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ムッとする熱のこもった空気が疲れた身体から最後の英気のようなものを奪い去っていく。鬱陶しい。一日中閉め切られた窓からは熱気が逃げていくはずもなく、そんなことは仕方ないとわかってはいるけれど。それでも、日が落ちて夕食どきも過ぎたこの時間に帰宅してもなお、期待を裏切るような気温と室温に、とうとう本格的な夏がやってきた、なんて当たり前のことを再確認させられた。

マンションの限られた数しかない窓を開けたところですぐに空気の入れ替えが行われるはずもなく、いっそのことエアコンをつけようか、とリモコンを手にするもののどうにもこの閉塞してしまった酸素不足の部屋に新しい風を取り込みたくて、窓の鍵を開けた。

黒いガラスに映る自分の顔。今朝はそれなりにぱきっとしていたように思えたシャツの襟まわりも、やけにくたびれたように思えた。

「はぁー……」

ここにあの明るい相方がいれば、なんやねん!溜息なんて吐いてたら幸せは逃げて行くねんで!とか背中を叩かれるのだろう。付き合いが長すぎる。いもしないあいつに想像の中で言われた言葉に、固まりかけた塊のような身体が素直に動き始めた。

冷蔵庫からビールを出して、……買ってきたコンビニ弁当はもう、冷たいままでもええか。温めたところで所詮はコンビニ弁当。大した期待は出来ひんし。

まるで独り言のような心の声に促されるようにテレビの前のソファを背もたれにしゃがみ込む。ルーティンワークのようにテレビをつけると、それまで無音に近かった無機質な部屋が一瞬で賑やかになった。

ゴールデンタイムのテレビは華やかで、見慣れた芸人仲間がひな壇に座って笑いの奪い合いをしている。さっきまでいた場所を客観的に眺めることは慣れていたけれど、今日はいささかかったるい。もっと静かな、作られていない、深夜早朝に流しているような、大自然の中でただカメラを回しているような、そんな番組はないだろうかとチャンネルを切り替えた。


…海とか……海……。…日本海か……。


やけに具体的なイメージが頭の中を占拠する。仕事でも数回しか訪れたことのない、明るいイメージはあまりない静かな岩場と砂浜の共生する海岸。太平洋のものとも、沖縄のような南国のものとも違う、深い青い海。

……エミちゃん、ロケ上手くいったやろうか……。

朧げなその田舎の海を背景に、優しく笑う彼女の姿がリンクする。バラエティにドラマに忙しい彼女は、夏休み特別ドラマの撮影のために一週間ほど前からこの東京を離れている。最後に会ったのはテレビ局の廊下。忙しそうに小走りで楽屋に向かうエミちゃんを見つけた慎が意気揚々と話しかけた、あのときだ。


「あー!エミちゃん!」
「あ、慎之介さん。…松田さんも。お久しぶりです」
「これから収録?」
「はい。お二人は?」
「俺らはこのあと別の局」
「外、雨降りそうだったから、気をつけてくださいね」
「ほんま?隆やん、雨やて」

意識しすぎると会話すらまともに出来ひんやなんて、俺は中学生か。
はっきりと気持ちを白状していないにもかかわらず、なんとなしに俺の気持ちを察しているような素振りを時々見せる慎が、わざわざご丁寧に会話を振ってくれるけれど、かえって居心地が悪くって返事に躓いた。なんとか笑顔で頷くのがやっと。

「……エミちゃん、なんかごきげんさんやね」

器用にはパスを受け取れない俺に内心呆れているだろう慎がその場を上手く取り繕う。

「あ、週明けから山陰のほうに行くんです。私初めてだから、お仕事って分かってるんですけどなんか嬉しくて。ふふ、楽しみなんですよー」
「あ、山陰やて。隆やん前に仕事で行ったやんな?」
「え、ああ。海がキレーかったな」
「なんやねん、その役に立たへん情報は!」

もっとあそこのご飯が美味しかったとか、そういう情報教えてあげなあかんやん!と慎は派手に俺の背中を叩いた。これが最後のパスやで、とすごまれているような気がして、うまいこと目も合わせられないまま言葉を探す。

「……えっと…」
「……冬はカニとか、有名ですよね」

少しはにかみながらエミちゃんは俺を見上げた。

…かわいいな……。……ちゃうわ。なんやったっけ?美味しいもん……。

「えっと……白いか丼、美味しかったって覚えてるわー」
「白いか?」
「隆やん!もっとオシャレなもん紹介したらんと!なんでイカやねん!せめて岩ガキとか!」
「あー、もう!お前はうっさいねん」
「いかが乗ってるんですか?」
「え?ああ、白いかのお刺身とか沖漬けとか乗ってて、生姜醤油かけて食べるだけやねんけど……」
「美味しそうですね」

いつも思う。この子のこの笑顔。これは誰に教えてもらったんやろう。ふわっと軽くて明るくて、あたたかい。初めて出会ったときもこんな風に笑ってくれた。あの時から、俺の心にはこのあかりが消えることはなくて……。



真っ青な日本のものとは思えないほど明るい空を背にしたエミちゃんの姿が目の前に現れた。

「!」

鮮明に回顧するにたやすい、ほんの10日ほど前の彼女の、俺の好きなあの柔らかい笑顔とは違う。
夏らしい飲料水のCMで、南国リゾートの真っ白な砂浜をはち切れそうな笑顔で走り抜けるエミちゃん。

違う。
そんな作られたような笑顔ちゃうくて……。

「あー、あかん……」

会いたい。
声が聞きたい。
一緒におりたい。

恋人でもない俺には用もないのに電話をかけるほどの甲斐性もない。かといって、いちファンとしているにはのめり込みすぎてしまったこの想いは、テレビの中の彼女だけではもう、我慢できない。

「………」

俺からもっと近づかな、あかん。
本気になったのが久しぶりすぎてどうしたらええかわからんなんて言い訳にもならへん。

「……よし……」

次にエミちゃんに会うたら、笑顔で話かけて、それで……。

ブーッ!ブーッ!ブーッ!……

汗をかいた缶ビールの横に投げていた携帯電話が着信を知らせた。

…慎か?どうせ、仕事も早めに終ったし飲みに行こうとか、しょうもないネタ……。

「うわっ!」

ちらっと見えた液晶に、携帯ごと落としそうになる。室温の下がらない部屋のカーテンがふわっと揺れた。




Quit stopping.
(始めなきゃ、はじまらへん)





『あ、松田さんですか?』
「あ、うん。……ロ、ロケは順調なん?」
『はい、今東京です。順調過ぎて、予定より1日早く帰ってきました』
「え!ああ、もう終ったんか……。お疲れさんやね」
『…あ、ありがとうございます……』
「えっと、……」
『あの!お土産買ってきたんです。白いか。生ものだから早くお渡しした方がいいと思って…まだお仕事中ですよね?』
「や、今日はもう…」
『あ、お家ですか……』
「……えっと、………」

息をすっと大きく吸い込んでから、静かに吐き出した。

「エミちゃん、今どこにおるの?」
『………え?…………。えっと、ですね……』





end
(20100729)



 


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