蒼穹と病室
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どうしようもないことだと、必死に自分に言い聞かせた。手のひらに爪が食い込むほど拳を握り、唇から血が滲むほど噛みしめ、あふれでてくる嗚咽を、慟哭を、聞かせやしまいと全てを押さえ込んだ。聡い友人たちが気づかないよう、俺は上手く誤魔化せただろうか。


一年も歳の違う後輩に俺はしてやられた。完璧な俺の敗北。喉奥が焼けるように痛い。胸が裂けそうなほど苦しい。けれど、もうずいぶんと前から予期していた結果だった。こうなることはきっと、あいつが初めてここに来たあの日から、俺は本能で悟っていたのだ。その予感を実現させまいと、他の誰よりも努力をしたのは俺なのに。負けまいと、倒れるまで練習をしたのに。


でも、もういいんだ。あいつを含めた、レギュラーの座を勝ち取ったやつらは生まれついての天才で、そりゃもう常識を逸脱していて、俺みたいな平々凡々な凡人が血ヘドを吐くような努力をいくらしたって敵わないんだって、最初からそういう運命だったんだって。必死に自分に言い聞かせる。


涙が一筋、乾いた頬を伝った。痛いよ、苦しいよ、悔しいよ。最後の年だと言うのに、一歳も年下のやつに敗北して。こんなみっともない姿になって。必死に押さえたって悔しくないわけが、ないだろうよ。



ただ、俺があの場で嗚咽を、慟哭を押さえきれたのは。やはりすでにもう悟ってしまっていたからだ。


そう、俺は手の届かぬところに手を伸ばすことをやめたのだ。傷つくのは自分だから。苦しくて悔しくて、それでも俺の手は空を切るだけなんだから。傷つくのはもうごめんだ。なんて臆病なんだろう。俺は知らず知らずのうちに嘲笑ってた。



立海に入るまでは幸福だった。そう思う。努力は裏切らないと、無邪気にもそう信じていれたから。同世代のテニスプレイヤーの中でもトップクラスに入るという自信があった。俺はそこそこの試合ができるんだ、という自負さえ持っていた。


でも、立海に入り翼を持つ選ばれたものの存在を知ってしまった。
神の息吹きを前にして、大翼の巻き起こす風をその身に受け、圧倒的な力を前に俺が抱いたのは、畏怖と諦念感、それから少しばかりの憧憬。



自信なんて打ち砕かれた。翼を持つものだけがトップクラスと言われる集団から軽々と抜け出し、更なる高みに行ける。翼を持たない俺は、せめて懸命に地面を蹴りながら血と泥にまみれながら、それでも羨ましそうに空を見上げてるんだ。


あいつらは、翼を持ったあいつらは、疎ましそうな目をして、翼を持たない俺たちを見下してるんだろうか。倒れるまで走り込むやつを、手が真っ赤になるまで素振りをするやつを、届きもしない空に手を伸ばす俺を。ただの踏み台だと、笑ってるのだろうか。


それでも。それでも俺にテニスを止めることは出来なかった。
だってそれが俺なんだから。上がいようとも、俺がただの踏み台であろうとも。テニスをしていない俺にも、テニスのない生活にも価値なんて見い出せなかった。


いっそ、テニスを嫌いになれたら全てが楽なのに。



俺はふと、窓の外を見る。
春を待つ桜の樹と、小児病棟であろう幼い子供たち。


あああ、憂鬱だ。いっそのこと死んでしまいたい。



  コンコン、



誰かがノックする。誰か、なんてこの時間にくるのはアイツぐらいしかいないからわかりきってるんだけど。あえて返事はしてやらない。今は一人でいたいような気もしたし、誰かに一緒にいてほしい気もしていた。アイツが入って来ようが来まいが、どうでも良いように思った。



 ガチャ、




「返事もしないなんて、つれないな。」




入ってきたか。



立海大テニス部部長、幸村精市。なんと奴は、俺と切原の試合の翌週、なんだかよくわかんねぇやたらと長い病名の難病とかいうので倒れやがった。しかしそんなことは微塵も感じさせないような元気ップリだ。




