小さな牙

「……暑ィ」
 自らの零す言葉でローレンスが目を覚ましたのは陽の色が少し濃くなった頃、昼も半ばを過ぎた時分だった。平生夕刻を迎えてやっと眠りから覚める彼にしては随分早い起床だが、その原因ははっきりとしている。半身を起こした彼の白髪(はくはつ)から汗が流れ落ち、首筋をしとどに濡らした。一粒、額を伝った滴が彼の目に滲み、顔を歪ませる。
「夏って、こんな暑かったっけ?……クレイジーだぜ」
 ぼそ、と呟き視線を横へ滑らせたところで、異変を認める。決まって彼より先に目覚めて寝言をからかう同居人が、どういうわけだか今日はまだベッドから出ていないのだ。仕返しのチャンスと感じた彼は、静かにタオルケットを除ける。床板が軋まないように柔らかく爪先を降ろし、忍び歩きに近づいた。枕元へ立ってほくそ笑む。さて、何をしてやろうか。
 覗き込む。同居人の寝顔の、割に険しいのに驚いた。普段は癪に触るほど陽気な笑顔でいるくせに、寝息を立てている彼はどこか不貞腐れたようなしかめっ面だ。折りたたんだ右腕を下に、手のひらで頭を支えるようにして彼は横ざまに寝ている。肩から上が外に出ていて、隆々とした上腕の深い筋に落ちる陰もまた、汗でほんのりと湿っていた。
「……寝てる、……よな」
 耳元で大声でも上げてやろうか、と身を乗り出したその時、タオルケットの膨らみに気づいた。それまで単なる皺の寄りと誤認していたその盛り上がりは、横たわる彼と向かい合う形で、ぐっと背を丸め、空間のへこみにそのまま収まっているようだ。それは見るからに人だった。もうひとり、誰か、眠っている?
 むっ、と籠もった暑気に呼吸が苦しくなり、一つ息をついた。窓から差す日は上手い具合にエドワードの顔を避け、鎖骨の辺りを照らしている。好奇心に従って手を伸ばしかけたローレンスはすぐそばまで来て躊躇した、これは暴いても良いものだろうか、それとも知らぬ振りをするべきか?――結局、彼は掛け布の端を掴んで、めくり始める。慎重に、慎重に、その奥に何か壊れやすい、繊細で大切なものが隠し込まれているかのように。
 真っ先に、つむじが見えた。それから艶やかな黒髪が、布に擦れてさらりと流れる。閉じた瞼、白い肌、西洋人の鼻梁、薄づきのくちびる。喉仏が露わになって初めて、その人物が男であると分かった。もしかして、とローレンスは思う。これがエドワードの言っていた、“悪辣極まる幼馴染”か? そんな邪悪な奴に見えないが、……タオルケットが退けられたことで、日差しをまともに浴びた彼は眩しさにわずかに唸る。やがてぱちりと開いた瞳でローレンスは確信した、話に聞いていた通り、嘘みたいな青だ。
「よ、よう。えっと、俺はエディの、」
 怪訝そうにこちらを見やる彼の碧眼を気まずく感じ、しどろもどろに自己紹介を始める。と、彼は口元に人差し指を立ててみせ、shhh、と小さく囁いた。慌てて止まると彼はまた少女のような仕草で軽く首を傾げてローレンスを見つめる。信じられないほどの青。触れようとするとどこまでも逃げる、追うほどに、遠くなる、青、
 くす。
 その瞬間、ローレンスは、脳の痺れを感覚する。思わず飛び退くと青年は一層笑みを深くした、なんだ、これは? 脳を“覗かれた”みたいだ。彼のくちびるに浮かぶのは無垢な少女とはかけ離れた、しかし確実に少女のそれの、陰湿かつ邪悪な笑みで、その濃密な不穏さに自ずと緊張を覚える。彼は、ローレンスを見据えたまま、なめらかに首と腕とを伸ばし、未だ穏やかに眠る同居人の肩口へするり、頬を寄せた。
「見てて」
 つぶやきと共に彼の口が、大きく開き、白い歯が覗く、困惑に固まるローレンスが意図を悟ったその刹那、彼の歯がエドワードの肌に強く強く食い込んだ。鈍い呻き声、噛み跡は、彼の唾液で艶めいて、赤みの差した皮膚の内側に血を暗示する。どく、どくと、脈打つ真紅がローレンスの脳裏に過ぎる。イメージは、閃光のように鮮やかで、焼けるように、熱い。
「っ、クソ、」
 荒くなる息を抑えることもできず、どうしても剥がせない視線を無理やりに振り払うように、ローレンスはかぶりを振って駆け出した。勢いよく、ドアが開かれて彼が去ったその数秒後にエドワードが眉を顰める。彼は眼前で得意げに微笑む幼馴染に閉口し、しばらくしてから暑い、と言った。しかし青年はむしろ余計にぴったりと付き纏い、ぐりぐりと頭を押し付ける。
「退いてくれよ」
「いや」
「暑ィんだけど」
「知らない、くっついてたいの」
「お前な、」
「ペットを飼ってるの?」
「は?……ローレンスか?」
「ふぅん、そういう名前なんだ」
「なんだよ。また余計なことしたのか」
 呆れ混じりの声。青年は、返答をせずに身を離すと、エドワードと瞳を合わせる。無言で見つめ返した彼に青年は再び迫り、歌うように紡いだ。君、ねえ、よく気をつけてね。
「あの飼い犬に噛まれないように」
「手を、か? そんなヘマはしねえよ、」
「違うよばーか。もっと痛そうなところ」
 眉根を寄せて、ふと首筋に手をかけたエドワードは、少し止まったのちに嘆息する。同じ手で幼馴染の頭をはたいて起き上がり、恐らくは自らの寝相で床に落ちたと思しき上着を左右に探す。見つけて、拾う。
「飼い主が犬を噛むなよ、ドアホ」
 背後に佇む彼の表情は満足げだった。シャツを羽織り、ジーンズを履きに別の部屋へと去る親友の背を眺めながら、けれども彼は呪いを吐いた。あのね、僕はね、エドワード。
「あの子、あんまり好きじゃない」


LOAさんちのローレンスくんお借りしました。やおいでごめんなさい。
2017/08/16:ソヨゴ