第一話までのふたりの物語



言葉のない祈りが想いを乗せて風のように月へと旅する。

遥か遠く
空よりも遠く
瞳の先へと、月面着陸。




「地球が綺麗だよ、シンジ君。」

ダークマターを震わせて38万4,403km彼方のたったひとりへ届くようにと囁けば、

『渚長官、至急、基地内第三会議室までお越しください。』

「Yes, I'll be there.」

ノイズ混じりの通信にて現実へと着地する。ヘルメットを外してふうっと嫌気の溜息を吐く。

「やれやれ。どうやらとんだ大役を仰せつかってしまったよ。こうして君との時間も邪魔されてしまう。」

蹴り上げられた月の石が漆黒の闇に浮かんてふわり、弧を描く。

ゼーレがカヲルを中枢に置き長官に任命して早一年。ここは月面にあるゼーレのタブハベース。だから操り人形の役はもう演じられない。糸を手繰るのは自らの手だ。Mark.06の建造はこの世界ではゴルゴダベースにて予定され、しかも現在その計画は頓挫している。平和な世界だ。何も焦ることはない。カヲルはこの基地にて調査団の査定に来た。久しぶりの月の感触をプラグスーツ越しに感じる。

すると、ヘルメット内蔵のインターフェイス型イヤーモニターから聞こえてくるブザー音。慌ててそれを装着する。

「Hello?」

『接続は遮断しないでください、長官。』

「O.K. I got it. なかなかやかましいね。」

『日本語は聞き取れません。』

「そう。なら好都合さ。」

カヲルが蒼い地球に向かって大きく手を振る。まるで自分は此処に居ると告げるように。

「七歳のお誕生日おめでとう、碇シンジ君。」

愛おしそうに放たれる祝辞。今度は基地のモニター室から倦怠の溜息がひとつ。奔放に月面で日課の散歩を楽しんでいる上司のせいで、そろそろ胃に穴が空きそうだ。宇宙食も飽きてきた。地球が恋しい。

そう、地球が恋しい。



ーーーーー…

「シンジ、お父さんから誕生日のカードが来たよ。」

「ありがとう、先生。」

シンジが食卓にていちごのショートケーキを平らげたら先生が一枚のカードを差し出した。糖尿の気がある年配の先生は甘いものは控えていて、シンジはひとりで一カット分のケーキを黙々と食べたのだ。いかにも市販らしい大味のそれを美味しそうに、密かにチーズケーキを食べてみたかった気持ちを抑えながら。そして準備していたセリフを呟くと待ってましたとばかりにそれを受け取り部屋への階段を駆け上がってゆく。ごちそうさまでした、と途中で思い出して大きな声で唱えてみる。

「ぼく、そんなにバカじゃないんだけど…」

シンジは去年のバースデーカードと今日のを机の上に並べた。惑星のカードとお星さまのカード。それは同じ筆跡。父さんの?いや違う。先生の。嘘はばれないように吐いてほしい。シンジは先生の字くらいはちゃんと知っている賢い子だった。そして自分の父親が自分に関心のないことも、知っている。

ー父さんはいそがしいんだ…でも、ぼくのこともわすれちゃったんだ…

シンジはその同情と思いやりの詰まったカードに心底惨めな気持ちになった。惨め過ぎて口の中が酸っぱくなって生クリームの余韻も消える。ふつふつとお腹のあたりから沸き起こる哀しい気持ち。けれど、泣けない。シンジは泣き声が夜の静寂を乱すのが嫌だった。だからそっと、二枚のカードを机に仕舞う。

シンジの父親は彼をこの家に預けてからというもの、一度も連絡を寄越さなかった。それについて何度かシンジは先生に尋ねたが、その都度様々な言い訳をされた。実は連絡は来ている、電話のない場所にいる、電話番号を紛失したらしい…めくるめく変わる理由についにシンジは全部嘘だと気づいてから、もうそれ以上何も聞かないことにした。そうして家族の話題は日常では禁句になっている、それなのに、この日ばかりは先生もそうはいかないと無理矢理な取り繕いをする。

