分厚い雨雲が空を覆い、降り頻る雨の音が涼やかさを伴って静かな室内に染み渡る午後。
古い日本家屋の庭に面した縁側の障子を開け放ち、畳敷きの居間から外を眺めていた。
時折思い出したように手にしていた愛用の万年筆を原稿用紙の上に滑らせ、文章を綴る。
紙の上で紡がれていく物語は、先々月に出した推理小説の続きに当たるものだ。
締切にはまだ余裕があるが、思い付いた時に書かなければ良い文章は書けない。
作家には様々な種類の人間が居るから一概には言えないが、少なくとも俺は一度考えた話をいつまでも頭の中で温めておくことが出来る類の人間ではなかった。
鉄は熱いうちに打てと言うように、噺も考えついた時が肝心なのである。
とはいえ、先程も述べたようにこの仕事は別に急ぎのものではない。
だから例え今書いているこれが没になったとしても、さしたる問題はなかった。
まぁ、この原稿が無事に完成すれば新しいシリーズの枠を貰えるらしいので早く書き上げるに越したことはないのだが。
そんなことを考えながら万年筆を動かしていたらふと壁に掛けた家鴨時計(市販の鳩時計に留三郎が手を加えたもので、時間になると鳩の代わりに家鴨が出て来て時を報せる)が目に入り、思わず手が止まる。
時計の針は丁度五時を指していた。
「そろそろか…」
時計に視線を向けたまま誰にともなく呟くと丁度良いタイミングで玄関の方からがらりと戸を引く音がして、思わず振り返る。
続いて聞こえて来た馴染み深い声に意図せず頬を緩めながら、万年筆を置いて席を立った。
普段着の甚平の裾を翻して玄関へと向かう。
途中、洗面所に寄って手拭いを用意することも忘れなかった。
「お帰り」
「おう、ただいま」
玄関に着くと、そこには案の定朝から出掛けていた留三郎がずぶ濡れの状態で立っていた。
仕事の打合せだからと言って着て行ったシャツとズボンが悲惨な状態になっている。
鞄は防水加工を施してあるので中の書類等は無事なようだったが、鞄自体は湿気を含んで重さを増していた。
留三郎は足元に転がるそれに目をやることもなく、少し困ったような笑みを浮かべて此方を見ている。
その腕には、何か黒くて小さい毛玉のようなものを抱えていた。
「何だ、それ」
「そこで拾った」
「野良か」
「いや、たぶん捨て猫だ」
玄関に突っ立ったままの留三郎に近付いて奴の腕の中で震える毛玉を覗き込むと、それは俺の視線に気付いたのかくるりと此方を向く。
円らな金の瞳と目が合った。
獣でありながら人間のそれと何ら変わらない感情を映すそれには、現状における不安と恐怖の色が並々と湛えられている。
その瞳に安堵の色を与えてやりたくて頭を撫でてやると、濡れそぼった小さな頭が不思議そうに傾げられた。
その愛嬌のある仕草に思わず心臓を射抜かれ、留三郎の頭と腕の中の黒い毛玉―基捨てられていたらしい黒猫の子どもの上に手拭いを乗せ、水気を切ってから風呂へ向かうよう促してやる。
どうせ濡れて帰って来ると思っていたので、既に風呂は沸かしてあった。
「とりあえず適当に拭いたらそいつ連れて風呂入って来い」
「おう」
「絶対廊下に水垂らすんじゃねーぞ」
「おう、わかってる」
後始末が面倒なので廊下に水を垂らさないようにと留三郎に念を押しつつ、廊下を引き返して居間へ戻る。
そして開け放していた障子を閉めてからちゃぶ台の上に散らかる原稿用紙を纏めて角を揃え、万年筆と共に最早書庫と化している書斎へ片付けつつ寝室へと向かう。
途中風呂場へ向かう留三郎等と鉢合わせたので洗濯物は脱衣所の籠に入れるように伝え、奴が片手を挙げて応えるのを確認してから寝室に続く襖の取手に手を掛けた。
中へ入ると壁際に置かれた箪笥から留三郎の着替えを取り出して軽く皺を伸ばし、数枚の手拭いと共にそれを抱えて部屋を出る。
そのまま脱衣所へ向かい備え付けられた棚に着替えを置くと、留三郎に声を掛けてから手拭いを手に居間へ戻った。
身体を拭く為の手拭いは普段から脱衣所に置いてあるので、わざわざ別の部屋から持って来る必要はない。
寝室から持って来たこれにはちゃんと別の用途があるのだ。
