キッチンに立つと正面上方に掛けてあるシンプルな時計が自然と目に入る。スムーズに流れるように動く秒針が、たまにその角度ゆえに光を反射させてキラッと位置を主張した。
…もうすぐ帰って来るよね。
出来上がり間近の夕食のメニュー。家事全般で到底敵うことはない昴さんへでも、なんとかそれなりにふるまうことが出来てきたその腕は、心なしか普段より緊張していた。
それもこれも、久しぶりに出会ったみどりのせいだ。みどりがあんなことを言いだすから。……いや、そもそもは彼女と顔をあわせてすぐに何かあったの?と聞かれるような表情をしていた自分の責任。
『もぉ!エミはいろいろ複雑に考え過ぎなんだよ!』
『え、そ、そうかな?』
『そうだよ!だって、学生時代から昴さんがエミのこと好きで好きでたまらーん!ってカンジだったの、今だって変わんないでしょ!』
『そ、そうかな…?』
相変わらずまわりを見ているんだか見ていないんだか。平日のランチタイムは近場に務めるOLであふれかえっている。そんなまわりの刺さるような視線を一瞬寒気と同時に感じつつ、声を潜めてみどりに顔を近づけた。
『…でも、……ホラ、言うじゃない?釣った魚にエサを与えない、とか…』
『ほらー!また!!そういうとこだよ!エミの悪い癖!』
大丈夫だから、お帰りなさいのあとに、ご飯にする?お風呂にする?それともわ、た、し?とか、軽いノリで聞いちゃえばいいんだって!と、だめ押しの甲高い声にいたたまれなくなって逃げるようにお店から退散したのだ。
「はあ……」
息を吐きかけた時、がちゃり、と玄関の扉の擦れる音が響く。
「!」
まだ心の整理も決心もついてないのに!
めまぐるしく動く頭の中にばかり集中してしまって、どんな顔で迎えればいいのか分からない。
「ただいま」
「お、おかえりなさい!」
咄嗟に、帰宅した昴さんとは逆を向いて炊飯器の中をかき混ぜて顔を隠した。
「…おー……」
特に違和感がなかったのか昴さんはどさっとソファに腰を沈める。
「暑かったなー…今日は…」
独り言のように呟きながらネクタイを緩める姿は毎日見ているのに未だに私の胸をときめかせた。
緩めたネクタイとワイシャツの首もと。それから彼はふうっと長く息を吐く。
…疲れてるんだ……。
激務。
緊張の糸を張りつめたままの仕事は体力の消耗だって凄まじいだろう。更にこの蒸し暑さが加われば、それは想像を絶するもので。
「えっと、……ビール、出そうか?あ、お腹のほうが空いてる?」
ん?と私の言葉に反応してこちらに顔を向ける昴さんの汗ばんだ首元に気がついて、
「あ、お風呂が……」
ここまで言って、プレイバックする、みどりの言葉。
『ご飯にする?お風呂にする?それとも……』
「なんだよ、いきなり赤くなって」
「え!」
「……ご飯にする?それともお風呂?ってこれぞ新婚って感じの台詞だよなー」
にやっと私の反応を確かめるかのように昴さんが笑った。
「…新婚らしく、そのあとそれともワタシ?とでも言えば満点やるのにな」
「な!!」
まさか、さっきから頭で鳴り響いては私を悩ませているフレーズがそのまま昴さんの口から出るとは思わなくて……きっと私のこの反応は分かりやすすぎる。
「…何だよエミ。その反応…お前、本気で言おうとか思ってたんじゃねーだろーな?」
「ち、違っ…!」
ああ墓穴。
ムキになって否定をすれば、それが図星だったと彼に悟られるなんて今まで何度もあったのに。結婚して夫婦になった今でも結局私はいつも昴さんに嘘がつけない。
「……メシにするか?とか聞いてるくせに、すぐ食べられる状況じゃねーだろ?その様子じゃ…」
対面キッチンは覗き込めばリビングからでも簡単に手のうちがバレてしまう。そうなのだ。出来上がりは間近、でもまだ、すぐには食べられないメインディッシュ。
「そういや一緒に風呂とか、ここ最近なかったもんなー…」
「…結婚してからは…」
「あ?」
「な、なんでも…」
下手な誤摩化しが通用しないと分かっていても、ついつい濁したくなる。この自信ありげな笑みを前に、逃げられるはずがないというのに。
「…なんだエミ、入りたいんじゃないのか?俺と…」
「し、知らない!!」
「ふーん……ホラ、行くぞ」
「だ、だから、私は…!」
「たまには一緒に入って背中でも流せよ。ダンナサマの、な」
「………」
「一緒に風呂入って疲れた夫を癒すのも嫁さんの仕事だろ?」
一緒にお風呂。
本当は私こそが望んでいたこと。日々忙しくてゆっくりのんびり話す時間が取れない2人が、今日の出来事だったり、嬉しかったことだったり、愚痴だったりを優しく受け止められる大切なとき。
シーツの間で肌を重ねることも大切だと思うけれど、こんなゆったりした時間だって大事にしたい。ずっとそう思っていた。
ほら、はやくこっち来いよ、と強引に手を引かれ、まるで子供にするように手際良く着ていたものを剥がされる。
「ちょっ…す、昴さ…!」
「ほら、目ぇつぶれよー」
じゃれあうようにシャワーを頭からかけられて、いつの間にか浴室は爽やかで柔らかなシャボンの香りに包まれた。
「一緒にお風呂入りたい、とか…照れずにそれくらい言えばいいだろ?」
背後から聞こえる声は、湯船の中で湯気をまとっていつもよりも柔らかく聞こえる。
「…だって………、誘…」
「あ?」
「す、昴さんから誘ってくれると…!」
「………」
「な、なんで黙るの!」
とすん、と鎖骨の上に重みが加わる。振り返ることを許さないその仕草で、きっと後ろのこの頬は赤みを帯びているんだろうな、なんて推測したら、なんだか可笑しくなってしまった。
「お前な…、そんなこと言ったら結婚してもまだ俺ががっついてるみたいで、なんか恥ずかしーじゃねーかよ」
「が、がっつい……て、今さら!」
「今さらって、文句あるのか?」
「よ、夜は……!」
「夜は?…ふーん?なんだよ、エミ。夜は?」
「………っ」
羞恥と照れが勝って素直になれない私には、これくらいの強引さで引き寄せてもらわなければきっといつまでたっても言いだせなかった。こうやって、私たちバランスが取れているんだと思う。いろんなことが。
「…でもなんかアレだな」
「え?」
「お前が悶々と考えてたこと、すぐ俺が気付くとか……」
「も、悶々なんて、してません!」
「……通じ合ってるって感じで、なんかいいよな」
「…………」
背後からきゅっと再び抱きしめられた。お湯とは違う温度の温もりが伝わって、心に優しいあたたかさが滲んでくる。
うん、と小さく頷いた。
Play the life through with you.
(ぬくもりはずっとそばに)
「…なんだよ、せっかくあのまま…」
「そ、そういうののために一緒に入ったわけじゃなくて!」
「話なんて食事中だって出来るだろ?」
「だってごはんの時はいつも料理教室になっちゃうじゃないですか!これは焼き過ぎだ、とか、切り方がどうのとか…」
「それはエミが……」
きっとずっと、もっと楽しくなる。まるで重なりあう音のように。
end
(20100715)