ーたんじょうびなんてこなければいいのに…

恥ずかしい。だからシンジは自分の生を受けたこの日を恨んだ。寂しいと甘えることも出来ない今日を。

ーでも、先生はぼくをよろこばせたくてしたんだ。だからそれにかんしゃしなくちゃいけないんだ。それをおこるぼくはわるい子だ…

ちゃんと自分を責めるのも忘れない。シンジはベッドにうずくまり、自分の悪いところを数えた。

今日は碇シンジのいちばん嫌いな日。そんな日でもお月さまはとても綺麗に輝いている。



ーーーーー…

タブハベースの第何十回目のくたびれた会議が終わり、緊張の糸が弾けた溜息が室内に広がってゆく。

「いやあ、参った。早く帰って寿司が食いたい。」

カヲルの席の横で葛城調査隊のトップ、葛城隊長が伸びをしたまま机に突っ伏している。すると何かが肩ポケットからポロリと落ちた。レトロな包み紙に巻かれた半透明のハッカ飴だ。

「落ちましたよ。」

「おっと、失礼。元気玉だ。」

「元気玉?」

「娘がくれたんだ。私はハッカが苦手で食べられないんだけどね。変わった愛情表現だろう?」

カヲルは今まで知っている様々な葛城ミサトの面影を辿った。ふと、今の世界のこの親子が気になってくる。

「娘さんがいるんですね。」

「ああ。ちょっと待ってくれ。」

そう言うと葛城隊長は胸ポケットから一枚の写真を取り出した。そこには家族三人の幸せそうな笑顔がある。

「これが娘のミサトさ。そしてこれは去年の娘の誕生日だ。娘はなかなか私には懐かないが私の後を追うのが好きでね。前回の月面任務の後に帰った時には酒豪になっていて、この前帰った時にはネルフに入りたいと言い出した。息子みたいな娘なのさ。」

「へえ。ところでこれは何ですか?」

カヲルが写真の一箇所を指差す。酒瓶ばかりの机の一角、カラフルな色紙が爆発したよう広がっている。

「これかい?妻が娘にやった誕生日プレゼントさ。何だったかな…」

「誕生日プレゼント…」

カヲルはそうかと閃いた。ヒトはヒトへと祝いのしるしに物を贈る。誕生日も祝い事。だから誕生日にプレゼントが贈られても不思議ではない。

「まあそれで、この日には続きがあってね、私は例に漏れずプレゼントを忘れたのさ。当ても無くってね。そしたら私は娘にひとつ命令される。プレゼントとしてダンスを踊れってね。娘は私が踊れないのを知っていて小馬鹿にしたのさ。」

葛城隊長は何処か嬉しそうな顔をしていた。

「それで昔ベタニアベースに居た頃に同僚から手解きされたコサックダンスとやらをしてやったんだ、この私が。すると娘は今までで最高のプレゼントだと喜んでいたよ。」

カヲルは心の中だけで首を捻った。ヒトの複雑な思考回路。こんがらがった頭を整理してみる。カヲルの難しい顔に葛城隊長は一笑した。

「君は噂通りの天才だね。そんな話の隅々まで熟考するようじゃダメだよ。」

「すみません。」

「いや、私は責めてるんじゃないんだ。ただ、君は何処か人間離れしている感じで心配なのさ。」

人間離れ、カヲルはその言葉にドキリとした。

「まあ一方で君の自由な感性には目を見開くこともあるから君は本当に掴めないよ。月でヴァイオリンを弾いたのは君が人類初だ。鳴らないのに!酒があったらその偉業に乾杯したいくらいさ。」

酒があったらなあ、葛城隊長はもう一度噛み締めるようにして呟いた。もう持って来た分が無くなった、という意味だ。

「早く地球に帰りたいよ。」

「同感です。」

するとカヲルはプラグスーツの上に羽織ったゼーレ支給のジャンパーから彼のお気に入りの青いガラス玉を取り出した。そしてそれを窓越しの地球と重ねて覗き込む。

「なんだい、それは。」

「僕の好きな子の瞳です。地球とも似ている。」

「君は芸術家かい?なるほどわからん。」

葛城隊長はそんな変わった少年、そして自分の上司でもある彼の姿にしばし見惚れた。透明な美しい感性。けれどその感性は、会議中にジャンパーを着て月面では脱いだり、ヴァイオリンは持ってくるのに下着は忘れたり、月面は居心地がいいとたまに昼寝をしていたり、そんなとんでもない異彩を放っていた。そんな長官カヲルのあれこれを思い出し隊長の中で次第に可笑しさが込み上げてくる。

