公安小説 | ナノ
誰もいない銀室では、キーボードを叩く音がよく響く。いつの間にか自分の部屋の使い慣れたPCよりも打ち込みがしやすくなって、ミスタップも少なくなったような気がする。誤字がなくなるというのは仕事の効率に直結するなあなんて。当たり前のことを画面を見ながら思った。

「ふー…」

いかんいかん。他のことを考えるなんて、集中できてない証拠だ。もう少しもう少し。今日こそ終電で帰りたい。足を伸ばしてお風呂に入りたいし、更衣室に置いてある着替えのストックも底をついたからなんとしても帰って着替えねば。ひと月に何度もタクシーで帰るには、新人のお給料はまだまだ心許ないのだ。

私はデスクトップの横に置いてある冷めたコーヒーをグイっと飲み干して、残りの書類に取り掛かった。

「あ、誤字はっけーん」
「ひゃ!」
「ここ、変換間違えてる」
「津軽さん!」

とっくに帰ったと思っていた上司は気配もなく背後に立っていた。端正な顔からは深夜が近いというのに疲れた様子ひとつ感じられない。こんな艶やかな顔でアフター5に存在できるなんて、イケメンというのはズルい生き物だ。

「帰ったんじゃなかったんですか?」
「んー?まあ、お偉いさんはね、いろいろあるんだよ」

まだ終わらないの?と言いながら、津軽さんは隣の席の椅子を引いて、自分を放り出すように座った。その様子から、少しだけ「あ、疲れてるのかも」と気づく。

なんだか同じ人間であるように思えて。2人きりの室内の空気も手伝って、少し距離が縮まったような気がした。

「出来の悪い部下がいるとね、手がかかるから…」
「それって私のことですよね?」
 
すいませんね、と心のこもっていない謝罪を口に浮かべて、私はまたPCに向き直った。そうだ、遊んでる暇はない。帰るのだ。今日こそ。今夜こそ。

カタカタカタ…と静かな室内に再びキーボードの音が響いた。
静かなことに妙なむず痒さを感じてちらっと横目で津軽さんを盗み見ると、オフィスチェアの青い背もたれにだらしなく体を預けてスマホ画面を眺めている。

「仕事、もう終わったんですか?」
「うーん、あと一つ残ってるよ」
「………」

だったら片付けたら良いのに。そう思ったが、上司に言うには少々生意気が過ぎる。同時に、仕事がないのに隣にこうしていてくれるということが少しくすぐったくて、少し胸を躍らせた。とはいえそんな心境を少しも勘づかれたくなくて、口を一文字に引き締めた。複雑に絡み合った感情を、口の中にまだ残ったコーヒーの香りと一緒にごくり、と飲み込むことにする。

「はー、なかなか情勢は変わらないね。いつになったら気兼ねなく遊びに行けるかなー」
「そうですね…。どこか行きたいところがあるんですか?」

液晶画面から目線を移さないまま問うと、津軽さんも同じように顔を上げずに、そりゃあるでしょ。とため息交じりに答えた。

「こんなにバタついた状態じゃ、気になった子を食事に誘うことすらできなくない?…透くんもめっきり合コンって言わなくなっちゃったし、娯楽のない人生ってつまんないよねえ」

(気になった子がいるんだ…)

言い寄ってくる中から目ぼしい女の子をピックアップしている印象の津軽さんの口から、能動的な感情がこぼれて、思わずどきっとする。妙にそわそわする心が、キーボードを叩く指をこわばらせたのかもしれない。

「あ、また間違えてる」
「え!」
「ほらここ」
「あ……、わっ!」

キャスター付きの椅子ごと私のすぐ隣からPCを覗き込んでいる津軽さんの、その近さに思わず背中をのけぞらせた。見えた後頭部に白い糸くずのようなものがついている。

「あ、ゴミ」
「ん?」
「ゴミがついてます…髪に……」
「え?どこ?」
「ほら、ここ……」

手を伸ばして、津軽さんの髪に触れた。

(柔らか……)

「取れた?」
「あっはい!ほら」
「あー、これかー」
「……津軽さんって髪柔らかいんですね」
「?」
「もっさりしてるからてっきりかたいのかと思ってました」
「…どさくさに紛れてディスってない?」
「こんなに柔らかい猫っ毛なのに、なんで夕方になってもぺしゃんこにならないんですか?私なんていっつもぺしゃんこで苦労してるのに」
「何、ウサちゃんも猫っ毛なの?」

そう言いながら津軽さんは手を伸ばして私の頭を撫でた。

「!」

ひゅっと自分の呼吸を吸い込む音が、部屋に響いたような気がする。手練れの上司がそれを見逃すはずもなく。邪気なく話していたさっきまでの表情とは違う色味を含んだ視線を投げてきた。

「ひゃ…っ」

ぽん、と頭に置かれた手のひらはするっと滑り落ち、毛先を掬うように持ち上げる。ついでに長い指がうなじを意味深にひと撫で。

「な!へ、変なとこ触らないでください!」
「ほんとだね、ウサちゃんの髪も柔らかいねー」
「ちょっ…近い!」

髪を離してくれないその手に自分の顔を引き寄せるように近づいてくる津軽さん。

「夜も更けたし、猫っ毛同士、にゃんにゃんしとく?」

しません!!

と自分の大きな声が響いた部屋の時計が、終電へのタイムリミットのオーバーを告げた。

 


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