いつの間にか、息を止めてしまっていた。最後に足の裏で跳ねたサッカーボールが、ぽーん、と健人くんの後頭部を越えてから彼の目の前へと戻って来る。
ティン…、と音がした時、ボールは綺麗に彼のスパイクの下へと収まっていた。
「はぁー……」
ようやく解放した息とともに肩の力を抜いて、その時初めて身体中に力が入っていたんだってことに気がつく。
「なんだよ、溜息なんてついて」
「え、だってなんか緊張して」
「緊張?」
「健人くんがリフティングしてるの見る時、いっつも緊張するの。…あれ?言ったことなかったっけ?」
「初耳。何だよソレ…って、もしかしてエミ、息止めて見てんの?毎回?」
一瞬ためらってから頷いた私を見て彼は、はははっと軽快に笑う。その爽やかさはまるでこの春の陽気にも負けることがないくらいで。
「こうやってさ、練習後にエミに見てもらって自主トレしてたら、たいていいつもより長くリフティング続くんだよなー…」
「あー。かっこいいとこ見せたいんでしょー?」
「あったり前だろ?自分の好きなコにいいとこ見せたくないヤツがいるはずねーじゃん」
好きなコ、という言葉が自然に飛び出して来る健人くんに、私はこんなにも簡単にときめいてしまう。たまには先手をとって茶化すつもりだったのに、これでは今日も私の負けだ。
「何だんまりしちゃって。…見とれちゃってるワケ?」
「ち、ちが……」
その通りです。とは言わなくても伝わってるんだろう。そのにやりとした顔を見れば、どんなことを思っているかなんて、もう付き合いが長いんだから分かってる。
「もー!」
「なんだ?ははっ逆ギレか?」
「ちがうもんー!」
数歩先にいる彼にタックルを仕掛けて、そのまま足元のボールを奪った。
「お!」
「よし、私も挑戦!」
健人くんがそれは簡単にやってみせるから、私にも出来るんじゃないかなって思う、リフティング。両手で掴んだボールから手を離して、上げた太腿で跳ね返して…。
「あれ?」
想像の中では、目の前の高さまで跳ね上がってくるはずのボールは、彼の足の上で舞う時とは違った音で鳴いてから、グラウンドへと転がっていく。
「ヘタクソー」
「う、うるさいな!」
追いかけて拾って、もう一度。
次こそは、と息巻いて、再びボールを膝の上に落とす。
「あーっ!」
右太腿で、今度は上手く跳ね返したボールを、左足で受け止めようと足を切り替えたけれど。
「……もっと簡単に出来るかと思ってた……」
「んー…そーだな。足切り替えるのはまだ先にして、とりあえず右足だけでやってみ?」
「それでもいいの?」
「土に着かなきゃなんでもいーんだよ。ほら、こんな感じで…」
健人くんが足元に転がったボールを手を使わずに器用に足先で転がすと、ボールは一気に命が吹き込まれたように軽快に踊りだす。
普段と違って、右太腿だけを使ってお手本を見せてくれる。
わ……、上手……。
ティン、ティン…とボール内の空気の共鳴する心地良い音が、私たち以外誰もいないグラウンドに響く。
時々、校舎の向こうにある野球グラウンドから金属音が小さく聞こえた。
……キラキラしてる……。
汗で少し湿った髪が、顔回りに張り付いていることすら気にかけることなく、楽しそうに笑いながらボールを見つめる健人くんに、いつの間にか見とれていた……。
「な?こうやって……」
「え、あ、うん!」
「…見てた?」
「み、見てた」
「…俺の顔、見てた?」
「うん、……え!」
こんなに明るかったら、赤面を隠すことが出来ない。ふーん、と背筋を伸ばしたままの健人くんが目線だけを少し下げて私のことを品定めするように見下ろした。
「…すぐ赤くなっちゃって…カーワイイ」
「これは、違…」
「なんだよ?赤いのは事実だろ?」
俺に見とれてたのもな、と付け足して、それからぐしゃぐしゃっと頭をかき混ぜられる。
「ちょ、や、やだ!」
「エミがヤダって言うときって大抵イイ時じゃん」
「い、いつの話を…!」
「エッチの時」
「な……!」
また赤くなってやんの、と健人くんはいたずらに笑う。
これ以上の反論は自分の首を絞めるだけだと悟って、無理矢理彼の腕からボールを奪い取った。
「私は真面目に練習してるんですー」
いーだ!と、我ながら小学生みたいだな、と思うような行動をとってから、再びボールを胸の前で構える。
「…真上に上げるようにすんだぞ」
「うん」
茶化してみたり、真面目になったり。このコーチとの付き合いは忙しない。深く息を吸い込んで、肺がいっぱいになったところで、止めた。
ぽん、…ぽん…ぽん…。
4回目に太腿にぶつかった時、ぱちん、という不協和音と共にボールは軌道を逸れた。
「あ……」
「おー、4回!上達上達」
いつの間にかしゃがみ込んで見守ってくれている健人くんの笑顔につられて、私もえへへ、と笑いを返す。
「お前素質あるよ。もっかいやってみ?今度は10回目指せよ」
「10回?えー…、できるかな」
「出来る出来る!ほら、早く」
そそのかされるままに再びボールを構えると、横にいたはずの健人くんが正面へと移動している。
目の前にいられるとやりにくい、とほんの少し身体を斜めに向けると、それに合わせて再び健人くんも移動した。
「……なんで正面?」
「………よく見えるから」
「正面ってやりにくい……」
「いーから。しっかり足あげてボールを真上に、な?」
ニヤニヤしている健人くんを見て、彼の移動の意味が一瞬で繋がった。
「エッチ!!!」
「…ばれたか…」
「信じらんない!スカートの中覗くなんて!」
「なんだよ、制服、そんなに短くしてるからだろ?…てか、さっきはぐーぜん…」
「み、見えてるなら言ってくれたって…!」
「え?ピンクストライプ!とか?」
「……っ!!ばか!!!」
構えていたボールを思いっきり健人くんに投げつけたけれど、顔だけを動かして難なく避けられてしまった。
「…いーじゃん、見慣れてるし」
「そっそういうこと、こんなとこで言わないでよ!」
「…いーじゃん、俺しかいないし」
「た、健人くんに見られたってのが、問題なの!!」
「いーんだよ、俺なんだから」
「…こンの、俺様!!!」
「ははっ。今さらだろ?」
こんなたわいもない日常のやりとりが、結局は幸せなんだって。気がつくのはいつも、夜眠る前。
Eat,drink and be merry.
(毎日が楽しくて)
…明日も2人が笑顔でいられますように、願いを込めて瞳を閉じた。