「地球の未来は明るいなあ。今日という日に乾杯!」

葛城隊長はグラスを持つふりをして拳を掲げた。カヲルはやっぱり心で首を捻りながらも、けれどそれを真似して乾杯をする。カランとグラスを合わせるように手の甲が触れ合う。

だって今日は渚カヲルのいちばん好きな日。この日も地球はとても綺麗に輝いている。



ーーーーー…

「月って太陽が光ってるからかがやいてるんだって。」

うつ伏せで寝そべるシンジは窓の外の雲ひとつない夜空を見上げ、ひとり月へと話しかけた。

「でも、ぼくはちょっとちがうとおもうんだ。」

手のひらには銀色の笛が握られている。シンジの唯一の友達だ。

「だって月がなかったら光はぼくにはとどかないから。月のおかげで夜は明るいよ。そうでしょ。」

お風呂に入らなきゃ、歯磨きしなきゃ、そんなことには怠くて動かなかった身体がシーツの上から跳び起きて、窓へと向かう。

「ほら、だって、こんなに明るい。」

窓を開けて窓枠に座り見上げる月。学校でそこにはウサギが住んでいると女の子たちが言っていた。

「ねえ、」

そう呟いて先を失う。何を言いたいのか、伝えたいのか、わからない。こんなに心は張り裂けるくらい色々なものが溢れているのに。

だからシンジは手の中にあるもうだいぶ温かな銀色のそれに唇をつけた。そして想いを息に乗せてふうっと吹きかける。


月の光でつくったような、柔らかに澄み渡る、祈りの音色。


縮んだ肺に思い切り酸素を吸い込む。鋭いくらい響く音に胸が痛い。シンジはそっと窓を閉めてまた布団に潜り込んだ。そしてほとんど息のような声で月に囁き続ける。

「ねえ、君はどうしてそんなにとおいんだろうね。ぼくは早く会いたいのに。」

シンジはたまにこうした倒錯した言葉を無意識に並べる。彼自身その意味はわからなくても自然と舌の先に想いが乗っかってゆく心地だった。

「今日くらい会えてもいいと思うんだ。だってぼくはたんじょうびにプレゼントをもらえなくたって泣かないでがまんしてるよ。さびしいのはなれてるけど…」

鋭い寂しさがシンジを襲う。それから身を守るようにして彼の瞼は重くなる。

「でも、君に会えないのは寂しいんだ。カヲル君…」

シンジは自分の言ったセリフを全く理解せずにすうっと夢の世界へと旅立った。ひとひらの祈りを込めて。



ーーーーー…

カヲルは乾いた石と砂ばかりの月面に寝そべって地球を眺めていた。もう基地の隊員達は休んでいる。だから人間には必要だけれど使徒には不要なヘルメットを外していた。回線を遮断し酸素吸入の電源を切ってもう、幾分か経つ。

「Moon river, wider than a mile, I'm crossin' you in style some day...」

小さく鼻唄を歌いながらカヲルはシンジの事を、誕生日の事を、考えていた。泣けるほど遠い距離に隔てられた、まだ自分を知らないだろう彼に出来る、誕生日の贈り物について。

「ヴァイオリンは基地に置いてきてしまった…」

シンジの為なら命を捧げるのも惜しくない。けれど、今は何も出来ない。蒼い地球の理由も解らず、今は流れに身を任せている。そして今日も月面にてシンジを胸に描くのだ。想い描けばトクントクンと心音がアレグロで奏でられる。胸に手を当てればカヲルはその高鳴りをプラグスーツ越しに感じる。