「悪い、ちょっと寝てた。」



そう言って、俺は上体を起こす。改めてこう自分の身体を見るとまぁ、散々たる状態だ。一生残る傷もあるだろう。まぁ俺は女の子じゃないので、そこらへんは気にしてないんだが。



悪いね、大丈夫かい?そう言いながら緑、いやあれは黄緑か?そんな感じの色のパジャマを纏った幸村は俺のそばに腰をおろした。相変わらず白い。もともと細かった身体も、幾分か弱々しく見える。



「赤也、反省してるからさ。許してやって。」



開口一番、あいつの事かよ。
言わないものの、俺は眉をひそめた。



「別に、許すとか許さないとか。そういうのはねぇ。」


 最初から別に恨んじゃいねぇ。

そう俺が言うと、幸村は少し微笑んだ気がした。こいつはわかってる。そう、わかっているから余計に疎ましい。翼を持たない俺のもどかしさも、持つものとして心得ておかなければいけないことも、全てわかってるくせに。




「俺ね、死ぬかも。」


「はぁっ?」



ふざけた話をするなアホ、

そう言って俺は、ベッドの隣の机に置いてあるポテチをあいつの顔面に投げつけてやった。こいつが俺にどういう返答を求めてるかがわからない。じゃあ死ねよ、なんて言葉も一瞬頭をよぎった。らしくもなく、なよなよしてるのが一番嫌いだ。女々しく物事を考えるのも嫌いだ。さっきまでの俺のことだけど。


幸村は遠慮の欠片もなくバリッと袋を開くと、そのまま袋片手に食い始めた。幸村らしいな、俺にはやろうともしないのか。




「俺がいなくなったらどうする?」



幸村はいたずらっ子のようにそう言って俺を見た。口の端にポテチのカスがついてやがる。イケメンの癖にダッセ。



「お前がいなくても、立海は優勝するだろ。」


別に誤魔化す必要などない、思ったまんま。真田がいたら、問答無用で俺を殴りそうだけどな。俺はぶっきらぼうで不器用で素直じゃない。お前がいなくたって、大丈夫。立海は強い。だから早く治しやがれ。それが俺なりの気遣いであり、もっと言えば優しさだった。聡い幸村のことだから、気づいてるんだろうけど。




「真田に柳、ジャッカルと丸井、柳生、仁王、それから切原。」



で、俺。負ける気しねぇな。

そう言って幸村を見やる。相変わらずバリバリとポテチを食ったまま、淡々とこちらを見ていた。




「ま、安心しとけ。」


「ヤダね。」



む、間髪入れずに返してきやがった。腹立つ。



「お前に俺の代わりなんか出来るわけないだろ。」


そう自信満々に言い切りやがる。自分がそうなるように仕向けたとは言え、むかつく。でも本当のことだから反論しようとは思わない。惨めだ。


幸村を自意識過剰と言うならば幸村の代わりになると言った方がナルシズムに駆られているだろう。幸村の代わりになれやしないことなんか、端からわかってるつもりさ。別に代わりになんぞなるつもりはない。
相変わらずだな、俺はそう呟く。幸村は満足そうに指を舐めた。



「げっ、お前全部食ったの?」


「もち。」



はぁ、力の抜けたため息がでる。誰だこいつを難病とか言いやがったのは。こいつ俺のポテチをものの3分そこらで完食しやがったぜ。くそ、病人だと思って油断した。




「俺はコートに戻るよ。」

幸村はどこか窓の外を見ながら、呟いた。きっとその目はもう、全国大会が行われる横浜アリーナ辺りを映してるんだろ。ムカつくがこいつは俺ら、立海大の部長だ。そんぐらいなくちゃ困る。




「ああ、お前にんなパジャマは似合わねぇし。」


そう言ってやると、幸村は微かに微笑む。



「ナマエは?どうするのさ。」




「俺は…、どうすんだろうなぁ。」



立海では例年、レギュラーは全国の半年前である2月頃に現段階で一旦決められる。そして中体連が始まる梅雨明けにもう一度。半年の間で急成長した者、怪我をした者、はたまたスランプに陥った者なども少なくないからだ。つまりはまだレギュラーになれることが出来なくもない。ただ可能性は0に限りなく近い、が。



