、頷く他なかった。







「ごめんな。ほんと。」






そう申し訳無さそうに呟くとまた抱き寄せられて、持っていた携帯を落とした。









「オレさ、ほんとは嫉妬とか束縛とか、めちゃくちゃやっちゃう人なんだ。」






信じられない言葉に耳を疑う。



「でも、もう良い大人だし、人付き合いって大切だと思うし、なんて大人ぶってかっこつけてみたんだけど…。結果これじゃあなぁ。」







頭をぽんぽんと軽く叩かれながら大人しく逞しい腕の中で縮こまる。








「そいつ、殴りに行っていいかなぁ。」





「だ、だめだよ!そんなことしたらっ、邦広が、バレーできなくなる!」






「分かってるよ。でもまじで、どうしたらいんだこの気持ちは、」





悔しそうなその声に、心底申し訳ない気持ちになった。





こんな想いさせるくらいなら、やっぱり言わなきゃ良かった。








「もうどんな男にも会わせたくない。監禁したい。」







笑いながらとんでもないことを言い出す邦広にぞっとした。







「しないよ。」





もう一度笑って、本気でびびった私の背中を軽く叩いた。
したいのは山々だけど…、なんて小さく囁かれて、やっぱり本気で恐くなってしまった。








「そんな溜め込んで、闇雲に悪いように捉えて、そんなんになるまで気付いてやれなくてごめん。」







もう何度謝られただろう。
私が謝りたいくらいなのに。








「これからは、ちゃんとオレに話して、相談して、2人で解決させよう?」






目を離さずにそう言われたから、大きく頷いた。








「もう、オレをこんなに情けない思いにさせないでよ。」







辛そうに歪められた顔が堪らなく愛しくなって、また涙がこぼれた。







「くにっ、邦広…、好きっ」





「オレも好き。オレは、空だけだから。」






「ごめ、なさいぃ。」






「うん、オレもごめんな?」






ぶんぶんと首を振ったら、小さく笑われた。







「目、真っ赤だ。」






「う、そ。腫れてる?」





「うん。かわい。」









最悪だ。可愛い訳ないよ。



そう思って眉を寄せると、邦広がそっと頬を包んだ。





そして、ゆっくりと優しいキスをした。












あなたの気持ちが、恐いくらいに伝わった。


私、今すごく強い。

どんなに嫌なこと起きたって、乗り越えられる。





これからは、1人じゃないから。


いつだって、この大きくて暖かい身体が私を抱きしめてくれるから。


だいじょうぶ。
今度は、とても楽な気持ちでそう思えたよ。











ふたり









エンド







アトガキ
ながっ。ここまで読んで下さりありがとうございました!