何か君に出来る事は、そうカヲルは思いながら途方に暮れた。もうすぐ時計の針は明日の時を告げてしまう。

そうして唐突に。カヲルは踵でトンと地面を蹴り上げ立ち上がった。そして、地球に向かって今一度大きく手を振ってみる。

「シンジ君!誕生日プレゼントだ!受け取っておくれ!」

紅い瞳を輝かせて微笑むと、両手を広げてもう一度、力強く踵を蹴った。


ふわり。
地球よりも軽い重力、
羽根のよう遊泳しながら片脚軸でピルエット。
そのまま脚を高く上げ、
宇宙の闇を舞台にカヲルは大きな大きな宙返りをする。
音もない飛翔。美しい肢体のプリエ。
カヲルのしなやかな身体が綺麗なまるい円を描く。
静かの海で逆さまに、指先まで優雅に舞う、
祝福のバレエ。
そして風もない真空で銀髪はなびき浮かび、また元通り。
ピンと張った爪先がそっと、
月面へと着地した。


華麗な宇宙のダンスを披露した使徒は満遍の笑みで地球の片隅へと呼び掛ける。

「君が生きている事が僕は本当に嬉しいよ!」

この場所で蒼い地球を見つけて七年が経った。そしてあともう七年もすればきっとふたりの運命は動き始める。この世界だってそれだけは変わらない、変わらないであってほしい、そうカヲルは祈った。祈り続けた。

「シンジ君…」

その刹那、時計の針は無情にも明日を今日へと変える。カヲルのいちばん好きな日は終わってしまった。魔法が溶けたように萎れる心。カヲルは果てしなく長い歳月の重さに項垂れて、もう一度月面へと腰を下ろした。膝を抱えてうずくまる。



ーーーーー…

ぱちりぱちり。睫毛が噛み合う。シンジはたまゆらの夢から目覚めた。ひんやり頭が澄んでいる。何故だか塞ぎ込んだ気分は消えていて、代わりにやさしい気持ちが全身に脈々と満ちている。

「ぼく、ねちゃった…」

ふと、起き上がり時計を見る。時刻は午前零時。七日だ。昨日願った明日にもうなったのだ。

「はみがきしなきゃ。」

けれど。何か嬉しい事があった、そうシンジは思い直し、またベッドの上に横になる。なんだっけ、そうして青い瞳に映るのは、銀色の月。

「あ、」

ふわふわした銀色で、とても白くて、紅い瞳ーー…

「月でウサギがジャンプしてた、気がする…」

けれど、どうもしっくりこない。自分はウサギを見ただけでこんな気持ちになるだろうか。
もう一度目を閉じて記憶のもやの先へと呼び掛ける。けれどもう、魔法の時間は終わってしまった。

そこで、シンジは思ったのだ。この幸せな気持ちをくれた何かを探さなければならない、ちゃんと思い出さなければならない。だからシンジは引き出しの中から一冊のノートを手に取り出して、こう書いた。


2007ねん 6がつ 6にち

ぼくはゆめを見た。
ありがとう。


「…なんでありがとうなんだろう?」

勝手に手が動いて付け足した五文字。消しゴムを掴む。けれど、シンジはどうしてもその言葉を消せなかった。
そうしてノートを仕舞っているとコンコンとドアが優しくノックされた。

「シンジ、大丈夫かい?」

「すみません。今おきました。」

いつもきっちり寝支度をするシンジが風呂も入っていないのが気掛かりで、先生が物音を聞きつけて声を掛ける。彼はシンジが昨日を憂鬱に思っていた事も、自分の気配りが反って彼を傷つけてしまった事もしっかりと気づいていて、そっとドアの外からシンジを心配していたのだった。

慌てて椅子から立ち上がるシンジ。後ろ髪を引かれるようにまた、窓の彼方へと振り返る。

「月がきれいだよ、ウサギさん。」

こんな穏やかな気持ちなのはきっと、僕の祈りがあの月にちゃんと着地したからだ、シンジはそう思ってまた心の中で、ありがとう、と呟いたのだった。



ーーーーー…

「うーん…頭の固い私にはさっぱりわからない。」

膝を抱えてうずくまっていたカヲルが月の石の転がる音を聞いたのはつい数分前のこと。

「今の科学ではまだ説明出来ない事ですからね。けれど、事実です。」

「まあ、論より証拠と言うからね。君が宇宙人でも僕は頷くしか出来ない。」

眠りの浅かった葛城隊長が目を覚まし窓の外に目をやると、遠くの闇にとても美しいバレエダンサーの幻覚を見た気がした。けれど探求者の彼は幻覚を探求する。目をこすりグッと力を込めてピンボケの焦点を合わせると、今度はそれが見た事のある少年に見えるのだった。酒が足りずに己の神経が参っているのかを確かめる為に、彼はわざわざ宇宙服を装着して遥々何kmもの道のりを歩いてきた。そして諦めかけた時、ようやく見つけるのだ。恋に溺れて項垂れる小さな自分の上司の背中を。

