あの夜、どうして私があんなに不安だったのか。今考えてみればそう思うこと自体が健人くんに失礼だったんだな、なんて思った。
夕食が終ってソファにゆっくりと腰掛ける。キッチンに立って手元を動かす健人くんを眺める私に気付いて、彼はふっと表情を緩めた。それから再び視線が落とされると、かちゃかちゃ、という陶器が重なる小さな音が聞こえ始める。
「ありがと」
「おー。TVでも見とけって」
体験したことがないくらい身体が重い。立ち上がるにも、横になるにも思わず「よいしょ」と掛け声が必要になるくらい動き辛くなってきたのは、9ヶ月かけてゆっくりと出っ張ってきたこのお腹のせいで。
健人くんは、お仕事のない今日みたいな休日は、こうして率先して家事を引き受けて私を気遣ってくれていた。
「健人くん、何か見たいのあるの?」
「んー。なんかある?」
「そうだねぇ…。野球も終っちゃったしね」
「あ。そういえばヤスが、産まれるまでに一回メシでも食いに行こうって言ってたな」
「まだシーズン終ってないのに大丈夫なのかな?」
「あー…。まあ、今年は、いんじゃね?ホラ……」
健人くんははっきり言うのを避けたけれど、言おうとしていることが読み取れて、そっか、とだけ返す。
「まあプロだし、毎年優勝とか無理だろ」
「…うん。じゃあ2人で日にち決めて教えて?」
「おー。子連れじゃ行けそうもないとこ連れて行ってもらおうぜ」
「何それ、お兄ちゃんのくせにー」
「いーんだよ、前祝い前祝い」
冗談めかして笑いながら、洗い物を終えた健人くんが隣に腰掛ける。
「お疲れさま。ありがと」
「おう。…大丈夫か?」
「ん。平気」
大きくなったお腹に圧迫されるから、ソファに背もたれるのも少しつらくて、背筋を伸ばしたまま座る私にすぐ気がついてくれる健人くん。よく気付いてくれるな、なんて思う。
この人とこうして一緒にいられることの幸せがじわじわと胸に広がる瞬間だ。
「…どうしたの?」
「んー…」
「なんか顔についてる?」
「いや、ちげーよ。……な、エミ。ちょっと立って」
「え?」
「いいから」
意図がわからないまま言われた通りにすると、健人くんも座りなおした。
「ホラ」
「え?」
穏やかな笑顔のまま彼は両手を広げる。意味することはすぐに理解出来たけれど……。
「え?だ、だって私今重いもん!無理だよ」
「は?重い?当たり前だろ。いいからここ座れって」
「え……。じゃあ。足が潰れても知らないからね」
「ははっ。ばーか」
言いだしたら聞かないのも分かっている。観念して彼の膝の上におずおずと腰を下ろした。
「…………重いでしょ?」
「おー。重いな」
「ほら!だからっ……!」
慌てて降りようとした私の身体は背中から抱きすくめられる。
「……っ」
「これが2人分の重みってヤツ?」
「え………」
「今しかこんな風に2人のこと同時になんて抱きしめられねーじゃん」
「健人くん……」
ぎゅっと腕の力が強くなった。背中から、その腕の中から伝わる彼の温もりが愛おしくて、胸が締め付けられる。
あの日、お腹に新しい命が宿ったって彼に知らせたあの夜。どうして私はあんなにも不安がっていたのか。こんなにも愛に溢れた人に包まれているのに。
「……サンキュな」
「え?」
「……んー。……いいや」
「……うん」
きゅっと、交差される健人くんの手を握り返す。背後で空気が和らいで、彼が微笑んだのを感じた。
耳たぶを鼻筋がくすぐったのを合図に振り返る。吸い寄せられるように唇が重なった。
「エミ……」
「ん……」
愛が深くなる。健人くんのこともお腹の子もこの生活も。そして自分さえも愛おしい。理屈なんてそこにはもうなくていい。
立ち止まることも戻りたくなることも、この原点さえ思い出せたら、先へ進むことがきっとできる。
Wish on the brilliant world.
(添い遂げたい、未来へ)
「お疲れさん。頑張ったな。……ちょっと休めよ」
「うん………」
見慣れない天井を背負った健人くんの慈しむような視線に安心して、私の視界は少しずつ霞んでいく。
頭をそっと撫でるあたたかく大きな手に安らぎを感じつつ、遠くなる意識の中で動く彼の唇をかすかに捉えた。
「……ずっと………る、よ……」
紡がれる言葉に涙が溢れる。
うん、私も。
私もずっと2人を大切にする。
ずっとずっと、愛してるよ……。
穏やかに広がる想いを噛みしめて、それから私はようやく一瞬の休息に身を委ねた。
end
(20101011)