「あ」
「うわぁっ」
ほぼ同時に声が重なった。扉を開けようとした私は、思ったよりも軽く動いたドアノブにすかされて後ろへと重心が流れた。あ、転ぶ、と覚悟を決めて目を固く閉じた私の腕を引きあげてくれたのは、同じタイミングでドアを開けたマスターで。勢いよく胸に飛び込みぶっと色気のない声をあげた残念すぎる私の頭上で、クロフネの入り口の呼び鈴がカランと揺れた。
咄嗟に閉じた目をそっと開けば見慣れた薄ピンクが目の前に迫り、鼻を満たすのは、……鼻を満たすこの香りは…。
「ごめんごめん、大丈夫?エミちゃん」
「え!あ!す、すいませ…!」
店内のコーヒーの香りよりも強い、服に染み付いた深くて苦い匂いが頭のてっぺんを抜けていく。同時に、それだけではないものが混じった。一瞬だけなのに消えていかない、マスターのにおい。
「おかえり」
「た、ただいま…」
いまだ慣れない距離にあたふたと赤面する私と、そんな様子の全くないマスターの視線が絡んだ。
「あれ、ほんとに大丈夫?鼻赤いけど…打ったんじゃない?」
「だ、大丈夫です!」
打ったって、マスターの胸板で鼻を打ったなんて、もしそうだとしてもそんなこと恥ずかしくて言えないよ、と全力で否定する私の頬は、さっきよりずっと熱い。きっと今も現在進行形で赤くなっているだろう。
「ど、どこか出かけるとこだったんですか?」
「あ、うん。ミルク切らしちゃったから。今お客さんいないし走って行ってこようかなって」
「あ、私行ってきますよ?」
「でも、エミちゃん今帰ってきたとこだし…」
「ついでですし。いつお客さんくるか分からないじゃないですか」
「うーん、…じゃあお願いしちゃおうかな」
まるでお母さんが小さな子にお遣いを頼むように、マスターは私の手のひらに100円玉を2枚握らせる。大きくて分厚い手。あったかい手のひら。大好きな人に包まれた私の小さな手は幸せを感じるけれど、同時に胸は少しだけちくんと痛んだ。これじゃ本当にこどものお遣いみたいだ。
…マスターにとっては大差ないのかもしれないな……。
そんなことを思いながら、いやいや、歳の差で悩んでいても仕方ないし、と気を取り直して、じゃあ行ってきます、と入りかけた店内から足を一歩踏み出した時だった。
「わっ」
再びぐいっと引っ張られた腕ごと身体は深煎りされた香ばしい香りに包まれる。ゆっくり動いた扉が二つの世界を隔てた。背後でもう一度、カランと鈴がなる。
じわり、と後を追いかけるのはコーヒーの匂いじゃない、これはマスターの……。
「…ちょっとくらい、いいよね?」
「ま、マス…」
「マスターは卒業じゃなかったっけ」
「………じょ…う……」
「ん?聞こえないなあ」
「………」
譲二さんの腕の中で口ごもる私を、この人は今どんな目で見ているのだろう。
「…はー…落ち着く。エミちゃんの香り」
「え?」
「あ、なんかオレ、変態みたいじゃない?」
「い、いえ、そんなことは」
「……これでも結構我慢してるからね。さっきみたいに中途半端に近づいちゃうと、悶々しちゃうんだよ。ほら、オレだって一応男だしさ」
「一応、って……ふふ」
「あ、笑ったなー…そんな悪い子は……」
譲二さんはいたずらっこみたいな目で私を覗き込む。見返した私との距離が少しずつ近づいていく。鼻先が触れたとき、すでに彼の瞳から少年くささは消えていた。そこにいるのは、愛しさに満ちた、ひとりのひと。私も同じだろうか。年齢とか歳の差とか、取り巻く肩書は薄まって、譲二さんの目に、私という、エミというひとりのひととしてそこに存在していられているのだろうか。
「……エミちゃん……」
ちゅ、と軽いキスをして、譲二さんはもう一度私を抱きしめた。
「…もっとすごいのしたいけど、……止まんなくなったらまずいし…また夜にね?」
「よ、るって……」
「え?だめ?」
「………じゃないですけど……」
にや、っと笑った譲二さんに、思わず私も微笑み返した。
タイムレス「あれ?リュウ兄何固まってんの?」
「え?あ、お、オウ」
「入んねーのかよ」
「ウオッ、ちょ、待…」
「相変わらずわけ分かんないね、リュウ兄って」
「…早くマンデーの続き…リュウ兄邪魔」
「ま、待て、お前ら……!!」
リュウ兄どんまい。