「…公表しますか?」

「そんな事しようものなら私の命はない、そうだろう?」

「ええ。老人達はきっとそうします。」

葛城隊長は大の字に寝っころがり盛大に溜息を吐いた。肝心な事実の伏せられた調査で正解が出る筈もない。ヘルメットのガラスが息の湿気で曇る。

「これ無しで苦しくないなんて、使徒の人体構造は素晴らしい。」

「そうでしょうか。」

カヲルの投げやりな返答に葛城隊長は上体を起こす。

「昨日は楽しげだったのに、何かあったのかい?」

「…待つのが辛いんです。昔はそうではなかったのに。」

その白皙の横顔は迷い子のように寂しそうに地球を見据えている。だから葛城隊長は何となくわかったのだ。青いガラス玉の瞳をした好きな子が地球にいるけれど、きっと長い間、会えないでいる。そんなヒトと変わらない使徒の甘く切ないロマンスに、隊長は同じ少年時代の親しみを感じた。

「待つのは辛い方がいいよ。」

「何故?」

「その方が会えた時の喜びがひとしおだからさ。」

カヲルはそれを聞いて心に渦巻いたわだかまりがキュッと小さくなった気がした。苦しさで強張っていた指先を解き、月面へと背を伸ばし、寝転んでみる。

「一理ありますね。」

「だろう?」

その紅い瞳にはいつかの未来の邂逅が描かれていた。あの懐かしいまるい黒髪が振り返り、愛おしい青い瞳が煌めいている。

「だからもうこんなママゴト調査は切り上げて早く地球に帰るぞ、長官!私は酒が呑みたいんだ!」

上司という事も吹っ飛んで隣のカヲルの頭を小突く葛城隊長。それを受けてやっと微かに笑顔になるカヲル。怒りを通り越して肩の力を抜く隊長は、けれど、墓まで持っていかねばならない真実を目の当たりにして密かに胸を踊らせていた。


宇宙はまだ、神秘の分厚いヴェールに包まれている。



ーーーーー…

「シンジ君!」

数日前にカヲルと再会を果たしたシンジは、感慨に耽りながら夢を記した秘密のノートに目を通していた。いちばん始めのページ、“ありがとう”の夢とはなんだろう。そうして思案していると、数刻前に日が暮れて別れた筈のカヲルの声が聞こえてきて、窓辺へと駆け寄った。

「カヲル君!どうしたの?」

揺れるカーテンを開け二階から見下ろすと、窓の外にはカヲルが笑顔で手を振っている。

「どうしても君に会いたくなったんだ!」

「さっき会ったばっかりじゃない!」

「それでもさ!」

そしてカヲルは両手を広げアスファルトを強く蹴る。地球の上、ふわりと大きな宙返り。シンジはその華麗なジャンプをスローモーションで胸に刻む。その微分された時の中で心音がトクントクンと早くなるのを感じていた。

「すごいや!カヲル君!」

「待つのが辛くて良かったよ!」

その言葉の意味がシンジにはわからない。けれどカヲルのとびきり嬉しそうな笑顔につい顔を綻ばせてしまう。

「僕もカヲル君に会えて嬉しい。」

「君と一秒だってもう離れたくない。」

零れてゆく心の声に頬を染めて見つめ合うふたり。

今日の夕方のニュースでは葛城調査隊が何度目かの月面着陸に成功したと報じられていたのだった。葛城隊長は地球について、青いガラス玉みたいだ、と記者団に答えていたらしい。


その頃、夜空の38万4,403km彼方ではーー…

『こちら月面、タブハベース。君の青いガラス玉は見えているかい?』

隊長は蒼い地球に向かって大きく手を振っていた。



踏み出す勇気のある者だけが足跡を残す。
足跡は重なりやがて道となる。
月と地球を架け橋にした巡礼者たちの祈りの旅はまだ終わらない。





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