芸恋小説 | ナノ

玄関を出ると、湿気で立ちこめるアスファルトの香りが鼻をつく。いつもの制服の上に一枚カッパを羽織った守衛さんは、いつも通りお疲れさまです、と無愛想に呟いて俺を見送った。

収録中は音も聞こえないから、今ようやくこの地面を叩き付ける水音とむせ返るような湿気とで「今日は朝から雨が降っていた」という事実を思い出すことになる。

タクシー乗り場に視線をくべると長蛇の列。次の仕事まで時間があるとはいえ、あの列に参加する気もいまいち起こらず、ではどうしようか、とあたりを一周見渡したときだった。

あ、あれは……。

玄関から続くロータリーの先、屋根の終る手前で空の色を伺う小さな背中。

…エミちゃん?

止みそうもない雨雲の切れ間を探しているようにしか見えない彼女の手に、傘らしきものは見られない。

握った傘の柄がやけに存在感を増した。

吸い寄せられるように彼女へ向かって一歩足を出したところで、ふと頭に浮かぶのは相方の顔。傘を貸したことが慎の耳に入れば、アイツは「抜け駆けや!ズルい!」とかうるさいやろうな。次の一歩を出すことがためらわれて、不自然な体勢で時が止まる。

吸い込んだ6月の空気は雨に冷やされてひんやりしていた。

…このまま気付かん振りをしてた方が……だいたいあの子かて、俺ちゃうくて慎が、

瞬きをした次の瞬間。その一呼吸の間に小さな背中は意を決したように雨の中に飛び出した。あ、と思った時には既に、彼女の長い髪は揺れて流れて濡れて。

「あンの……あほか!」

どしゃ降りの中に飛び込んでいったエミちゃんに向けてのものなのか、それとも一瞬でも小さなことに捕われた自分へのものか。走りながら傘を開いて彼女が跳ねた水しぶきのあとを追いかける。

「ちょお、…おい、エミちゃん!」

少し遠慮がちに呼んだ名前は雨の音でかき消されて彼女には届かない。

「……っ」

もう一度呼ぼうと空気を吸い込んだところで隣を車が走り抜ける。水を含んだタイヤが重たい音を叫んだ。ああ、あかんわ、きっと届かへん。

傘の柄を握りなおしてストライドを広げた。久々やでこんなダッシュ。しかもこない雨の日に。久々に出したジャケットが灰色のしみを作る。ああ、もう。来年までしまうつもりやったのに。ほんま、なんやねんこの雨は。

「…エミちゃん!」

この腕があともう少し長ければ届くのに、という距離で名前を叫ぶと彼女は一瞬ひるんだ。その瞬間を逃さず、後ろに振られた右手首をぐいっと握り込む。

引き寄せた身体を傘の中にしまい込んだ。

「…やっと捕まえた…」

いつものほわんとした印象からは意外過ぎたその脚力に、オッサンの息はもうたまらんわ、とか頭をかすめるのはその場しのぎのつまらん言葉ばかり。そんなしょうもないことすらも、彼女の驚いたどんぐり眼を目の当たりにして飲み込んでしまう。ようやく自分が何を握っているのか、冷静になれて慌てて手を解いた。

「…ちょ、びっくりしたで。こんなどしゃ降りの中走り出すから」
「え。ああ……駅、すぐそこだから…」
「…朝から雨やったやんな?なんで傘…」
「あ、来る時に山…マネージャーの車に傘忘れちゃって…事務所に取りに寄ろうかなって」
「そやかて、…こんな……」

ちら、と視線を空に向ける。言葉の先を理解した彼女はふふ、と肩をすくめた。

「今日はもうアガリなんです。あとは家に帰るだけだったから、まあ濡れてもいいかなーって」

茶目っ気ってこういうことを言うんやろうか。けれど彼女の纏う雰囲気はそれとは真逆。既にびしょびしょのエミちゃんの髪が頬から首筋に張り付いていて、妙な気が膨れて来る。いや、妙なってなんやねん。俺は変態ちゃうで。…ただこう、なんとも言えない色っぽさがあって、やな。…これじゃたとえ彼女になんの気を持っていないヤツやったとしてもドキッとするやろ。そもそも俺は、

……俺は、ってなんやねん。この子は慎が好きな子で、この子もきっと多分……。

息を吸い込んで、一度きゅっと口元を締めた。

「……そんなん言うて、風邪でもひいたらあかんやろ」
「あ、……はい」

そうですよね、としゅんとしたエミちゃんが申し訳なさそうに目を伏せた。いや、別に俺は怒ってるわけちゃうんやで。弁解したくてできなくて、言葉を探す。

「…風邪引いたなんて知ったら、……慎が心配するで?」
「え……」

瞼と一緒にそっと頭が持ち上がる。遠慮がちに俺を覗き込んだ彼女の瞳が一瞬揺らいだ。

「…まあ、この状況も文句言われそうやけど」

さっき彼女から奪った和やかな雰囲気を次こそ取り戻そうと、口元を緩めながら2人を覆う広めの傘をぐるっとなぞるように見た。もう一度エミちゃんに視線を戻せば、彼女の唇はなぜか一文字で。咎めるような、泣き出しそうな、そんな瞳が俺に突き刺さる。

「松田さんは、」
「え?」
「………いえ……」

傘に当たった雨が賑やかに跳ねて踊る。2人の言葉の隙間を埋めていく。

「…駅まで送るし、入って行き」
「…すいません、ありがとうございます」

並んだ肘がたまに触れる。彼女の濡れた服が当たって俺の腕はまた少し深いグレーに色を変えた。




揺れる、染まる、かけら。
(気付かれない、胸のうちはピンク)

end
20110606


 


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