俺は居間で古びたラジオから流れるよく知らない流行りの音楽を聴きながら、奴等が出て来るのを待っていた。
因みに玄関に放置されていた留三郎の鞄は途中で回収して中身をちゃぶ台へ避難させ、手拭いで軽く拭いてから衣紋掛けに引っ掛けて窓際に吊るしてある。
割と値の張る鞄なのでこの程度のことで傷ませるのは惜しい。
多少手間が掛かっても手入れを怠るつもりはなかった。
「風呂、出たぞ」
「あぁ」
「いい湯だった」
「そりゃ良かった」
暫くして風呂から出た留三郎が俺の用意した着流しに首から手拭いを掛けた姿で現れ、俺に声を掛けた。
腕には濡れた黒い毛玉を抱えている。
一応手拭いで水気を取ったのか畳に滴が落ちることはなかったが、抱えた小さな身体はまだたっぷりと湿気を含んだままなので放って置けば確実に風邪をひくだろう。
そうなっては困るので俺は側に置いておいた手拭いに手を伸ばすと奴から子猫を受け取って濡れた身体をすっぽりと包み込む。
そのまま膝の上に乗せて湿気を拭ってやれば、手拭いの下からみゃあと小さく鳴く声がした。
「文次郎」
「あ?」
「俺も、」
「ん、こっち来い」
小さな子猫を傷付けてしまわぬよう注意を払いながら手拭いを動かしていると、不意に留三郎が俺を呼んだ。
顔を上げて奴を見遣れば、強請るような言葉と共に手拭いが差し出される。
見れば留三郎の髪もまだ乾いていないようで、湿気を含んだ髪が常より艶を増して着流しの肩を濡らしていた。
この状態では留三郎も風邪をひきかねないので俺はすぐに承諾して側に来るよう視線と言葉で促す。
素直に近付いて来た奴から手拭いを受け取って頭から被せると、水気を取り除くように丁寧な所作で髪を拭う。
濡れた髪を慣れた手つきで乾かしながら留三郎を見れば、奴は俺の膝から子猫を抱き上げて身体を拭いてやっていた。
「なぁ、そいつ…家で飼うのか」
「駄目か?」
「いや、別に構わんが。名前はどうするんだ?」
「んー…留次郎、とか」
「却下だ、ばかたれ」
大体乾いたところで手を放して手拭いを返しながら問いを投げると、それを受け取って再び首に掛けた留三郎は当然といった表情で頷いて首を傾げる。
俺としてもこの小さな生き物を家から放り出す気は更々なかった為素直に納得して名を尋ねれば、少し考えてからふざけたことを言い出したので思わず目の前にある脳天目掛けて平手を繰り出した。
「いてっ―何すんだ」
「真面目に考えないお前が悪い」
「俺は大真面目だぞ。な?留次郎」
みゃあ。
叩かれた頭を片手で庇いながらももう片方の手で抱きかかえた黒猫に同意を求める奴に呆れていると、子猫は何を思ったのか絶妙なタイミングで鳴き声を上げる。
三角の耳を忙しなく動かし、完全に乾いて本来の手触りを取り戻したふわふわの毛に覆われた尻尾を嬉しげに留三郎の腕へ巻き付けているところを見ると、どうやらこの名前を気に入ってしまったようだ。
「気に入ったみたいだな」
「……はぁ」
にやにやと満足げな笑みを浮かべて此方を見る留三郎に無言で再び平手をお見舞しながら目の前の子猫―留次郎を眺めて深い溜息を吐く。
一度己の名前として認識してしまった以上、今から別の名前を付けたところで意味は無いだろう。
出来ればこんなこっ恥ずかしい名前を付けるのは勘弁して欲しかったのだが、決まってしまったものは仕方ない。
暫くは呼ぶのに時間が掛かるかもしれないが直に慣れるだろう。
俺はもう一つ溜息を吐いてから不思議そうに小首を傾げて俺を見つめる留次郎を抱き上げると、再び膝に乗せて頭を撫でる。
心地良さげに目を細めて喉を鳴らす子猫の姿に癒されながら留三郎へと視線を向ければ、思いの外慈愛に満ちた眼差しで俺達を眺めていて少し驚く。
それが伝わったのか苦笑を一つ零して寄り添うような位置に座りなおした留三郎は、凭れるような形で俺の肩に頭を乗せた。
肩越しに伝わる奴の体温と膝から伝わる小さな温もりに包まれて意図せず口許が綻ぶのを感じ、俺は新しく増えた小さな家族を心の底から歓迎したのだった。
end.
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