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西の空が赤みを帯びる。濁りを混ぜた青い海面がその赤を取り入れて、遥か向こうで空と入り交じる。境界線がかすかにぼやけた。

「………」

髪をなでていた風が止んだ。

「夕凪、か……」

成田に着いて、そこから東京までは機械的に戻ってきた。予定されていた記者会見も済ませて、ほんの少しの休息の時間。
長いフライトを終えて、そのまま求められた穏やかな笑みを浮かべて光を浴びて。身体は横になりたいと悲鳴をあげていたけれど、頭がそれを拒否した。…いや、頭じゃない、心か。
ベッドではなく、テレビ局やホテルやショッピングモールのあるこの懐かしい湾岸にたどり着いたのは、潮風の導きか、それとも夢の続きを求めたからか…。


『見て!渚くん、このカップ。ほら、二つ並べると猫になるんだね!カワイイ!』
『ほんとだ、ふふ。これにする?』
『え?でも、渚くんの好みも…』
『エミが気に入って笑顔で使ってくれるなら、一緒に使う僕も笑顔になれるでしょ?』
『…渚く……アメリカ行ってから、ますます……』
『ん?…ほらほら、新生活スタート記念はこれにしよう?このカップで毎日エミのいれてくれたミルクティー飲ませてよ』
『渚くんって、ほんとミルクティー好きだよね』
『違うよ、好きなのはエミのいれてくれたミルクティーだよ』
『モォ!』

明るい笑い声が頭の中をこだまして、それがいつの間にか着陸前の耳鳴りにかき消された。機内でみた、楽しかった昔話はほんの2年前のこと。

僕らはどこからすれ違ったのだろう。
笑顔ばかりだった生活が、いつからこの東京の海のようによどみ始めたのか。

仕事が順調になるに伴って、2人で選んだ猫のカップが戸棚にしまわれたままの日々が続くようになった。言葉にも生活にも慣れて、エミと向き合おうと振り返った時、すでに部屋の温度は一人分しかなく。


…子供だったんだよ、と経験豊富を語る大人がたった一言でその扉を閉めてしまって、言い聞かせるように便乗して鍵をした、心の記憶。

あの頃は、どうして自分1人でエミを支えようとしたのだろう。エミはあんなにも自分の足で立ちたがっていたのに。

「暑いな……」

夏の入り口の夕凪は、じっとりとした日本特有のこの季節をしつこいくらいに強張する。
ここに来る前に買ってきた冷たいコーヒー缶が汗を流して、握っていた手の平からぼとりと雫を落とした。

「…コーヒー派になったの?」
「え?」

誰もいない海から視界をずらすとそこに、

「…………!」

にわかには信じられない、エミの姿。蜃気楼を見ているようで、言葉の代わりに繰り返すのはまばたきばかり。

「やだなあ、幽霊でも見たような顔しちゃって……」
「…なんで、ここに……」
「…こっちの台詞だよ。私、そこのショッピングモールで働いてるの」
「あ……、そうなんだ……」

なんだか無理矢理に丸め込まれたような違和感は隠せないけれど、追求したら消えてしまいそうで言葉を飲み込んだ。

「渚くんは、……いつ帰って来たの…?」
「…あ、うん。今日の午前中……」
「そっか……」

そう一言呟くと、エミは小さく笑って、それから一瞬目を伏せた。
ああ、変わっていない。何かを言いかけて止めるとき、彼女は昔もこうしていた。その姿がどうにも儚く愛しくて、その後に続く言葉を待つことなく、僕はいつも彼女を抱きしめてそれを曖昧にしてしまっていたけれど。

「………」

一瞬の沈黙。
試されているような気がした。抱きしめられるのを待っているのか、それとも……。

潮の匂いがかすかに漂う。
ふわっとひとすじ、エミの柔らかい髪の束が揺れた。

「……ごめん、嘘」
「え?」
「……ほんとは知ってたの。渚くんが今日帰国するの」
「………え……?」
「んふふ、自分がどれだけこの国を騒がせてるか、自覚ないの?この間から持ち切りだよ、渚くんの凱旋帰国の話で」
「あ……映画の……」
「監督業も、頑張ってる順調?」
「うん。今回もすごく良い監督の下で勉強させてもらいながらの撮影で、演技も製作も両方ともたくさん収穫させてもらえたよ」
「そっか。すっごい盛り上がってるよ?ハリウッドで主演!って」

サァッと音をたてて背中から風が抜けた。

「…風が戻ってきたね」

耳の後ろの髪を手で押さえながら、再びエミがふわりと笑う。

「ニュース見たの。仕事の休憩中、ちょうど会見やってて。なんとなく、ここに来たら会えるかなって」
「……僕も……なんとなく来たんだ。どっかで会えるかなって期待してたと思う」
「ここだったもんね、本格的にアメリカ行く前の最後のデート」

頷くよりも先に鮮やかに思い出す。まるで巻き戻したかのように。あの日もこんな夕方、僕らはここに並んで座っていた。

『さっきまでは海からの風だったのに、止んだ後は陸から吹くんだね』
『ほんとだー。……ね、なんか応援されてるみたいじゃない?』
『え?』
『ほら、だって太平洋だよ。この先はアメリカだもん。渚くんの背中を押してくれてるみたいだなって!』
『ははは…、ほんとだ。うん、頑張るよ。……ね、エミ』
『ん?』
『風が押すのは僕の背中だけ?……エミのことは押し出してくれないの?』


「私、後悔してないよ?」
「………え…」

思い出の中のエミが記憶と違う答えを返したようで戸惑った。頭を整理して、自身の時間軸を元に正す。

『後悔していない』

……それは別れを選んだことなのか、それともあの時僕と共に来ることを選んだことなのか。過去と現在が混乱したこの頭ではすぐに判断がつかなくて。

ただ、僕を見つめるエミの瞳に、あの頃の頼りない弱さはなくなっていた。

「見えてなかったことが、たくさん見えるようになったと思う」
「…見えてなかったこと?」
「……渚くんがどんどん遠くなっちゃう気がしたの。ゆっくりでもいいから私も何か前に進めてるって実感が欲しくて……」

再び伏せられた瞳。それが僕の手元の缶コーヒーにそっと移された。

「…でもやっぱりカフェオレなんだ」
「…甘くないと、飲めないんだよ」

いたずらな声色で、話をそらされたのかと思った、次の瞬間。ばっと顔をあげたエミの、今にも泣き出しそうな表情に、胸が鷲掴みにされる。

「……バカでしょ、私ね、……今紅茶専門店で仕事してるの」
「え?」
「幹部試験受かったら、ニューヨーク支店だって行けるって。…そんな小さな理由で決めたんだ…」


力なく、それでも精一杯力んで作ったような笑顔を見て、手のひらがぴくりと動く。するりと抜け落ちる缶は、もういらない。

自分を偽って無理矢理閉ざした扉が少しずつ開いてしまう。もう戻せない。風の勢いがここまで届くなんて。押し込んでいた気持ちはいつの間にか信じられないほど膨らんでいた。

空と海の赤はますます混沌として、もう境界線がわからない。平行線に並んでいた2人の影がそっと寄り添って、溶けた。


My mind became quiet only momentarily.
(夕凪は一瞬の休息)




「あれからミルクティー飲んでないんだ。久しぶりに飲みたいな」
「…とっておきの茶葉選んであげる」


戸棚の猫の笑い声が聞こえた気がした。





end
(20100624)

 


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