嫌な夢を見た。
どのような夢かは覚えていない。夢とはそういうものだろう。
覚えていない、思い出せないことが余計に不安を煽り、どくどくという心臓の音を鼓膜に響かせている。
ただ漠然とした不安や恐怖に突き動かされ、思わず何かに縋るように伸ばした手は、当たり前のように空を切るだけだった。
喉の奥から、ひゅうひゅうと隙間風のような息が漏れる。
昔愛したあの女の夢でも見たのだろうか。
しかし今の自分を見て、彼女は恨みごとの一つも言いはしないだろう。
そんな人ではなかっただろうし、そもそもそんな関係にはなれなかったのだから。
覚えてもいない夢の内容を彼女のことだと思ったのは、きっと罪悪感から。
その身を焦がすほどに彼女のことを愛していたはずなのに、今は同僚を、しかも同性である彼を愛している。
もちろん彼女のことを愛していないと言ったら嘘になる。
それどころか、あの頃と何一つ変わらず彼女のことを愛している。
しかし…
「はぁ…」
息を整え時計を見ると、時刻は午前3時を指していた。
仕事熱心な彼はまだ起きているだろうか、それとも寝ているか。
どちらにせよこんな時間に連絡を入れるのはどうかと思いつつ、どうしても彼の声が聞きたくなり、枕元の携帯に手を伸ばした。
「……はい」
てっきり無視されるだろうと思っていた通話は、以外にも数コールで受け取られた。
「あ、旦那?」
「他に誰が出るんですか」
やはり寝ていたのか、携帯越しで聞く四木の声は酷く不機嫌そうだった。
それに苦笑し、それもそうだねぇ、と返す。
「それで?何か用ですか。こんな時間に」
「いやぁ、ちょっと旦那の声が聞きたくなっちゃいましてねぇ」
あはは、と笑いながら、内心で感じている不安を悟られないように、いつも通りのふざけた調子で言葉を発したつもりだった。
自分を偽ることには慣れていたし、勘付かれない自信もあった。
だから彼もいつも通りのあの呆れた声で、そんなくだらない理由ならもう切りますよ、と言って電話を切るだろうと思っていた。
なのに、
「何言ってるんですか。そんな泣きそうな声で」
「…え、」
いつも通りの呆れた声で、彼はそう言って溜息をついた。
予想もしていなかった言葉に、一瞬息が詰まる。
「えー…と」
「何故わかったといった感じですか。わかりますよ貴方のことくらい」
まるで当然のことのように言う四木に、この人にはかなわないなぁ、と思い、長い溜息をつく。
「実は…ちょいと嫌な夢を見ましてねぇ」
「それで人恋しくなったんですか?子供ですか貴方は」
「んー、うん」
ねぇ、旦那
そう言うと、何ですか、と返してくる。
「俺に黙って、消えたりしないで下さいよ」
いつ死ぬかもわからない極道なんていう世界で生きているくせに、随分甘いことを言っている自信はあった。
それでも、言わずにはいれなかったのだ。
「…私は」
数秒の沈黙の後、四木は口を開いた。
「私は、消えたりしませんよ」
「うん…」
恐らく彼は俺が何に不安を、恐怖を感じているかに気付いている。
その発端となった彼女のことも。
未だに彼女に抱いている、この感情にも。
「それに…勝手に消えるのは…いつだって貴方のほうでしょう」
「……うん」
結局俺は、彼を傷つけることしかできないのだ。
「ごめんね」