梅雨入りにはまだ少し早い、春の日の午後。
季節外れとはいかないまでも少しばかり違和感のある大粒の雨が降注ぐなか、俺は文次郎と手を繋いでいつもの道を歩いていた。
 文次郎とは言わずもがな男らしい名前とは正反対のとても愛らしい5才の女の子であり、俺の未来のお嫁さんである。
今はいつも通り仕事が忙しくて帰りが遅い文次郎の両親に代わって彼女を幼稚園に迎えに行った帰りなのだが、今日はこの通りの雨模様なため文次郎の機嫌はあまりよろしくない。
俺としてはこの前彼女に似合うと思って購入したウサギの耳がついた淡いピンクのレインコートを着てお揃いのフリルとウサギさんマークがついた傘を差す文次郎は大層可愛らしいので全く問題は無いのだが、あまり長く雨に当たっていると文次郎が風邪をひいてしまうかもしれないし彼女の機嫌が悪いと俺も悲しくなるので出来るだけ早く家に帰ろうといつもより少しだけ早足で歩いている。
勿論、早足と言っても文次郎が着いて来られるぐらいのスピードだが。
本当は彼女を抱きかかえて走った方が時間も短縮できるし俺的にも大変おいしいのだが、文次郎にそう提案したら俺の服が(レインコートに着いた水滴で)濡れるからと断られてしまった。
酷く残念ではあるが文次郎が俺のことを心配してくれたのだと思うと何とも幸せな気持ちになるので彼女を抱き締めるのは家に帰るまで我慢することにする。
帰って着替えたら文次郎を抱き締めて二人でココアでも飲みながらおやつにしよう。


 「文次郎、帰ったら温かいココア淹れてやろうか」

「ほんとか?」

「おう、とびきり甘いの淹れてやる」

 思い立ってすぐ善は急げとばかりに文次郎へお伺いを立てれば、彼女はすぐさま今までどこか不機嫌そうに細めていた左右で形の違う大きな瞳をぱちりと零れんばかりに瞬かせて口許を綻ばせる。
甘いものが大好きな彼女にとって、この提案は機嫌を直すのには十分なものだったようだ。
こちらを見つめる瞳がきらきらと輝いている。


 「じゃあ、早く帰って着替えねーとな」

「とめさぶろう、はやくかえるぞ!」


 俺がそう言ってマンションのある方角へ目を向けると、文次郎は早くココアが飲みたいのか少しはしゃいだ様子で俺の手を握ったままかけ足で家に向かって走り出す。
ひょこひょこと揺れるウサギ耳と後ろについたまるいしっぽがすごく可愛い。
 彼女に手を引かれるかたちで俺も足を早め、二人してマンションまでの数百メートルを一気に駆け抜けた。




 マンションのエントランスホールを抜けてエレベーターの前を素通りし、奥にある階段を登って自宅のある9階を目指す。
エレベーターを使っても良かったのだが、文次郎が「(エレベーターが)ぬれるからだめだ。これもたんれんだぞ」と言うので階段で行くことになった。
俺としては文次郎が手を引いてくれるので全く不満は無い。
 ぴちゃぴちゃと濡れた音を立てて半分ほど外に面した階段を昇る。
そういえば今日はスーパーに寄るのを忘れてしまったが、昨日余分に買い物をしておいたので恐らく大丈夫だろう。
安売りしていた鶏肉があるので唐揚げくらいなら作れるはずだ。
あとは冷蔵庫の野菜室に残っていたキャベツを切って…あ、確か卵があったからオムライスにでもするか。

 冷蔵庫の中の食材と相談しながら夕飯のメニューについて考えていたら、いつの間にか部屋のある階に辿り着いていた。
文次郎がどこかぼんやりしている様子の俺の袖を軽く引いてそれを教えてくれる。
それに気付いて我に返れば、文次郎は何かあったのかと不思議そうな表情で小首を傾げた。
その仕草もかなり可愛い。

 「いや、夕飯について考えてただけだ」

「ゆうはん?」

「あぁ、今日は唐揚げとオムライスだぞー」

「からあげ!おむらいす…!」


 何でもないというように笑って彼女の頭を撫でながら夕飯のメニューを口にすると、途端に文次郎はとても嬉しそうな様子でその大きな瞳を輝かせる。
唐揚げとオムライスは文次郎の好物なのだ。

 「デザートはこの前買ったゼリーな」

「おう」

 俺の台詞に元気よく頷いた文次郎の姿に頬を緩ませながら部屋の鍵を開けて中に入る。
夕飯はいつも文次郎の家で作ることにしているので、本来ならば日当たりの良い角部屋であるここは文次郎の家だ。
まぁ、今日は雨なので日当たりは関係無いが。
因みに左隣は俺の部屋である。

 玄関で文次郎からレインコートを預かると、外で軽く水を切ってから玄関に備え付けたハンガーに引っ掛けて部屋へ運ぶ。
乾いたタオルで水滴をあらかた拭き取ってから適当なところに引っ掛けて乾かすことにした。
使ったタオルを洗濯籠に放り込みながら夕飯の準備をしようとキッチンへ向かうと、手を洗いに行っていた文次郎が洗面所から戻ってくる。

 「とめさぶろう、ココアまだか?」

「あぁ、今淹れるから着替えてこい」

「おう!」

 綺麗に洗った手をタオルで拭きながらココアを所望する文次郎に唐揚げの下拵えをしながら頷いてやると、笑顔で返事をして着替える為に部屋を出て行く。
その笑顔にときめきつつ、一度手を洗って戸棚からココアの粉とマグカップ―お揃いの動物の絵が描かれたもので文次郎のがウサギさんで俺のがアヒルさんである―を取り出した。
先に唐揚げの下拵えを済ませてしまってから、再び手を洗ってココアを淹れる。
カカオ特有の甘い香りが部屋を漂った。

 「たまには雨も悪くねーな」

 部屋の窓からキッチン越しに外を眺めて独り言を零すと、先ほどとは別の戸棚からビスケットを取り出して皿に盛る。
二人ぶんのココアと一緒にテーブルへ並べて支度を終えると、これを見て笑顔を浮かべる文次郎が頭に浮かんで思わず笑みが零れた。
ティータイムまで、あと少しである。



end.



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