「…覚悟、ある?」
「え……」
「こっち来たらもう戻れないよ?そういう覚悟、出来てるの?」
「………覚悟なんて、先生のこと好きになった時につけましたから!」
「ふうん、…そう?」
柔らかく流れる黒髪の向こう。薄いレンズの奥の夜の闇のような瞳が少し細められた。
「中西…せん、せ…」
「覚悟が出来てるんだったらいくらでも受け入れるよ、俺は」
誰もいない教室。むせ返るほどの熱気。カーテンも揺れない。夏休みの初日、普段より余裕のある朝見た情報番組の賑やかな天気予報は猛暑日になると言っていたっけ。
このチャンスを逃せばもうきっと、私にはなす術がなくなってしまう。そう思って部屋を飛び出してここに来てみた、けれど……。
触れそうで触れない長い指。この人の温度はこの距離でも測れない。
先生の肌はつめたいの?それともあたたかいの?
教室の後ろ、窓側。あの場所からは遠すぎてなかなか分からない。夏休み直前のじりじりとにじり寄るような太陽を味方につけた私は、逆光を利用してずっとその姿を追いかけていた。きっと表情は誤摩化されるはず。浮つく時期にも真面目に授業に取り組む生徒とインプットされた私に見つめられていたなんて、きっと先生は微塵にも思わなかっただろう。
「…先生は……」
「うん、俺は君の先生だからね。……ね?エミちゃん」
「!」
ずるい。そんな言い方。
咄嗟に喉から飛び出しそうになった非難の言葉を押し込んだ。間違っていない。産休代理のたった1ヶ月。夏休み明けにはまた違う正規の代理の先生がやってくるのだけど。この短い期間であっても、この人は私のクラスの先生で、私は先生のクラスの生徒で。
「…そんな悲しい顔されたら、困っちゃうなぁ」
とうてい困っているようには見えない目元。ふちのない眼鏡の輪郭がきらっと光った。
私からそらされることのない視線に、まるで丸裸にされてしまいそうな気分になる。いたたまれず目線を先生の手元にうつした。
チョークを握るたび、教科書をもつたびくぎ付けになったきれいな指先は少しじれったそうに動く。
あぁ、私が生徒でなければ。
あぁ、この人が先生でなければ。…この指と手の平は、緩やかに私の頬を撫でるんじゃないか、…そんな気がした。
堅苦しい肩書きを取っ払いたい。…ただそれだけを願う。
一番大切なはずの先生の意思の存在を忘れているだなんて、この熱帯気候にやられてしまって気づかないフリをしてしまえばいい。
「…でも、もう先生はこの学校からいなくなるんでしょ?」
「…うん。でも正採用になって、来年からここに戻ってくる可能性だってあるよ?…そうなったときにエミちゃん、隠し通せる?」
「……」
「生真面目で正直、なんじゃないの?」
挑発するように口元が歪んだ。息を飲むほど綺麗。男の人に対してこんなことを思ったのは初めてで、胸が痛みを叫ぶほど大きく高鳴った。
どんっと音が聞こえそうなほどの拍動は痛みを増すばかり。その感覚は一瞬で連れ戻す。昨日までの自分の姿、真面目を装ったあの時間を。
「違う」
「え?」
這いつくばるような声はまるで自分のものではないんじゃないかって思うほど低くて、つめたい。
「…その度の入ってない眼鏡も、…役に立たないじゃないですか」
「エミ、……ちゃ…」
間合いを詰めるにはひと呼吸する時間もいらない。まばたきを忘れた2人にはきっと永遠のように永く感じられただろう、とは思うけれど。
「……っ」
夏休み仕様にネクタイを外した先生の襟元を力任せに引き寄せて、近づいた距離をさらに縮めて。
……あ、なんか。
思ってたより、あったかい……。
…今先生は、どんな顔をしているんだろう。驚いているんだろうか、目を見開いてるんだろうか。このひとの笑った猫のような瞳がまんまるになってると思うと、イケナイことをしている筈なのにお腹の中から可笑しくなってしまう。
閉じた瞼をうっすら開けて、至近距離の彼の表情を確認しようかな、なんて思って、顔の角度を少し変えた瞬間だった。
「んっ………!」
急に割り込むように入ってきた舌の、唇よりずっと高い熱におののくように目を開けてしまうと、そこには……。
「なか、に…、せ……」
「先生、はナシ、だよ」
離れない2人の吐息の一瞬の隙間に、余裕の微笑みと一緒に落とされる色気を含む音色。
うなじを優しく這う手の平も指先もひんやりしているのに。
身体が熱くなる。
「……ハァッ……」
「……覚悟、してたんでしょ?」
「………っ。覚悟なんて、………先生が好きって思った時に、……つ、つけましたから……」
仕掛けたくせに初めてだって、きっと気付かれた。決して追いつくことは出来ない歳の差を埋めたくて強がってみたけれど、そんな私の内心すら見抜かれてる、と思う。
「…俺のダテ眼鏡も役立たずだけど、エミちゃんの優等生のフリも同じようなものだと思うよ?」
「え?」
「教壇から見てみなよ。……視線の種類の違いに気付くのなんて、あっという間だから」
「………じゃ……」
「うん。前からずっと気付いてた」
でもまさか、本当にそっちから踏み込んで来てくれるとは思わなかったけど、と、中西先生はにやりと笑った。
長い暑い夏休みは、まだ始まったばかり……。
「って、なんだよ!こんな教師いるはずないだろ!犯罪だし!」
「は?何言っちゃってるのかな?翔くんてば」
「なんで26時間テレビのスペシャルドラマが京介主役なんだよ!…ヒロインがエミちゃんなのは文句ないけどさー!」
「翔はエミちゃんの制服姿見られるだけでウッハウハだもんね」
「うるせーよ!…だいたい京介、エミちゃん見る目つきがやらしーんだよ!」
「迫真こもった演技って褒めてくれてるってとっとくよ」
「んなわけないだろ!」
「こら!お前ら!!生放送だぞ!」
「あのう……」
「ほらー、エミちゃんが困ってるじゃん?」
「京介が教師役!うわー!世も末だね!」
「何?翔もやりたかったの?学園ドラマ。羨ましいんでしょ?」
「り、亮太……!」
「…翔は教師っていうより同級生にもかわいがられる生徒……」
「くっ!義人はいちいち言うことがヘビーなんだよ!!」
「あのー……みなさん……」
26時間テレビは今年もまだまだ続きます!チャンネルはそのままで!
たまらずスタッフが出した走り書きのカンペを読むタイミングすら計りかねてしまう。そんな暑い夏の1コマ………。