すっかり遅くなってしもた。本来ならもっと、いや、もうちょい早く帰宅するつもりやってん。エミちゃんの待つこの家に。
彼女に貰ったお気に入りの腕時計の針は、すでに日付を変えて何周も回ってしまっていて。しーん、と静まり返るマンションの廊下に俺の溜息だけが小さく響いた。
冠番組の特番の打ち上げ。俺や隆やんが参加しないわけにはいかへんし、早退やってありえへん。それはわかってるし、きっと彼女も分かってくれてるはずやけど…。
「あかん…罪悪感……」
このちくちくとする胸の痛みは、日付をまたぐ前には帰るからと告げたせいで、……否。もう少し遅くなる、という連絡を入れなければと思いつつ、段々酔いが廻ってきて、気持ちよくなって。エミちゃんが待っている、ということすら抜け落ちた状態でその場に留まったことが、罪悪感として重く俺を責めるんやろう。
「…しばらく呑みは自粛せな…」
成人してから何度同じ決意をしたことか。ああ、俺は家庭を持つようになってからも何も成長せん奴やな、なんて白々しく思いながらやけに重たく感じる玄関を開けた。
リビングの明かりが廊下を薄く照らしていて、一瞬どきっとする。
まさか、まだエミちゃん起きてんのか?そういえば、明日…いや、もう今日か…。今日は仕事は昼過ぎからやて言うてたっけ?久々に、朝ご飯兼ねてちょっと早めに外で昼食にしよか、なんて調子の良いことを言いだしたんは俺や。
「…た、ただいまー……」
おそるおそるリビングの扉を開くと、想像していた姿はなくて。そのままぐるっと部屋を見渡しても、彼女の居場所であるソファの上は綺麗にととのえられたまま。
寝てるわな、そうやんな、当たり前やんな。今何時やと思ってんねん俺は。
寝室にようやく小さな寝息を確認して、ほっと一つ、起こすことのないように静かに息を漏らした。
夜のしじまが、自分の存在をよりぽつんと強調させる。
何とも言えない空白に流されそうになる俺の目に飛び込んできたのは、あたたかい電球色に照らされるダイニングテーブル。
俺の定位置に並べられた、使い慣れた茶碗と箸と急須と。小皿にのせられた、なんてことはないキュウリの漬けもんと塩こんぶ。
ああ………。
これを用意しているエミちゃんが鮮やかにそこに現れて、同時にじんわりと、温もりが広がった。
「いただきます」
大袈裟なほどしっかりと両手を合わせ、ごく軽くよそったほかほかのご飯に瑞々しいキュウリをのせて、一口。
ポリポリと、口腔から部屋に響く小気味良い軽快な音。
美味いなぁ……。
この味に満たされると、ああ、家に帰ってきたんやなって、ほぅっとする。ずっと長いこと、家よりも外で騒いでるのが好きだった俺に、この幸せを教えてくれたんもエミちゃんで。
「…あん時も俺、エミちゃん待たせて酔っぱらってたんやったっけなぁ」
もうどれくらい前か。あれはまだ、付き合い始めてそれほど経ってなかったと思う。打ち上げはほどほどで帰るから、俺ん家に泊まりにおいでや、って俺がワガママ通したんやったっけ。今日ほど遅くはなかったけど、それでも帰りは午前さまで。
「エミちゃーん!かんにん!ごめんなさい!俺、もっと早うに帰って来るつもりやってん!」
「……あ、で、でも、打ち上げ、盛り上がるのはよく分かりますし…それに普段は朝まで呑んでたって言ってたじゃないですか。十分早いですよ?」
「あああ〜、なんてええ子なんや〜!エミちゃん、めっちゃ好きやー!」
「きゃ!ちょ、ちょっと慎之介さんってば!」
「な、チューしよ?チューさせて?な、な?ええやろ?」
「も、もう!酔っぱらい!!……あ、し、慎之介さん!」
「え?何?シャワー?」
「…違いますって!…お腹、どうですか?ご飯とお漬け物で、一口…」
美味しいもの食べたり、おいしいお酒呑んで帰ってきても、お家で最後に一口だけあったかいご飯とお漬け物食べると、なんだかほっとしません?
彼女の言葉に、両親が食事の最後に漬けもんでお茶漬けをしている子供の頃の食卓が蘇って。
あれは、そういうことやったんか……。
大好きで大切な愛する人と、ほっとする瞬間を味わうしあわせ。
時間が愛おしいやなんて、初めて気ィ付いたわ……。
あの日やったな、この子とこの時間をこれからもずっと共有していきたいって思ったんは。
爽やかで心地いい酸味と甘味を噛み締めながら、最後にあつあつの番茶をすすって。
いつの間にかよどんだ静寂は消えていた。
Habit is a second nature.
(もはやこれこそが生活)
明日の晩は、俺がエミちゃんにお茶煎れてあげたいな、なんて思って。
ごちそうさんでした、と再び手を合わせた。
end
(20100530)