目が覚めて寝床から起き上がろうとしたら、身体が動かなかった。
腕に、肢に、身体中に全く力が入らない。
まるで全身が泥沼に沈められているかのようだ。
瞼も重くて持ち上がらず、頭がぐるぐるする。
 一体、己の身に何が起きたのだろうか。
原因をつきとめようにも身体は怠く、思考も上手く働かない。
何か悪いものでも食べたのだろうかと考えてみても最近は留三郎の作ったものかスーパーやコンビニで買ってきたというものしか食べておらず、心当たりは全くなかった。

 そうこうしているうちに何やら寒気を感じ始め、だというのに頬は熱いほど火照っている。
熱いのか寒いのかわからない状況に耐え切れなくなって隣に目を遣ると、そこに居るはずの留三郎が何故かいなくなっていた。
一体、何処へ行ってしまったのだろう。
また、俺を留守番に置いて出掛けてしまったのか。

 置いていかれた寂しさと身体を襲うわけのわからない辛さに耐え兼ねて、思わず瞳から涙が零れる。
頭の中では助けを求める声と留三郎を呼ぶ声が、混ざり合って反響していた。

 「とめ、さぶろ…う」

 からからに渇いて焼けるような痛みを持つ喉から掠れたような声を出して、途切れ途切れに主の名前を呼ぶ。
助けて、と紡いだところで意識が闇に溶けていった。




 目を覚ますと、夜だった。
カーテンの開け放された窓から、月の光が降注いでいる。
己の姿も、既に人に近いものへと変わっていた。

 ぱちり、と一度瞬きして合っていなかった目の焦点を正面に合わせると、目の前に留三郎の顔があって思わず目を瞠る。
どうやら、俺の顔を覗き込んでいたらしい。

 「文次郎…!大丈夫か?」

「留三郎…?」

 心配そうな表情で己を見る留三郎に疑問を込めた視線を送れば、彼の手がそっと頬を撫でる。
常ならば温もりを感じるはずのそれが今日は何故かひんやりと冷たくて、しかしそれが火照った頬には何とも心地良かった。

 「ごめんな、具合悪いの気付いてやれずに留守番させちまって…」

「にゃ……」

 申し訳なさそうに謝る留三郎の言葉で、俺は漸く己が体調を崩したことに気付く。
あぁ、だから身体が動かなかったのかと納得すると同時にやはり己を置いて出掛けていたらしい主に少しばかり寂しさを覚えた。
だがそれ以上に己が目覚めた時に側に居て心配してくれたことが何よりも嬉しくて、俺は力の入らない身体を叱咤して微かに首を横に振る。
 留三郎はもう一度“ごめんな”と謝って俺の頭を撫でてから“ちょっと待ってろ”と言って一度部屋を出て行った。



 「文次郎、お粥作ってきたけど食えるか?」

「…あぁ」

「よし、身体起こすぞ?」

 少しして、温かないい匂いと笑顔を携えて留三郎が部屋に戻ってくる。
手にしている盆には一人用の小さな土鍋と薬包紙に包まれた薬が乗っていた。
 盆をベッドの横にあるサイドテーブルに置きながら俺を気遣うように問うてくる主に一つ頷くと、彼は少しだけ安堵したように微笑しながら俺の背を抱えてゆっくりと抱き起こす。
その優しげな手つきと背中から伝わる温もりにどうしようもなく安心して、俺は留三郎の腕に寄りかかるようなかたちで身を起こした。

 「大丈夫か?ほら、食わせてやるから口開けろ。」

「……ん」

 土鍋の蓋を開けると卵とネギの入ったお粥がほかほかと湯気をあげて、美味しそうな匂いがふわりと鼻をくすぐる。
手にしたレンゲで一口ぶんの粥を掬った留三郎に促されるまま素直に口を開ければ、柔らかく煮られた米と卵が口の中でやんわり解けて身体が芯から温まるような心地がした。
猫舌な己でも食べられる温度に調節されたそれを何度か咀嚼して呑み込むと枯れた喉が少し痛んだが、土鍋の中身を俺の口へ運び続ける主の手に従って食事を続けるうちに、食物が胃を満たす感覚に紛れて次第に気にならなくなった。

 「美味かったか?」

「……あぁ」

 土鍋が空になったところで、レンゲを置いた留三郎が首を傾げて覗き込むように俺を見る。
発された問いに俺が頷くと、留三郎は“そりゃあ良かった”と嬉しげに笑う。
 本当は熱のせいであまり味覚が機能せず味なんてよくわからなかったが、匂いはとても良かったしそもそも留三郎の作ったものが不味いはずがないので嘘はついていない。
だが大好きな留三郎の料理を味わえなかったことに関しては、それを少し残念に思った。


 「文次郎、薬飲んで平気か?」

「あぁ、たぶん大丈夫だ」

 空になった土鍋とレンゲをサイドテーブルに片付けた留三郎が、薬包紙に包まれた粉状の風邪薬を手に尋ねてくる。
今は人に近い姿を取っているとはいえ本来は猫であるため、市販の薬を飲ませてよいものか判断できなかったのだろう。
確かに俺の本来の姿は猫なのだが人型の時には身体の組織も全て人間に近いものへと変わっているため、この姿の時であれば人間用の薬を飲んだとしても恐らく問題はない。
…猫の姿の時にはわからないが。

 「よし、じゃあこっち向いて顔上げろ」

「……ん」

「そのまま口開けて」

 留三郎は俺が頷いたのを確認すると、俺の頬に手を添えて自分の方へ顔を向けさせる。
俺は主の言葉に従って首を動かし、素直に口を開いた。
瞬間――、


 「ん――みゃっ!?」

「んっ、……ん」

「ふっ――にゃっ…あ、」


 何故か薬と水を自身の口に含んだ留三郎にいきなり唇を重ねられ、俺の頭は一瞬にして混乱に陥る。
あまりに突然のことで咄嗟に口を閉じることもできなかった俺の口内に、薬の溶けた水の苦味が広がった。
だが水と一緒に侵入してきた留三郎の舌が俺のそれに触れた途端その苦味はすぐさま甘味へと姿を変え、俺は呼吸の苦しさと言い知れない恥ずかしさで頬がますます火照るのを感じながらその甘くて苦い液体を必死に呑み下す。
 一滴残らず飲み干したところで漸く唇を離した留三郎は、酷く満足げな様子で“よく飲めたな”と言いながら俺の頭を撫でる。
 その柔らかな仕草がとても心地良くて、俺は己の瞼が少しずつ下がっていくのを感じた。


 「眠いか?」

「あぁ…眠い」

「ん、もう少し寝てろ」

 うとうとと眠たげに頭を揺らしている俺に気付いた留三郎は俺の身体を再びベッドに横たえると、優しげな手つきで頭を撫でたまま穏やかな声音で眠りを促す。
その声と手のひらの温度に安堵して、俺はまた意識を溶かしていく。
微睡みに堕ちていく意識の中で、“おやすみ”という留三郎の声が微かに聞こえたような気がした。




end.




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