「俺は、そうだなぁ。この身体じゃ何も出来ねぇし。どうすんだろうな?」



俺に聞くなよ、そう言って幸村は苦笑する。だって本当にわかんねぇ。心身ともにずったぼろだしなぁ。




「俺がいなくなっても、立海は何も変わんねえよ。」


そう呟くと幸村は神妙な面持ちになった。いや、別にんな真面目に考えなくていいんだけどよ。口ではそう言うが、俺としては幸村の答えが非常に気になっていた。あの立海の部長が俺にどんな評価をするのかってことだろ?




「ナマエがいなくなったら…、」


「ん?」


さっきと同じように、幸村はどこか遠いところを見ながら呟くように言う。さながら預言者のようだよ、幸村。



「お前がいなくなったら立海は優勝できない。」



…へ?


ゾクッ



「っうわぇ!」



「…なにやってんの?」



「なぁっばぁ、いぃっ(なに馬鹿なこと言ってやがんだ)!」




やべぇ、見ろこの鳥肌。まじキモいんだけどっ。二の腕から背中から足の先までビッチリだ。包帯でわからねぇだろうけど。腕を捲り上げ幸村に主張してやる。よくそんな平気な顔して言えるもんだ。



「なに?俺そんな変なこと言ったっけ?」



幸村はコテン、と首を傾げる。んなことしたって可愛かねぇぞ、ちくしょう。大袈裟に言えば、お前がいないと生きていけないって言われるようなもんじゃん。なに俺、そんなキャラじゃねぇじゃん。



「お前なぁ…、はぁ。俺、責任重大じゃねぇか。」



なんか説明するのも嫌になる。なんら女子との関わりを持たない癖にこいつがモテてる理由がわかった。こいつはタラシ。しかも天然。いや、計算か?どっちにしろ、ろくな奴じゃない。女子の皆さん、こんな奴に騙されたらダメでっせ。




「ふーん。まあいいよ。テニス部、やめないんだろ?」



なにやら腑に落ちないようだったが幸村はそこまで頑固なやつじゃない。と思ったらいきなり核心に触れてくる。ったく、少しは休ませろ。油断も隙もあったもんじゃない。



「さあ。わかんねぇ。」



幸村は俺の目を見て、少し眉を潜めた。負けじとがんつける。なんだよ、このやろー。


ゴーン、

4時を告げる鐘が鳴る。幸村は緊張の糸が切れたように窓の外を見、ゆっくりと微笑んだ。茜に照らされる横顔が綺麗だと思った。



そのあとは、なにもなかったように雑談をして、幸村はなにやら検査があるらしく病室を出ていった。




ったく、あのほっせぇ身体にどんだけのもん抱えてやがんだ。


幸村が出ていった扉を見つめては、思わずため息が出る。あのアホ。一年の頃からそうだった気もする。上級生から睨まれてたときも、コーチとの間でトラブルがあったときも。いつの間にかアイツが一人でしょいこんで。



不意に、机上にあったアイツが食べていったポテチの袋が目に入る。まるでコースターのように正方形にきちんとおられている。そういえば、入学したての頃、みんなでお菓子を持ち寄って遊んだことがある。その時もあいつは、こんな折り方をしていたっけ。


俺はその四角いポテチの袋を手に取る。別にただのポテチの袋だ。ただ無性に寂しく、否、悔しく、だろうか。今更ながらそんな思いが切々と込み上げてきた。


何一つ変わっちゃいねぇのに。


自嘲気味に、口の端を吊り上げる。本当、バカだな俺たち。



空に憧れた翼無き者と、羽をむしり取られた神の子。




俺は締め付けてくる胸をごまかすように、さっきまで幸村が見ていた空を仰いだ。



きっと、お前は翔べる。
そうだろう?幸村。







100122 MANY THANX!!
100812 改定

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