芸恋小説 | ナノ

ソファには座らずにその前のラグに腰を下ろす。初めて彼女が訪れた時、ふかふかだねって喜んでくれたこの部屋自慢の毛足の長いラグは、すでにやる気なくへたっている。ここをお気に入りだと言って好んで座っていたあの子のせいだってことは明白だ。

そんな彼女の真後ろを陣取ってソファにもたれかかるのが好きだった。視界にはいつも小ぶりの可愛い頭があって、そここそが俺のお気に入りの場所だったから。

ソファには座れない。視界には何もかすめない。

ルティーンワークのようにつけたTVが一人やかましく喋り続ける。内容なんてあって無いようなものだ。面白くもなくて、存在を忘れていた冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。

いつもはそれでもそれなりに美味しく感じるのに、今日はどうしてこんなに苦い?

彼女が出て行ったドアを見つめた。じっと一点を凝視しすぎて、距離感がなんだかおかしい。ドアが動いたように感じて瞬きをすると、そこには無機質な化石のように固まったドアがあるだけだ。相変わらず遠近感がうまく取れなくて、少しずつ廊下が伸びて扉は向こうへと遠ざかっていく。

振り切るように素早く目をまたたかせた。

…やばくね?俺。何期待しちゃってるんだろうね。さっきの顔、ちゃんと見たじゃん。自分であんな顔させといて、エミちゃんが戻ってくるはずないじゃんか。



「……京介くん、それ、……本気?」
「こんなことウソ言ってどうすんの?」
「…………」



信じられない、と言いたげな彼女に突き放すような視線を送ったのは俺だ。自業自得。別にこうなることなんて想像通りだし、むしろこれを望んでたんじゃないの?

酸欠になりそうなほど、部屋の中はエミちゃんの香りで満ちていた。手っ取り早くベランダに逃げ出してみても、背中から彼女の残り香が追いかけてくるようで。でもそれに少しほっとしてる自分がいる。追われているうちが華、なんじゃないかな、なんて。

…自分から突き放したくせに。

別れを切り出して、彼女が納得して出て行って。それからまだ30分も経っていない。

すでにもう何回エミちゃんの笑顔を思い出してるんだろう。胸の中に頭の中に浮かんでは消えない彼女の笑顔と優しい声が鉛のように腹にたまっていく。身体が重い。知らなかった。記憶って物理的に重さがあるんだな。増していく体重で鈍くなって、まとわりつく記憶を振り切ることができずにいる。そしてまた重くなる。事態は悪循環だ。

後悔はしないと見切りをつけていたはずだったのに。これ以上彼女を刻み付けることのできる余裕がないから突き放したはずだったのに。

……俺、バカみたいにさっきからエミちゃんのことばっかり考えてる…。

こんな余裕があるならば、この結末を選ぶ必要なんてなかったんじゃないかな。今からでも、なんて思って振り返ってみても玄関は相変わらず静かで遠くて。

……世の中そんなに上手くはいかないもだよね。

きっと大丈夫って思って彼女を受け入れたけれど、潜んでいた過去は思っていたよりもずっとずっとしぶとかったんだ。

きっとそんな俺に気付いていたのかな。だから反論もせずにずっと話を黙って聞いていたのかな。「嫌いになった訳じゃないんだ」っていうのが本心だけど、それを言うのは反則な気がしたから飲み込んだ。きっとそれだって伝わってるだなんて、俺のエゴなのかもしれないけれど。

エミちゃんのための余白は恐らく埋まらない。埋めようとして手当たり次第を詰めても詰めても、ここは同じ分だけスペースができていくだろう。消えない空白を埋められない間はきっと彼女を忘れられない。自分勝手でヘタレな俺に課せられた大きな罰。

深呼吸をしてから拳を握りなおした。ベランダから部屋へと足を踏み戻してみれば、俺は一瞬で彼女の香りに包まれる。

意外とがっつり俺の中心にいたんだな……。
いつのまに…?不覚だったなあ…。

もうあの子はいない。

タイムアウトはいつだろう。
そんなことを思いながらへしゃげたラグの上で再び白い天井を見上げて。

吸い込んだ彼女の香りを、何度目か分からないため息と一緒に天井に放った。


 


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