ゆらり、ゆらり。

 ひらり、ひらり。

 ガラス越しの水の中で、色鮮やかな魚達が目の前を横切っていく。
舞のようなその動きに目を奪われ、俺は長いことその場所で彼等の姿を眺めていた。
魚達の動きに合わせてパーカーの中の尻尾が左右に揺れ、慌ててそれを隠す。
 この場所で自分の姿を晒すわけにはいかなかった。
いくら辺りが暗くて人通りも少ないとはいえ、俺が立っている水槽の傍は魚が見えるよう灯りがつけられているし人の気配も全く無いというわけではない。
決して油断はできない状況だった。
 もしも今、姿を晒して正体がばれてしまえば二度とここに来ることが出来なくなるどころか留三郎にも迷惑を掛けてしまう。
そうなればわざわざ俺のために夜中にも開いているところを調べて連れて来てくれた彼に申し訳が立たない。
何としても、ばれるわけにはいかなかった。


 ゆらり、ゆら――。

 「――!?」

 先ほどよりいくらか気を引き締めながら水槽へ向き直った瞬間、目の前を巨大な生き物が悠々と横切っていき、驚いて思わず尻尾が膨らむ。
幸い尻尾をパーカーの裾から外へ出すような真似はしなかったので周囲から不審に思われることはなかったが、危ないところだった。
気を付けると決めた途端にこれかと少し落ち込む。
 水槽を眺めながら反省していると、背後から聞き慣れた声が聞こえて思わずフードの中の耳が動く。
振り返れば、両手に飲み物の缶を抱えた留三郎が立っていた。

 「悪い、文次郎。待たせたな」

「…遅いぞ、留三郎」

「ん、どうした。何かあったのか?」


 安堵のあまり涙目で遅いと詰る俺に慌てて近付いてきた留三郎は、持っていた飲み物を片手に抱え直すと空いた手でフード越しに俺の頭を撫でる。
宥めるようなその仕草と慣れた温もりに少し落ち着いて涙を拭うと、それに気付いた留三郎も安堵したような笑みを見せた。

 「それで、一体何があったんだ?」

「…いきなり、でかい生き物が目の前に来たから少し驚いただけだ」

「でかい生き物?あぁ、鮫か。よしよし、恐かったな」

 “俺が居るからもう大丈夫だ”と言って笑う留三郎の姿に安心し、つられたように笑みが零れる。
頭からおろされた彼の腕を掴んで再び水槽に視線を戻そうとすればやんわりと腕を解かれ、代わりに手を握られた。
掌から伝わる温もりを少し照れくさく感じたものの、照れ隠しに振り解くような真似はしなかった。
 先程の巨大な生き物―鮫というらしい―が再び目の前を通過して行ったが、留三郎に握られた手のおかげかもう恐怖は感じない。
気が付けば俺の方からも彼の手を握り締めていた。

 それから暫く、俺達はそうやって手を繋いだまま色鮮やかな魚達が舞う水槽をぼんやりと眺めていた。






 「ほら、緑茶でいいか?」

「あぁ、ありがとう」


 それからどのくらいの時間が経ったのか、俺が漸く満足して水槽から離れた頃には閉館時間がすぐそこまで迫っていた。
ロビーの壁に掛けられていた時計を見てそれに気付いた俺達は、閉館間近を知らせる音楽に急き立てられるようにして水族館の外に出る。
とりあえず人目につかないよう目の前にあった公園に入って隅のベンチに並んで腰をおろすと、留三郎が抱えたままになっていた飲み物の缶を一つ俺に渡してきた。
俺は礼を言って受け取り、缶の蓋を開ける。
買った時には熱かったであろう緑茶は既に温くなっていたが、熱いものが苦手な俺の舌には心地好い温度だった。

 「あー…やっぱ温くなってるな」

「俺にはこのくらいが丁度良い」

「そうか、お前猫舌だもんな」

 隣では同じように缶コーヒーを呷った留三郎がその温度に僅かに眉を寄せる。
猫舌の俺には有難い温度だったが、熱いものが平気な留三郎の舌には少し温過ぎたようだ。
きっと、まだ熱いうちに飲むつもりだったのだろう。
そう考えると、少し悪いことをしたような気分になる。
留三郎が缶コーヒーが温くなるまで水槽の前から動かなかったのは、俺が動かなかったからだ。
いくら水槽の中の魚に目を奪われたからといって留三郎のことも少しは考えるべきだった。


――ぽす、

「……?」

「気にすんな」


 緑茶の缶を手に少し反省していると、人が動く気配がした。
思わず顔を上げれば、頭に留三郎の手が乗せられる。
穏やかな表情で俺の頭を撫でる仕草に許されたような気がして、思わず安堵の笑みが零れた。


 「文次郎、今日は楽しかったか?」

「…おう。」


 中身を飲み干して缶を潰しながら、留三郎が俺に尋ねる。
俺は子どものように魚に夢中だった先ほどの自分を思い出して恥ずかしくなり、まだ半分ほど残っている緑茶の缶で少し赤くなった顔を隠しながらそれでもこくりと一つ頷いた。
ここで魚を眺めていた時間がが楽しかったのは事実だ。
もしも一人だったら、これほどたくさんの種類の魚を見る機会なんてきっと存在しなかったただろう。
留三郎には本当に感謝している。


「留三郎」

「ん、どうした?」

「…ありがとう」


 たった一言では足りないかもしれないが、少しでも気持ちを伝えたくて精一杯の感謝を込めてお礼の言葉を口にする。
もとが猫なだけに他に感謝の意を表す言葉を知らない自分が、今だけは恨めしく思えた。


 「どういたしまして。気に入ったなら、また連れて来てやるからな」

「…おう。約束だぞ」


 それでも俺の言葉を聞いた留三郎は嬉しそうに笑って、“また連れて来るから楽しみにしてろよ”などと言う。
俺はその言葉が嬉しくて、でも何だか照れくさくて火照った頬を冷ますように缶の中身を飲み干した。



 「そろそろ帰るか」

「あぁ」


 潰した缶を屑籠に投げ入れた留三郎に倣って空になった缶を捨てながら奴の言葉に頷いて腰を上げる。
先に立ち上がっていた留三郎が何気ない仕草で差し出してきた手に少し躊躇いがちに己の手を重ねると、しっかりと握られた。
手のひらから伝わる彼の温もりに何とも言えない幸福を感じて、繋がれた手を握り返す。
 手を繋いだまま家路を辿る俺達の背を、街の灯りに紛れて穏やかな三日月が優しく照らしていた。



end.



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ハロウィンに何か書こうと思ったけど無理だったのでこの話をフリーにします。
ご自由にお持ち帰り下さい。
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