第一話までのふたりの物語




瞳を閉じれば、君がいる。

けれど、

触れられないんだ。

僕は

今すぐ、君を

抱き締めたいのに。





青の鱗片





「Was gibt's Neues?」

「Nicht veil.」

二○一二年の暮春、ドイツにて。渚カヲルは愛想の良くお節介な大家に素っ気のない挨拶を交わし、ずぶ濡れのままに彼の部屋へと続く階段を黙々と歩いていた。俯き加減で長めの前髪の先からぽたりぽたりと雫を垂らして、自らの動線に足跡よりも明確な跡を残してゆく。

彼は部屋に戻ると着るものもそのままにベッドへと倒れ込む。真っ白のシーツにはじんわりと彼のシルエットを模して仄暗い染みが広がってゆく。力無く指先は無造作に放っとかれた枕を探し、それを取ると彼の白い面はそこに押し付けられた。彼の篭った嗚咽が灯りを燈さず陰鬱な昼下がりの部屋に木霊して、彼の華奢な肩が大きく震えた時、不躾な態度を物ともせずに白髪にほんのり亜麻色が差す老婆は、階上の天使の様な少年に思いを馳せるのだった。

老婆は何故かその少年が十年以上も成長しない事に何の疑問も抱かなかった。彼女にとってそれは聖母マリアの処女受胎のようにしっくりと心に響いていたのだ。そんなもんなんだと。それに彼はアルビノのように神秘的な容姿だから、本物の守護天使だと云われても彼女の中での返事は既に決まっていたのだ。はいそうですかと。けれどその少年は十数年の長い歳月を掛けてじわりじわりとその白皙の美顔に暗い翳りを落としてゆく。それは堪らずに老婆心を擽るものだった。



時を幾らか巻き戻そう。羽根のない守護天使の始まりの時にまで。



「Wie geht's dir?」

「Danke,mir geht's gut!」

二○○一年の初夏、ドイツのこの古き良きゴシック建築のアパートに越して来たばかりの渚カヲルは笑顔で階段を駆け上がる。一目散に自室に飛び込むと両手に包んで握り締めた青色の硝子玉に思いの丈を込めて接吻をしたのだった。

「おめでとう、そして、ありがとう。やっと生まれて来てくれたんだね、碇シンジ君。」

その年の六月六日は穏やかな快晴だった。雲ひとつ無く完璧に清らかなその日、彼はひとつの大きな心配事を解消したのだ。悠久の時の中で想いを寄せる、彼の呼んだその名を冠した少年は、先程この星に誕生したらしい。彼の所属する組織のデータベースはとても素早く傘下の者の情報を更新する。彼はその通知を今か今かと数時間もデスクに張り込んで待っていたのだ。

彼は心の底から憂慮していた。ひとつ前の世界に居た少年はいつに無く厭世を込めた哀しい瞳をしていたから。使徒の自分の存在以外に世界を完成させたまま、少年は永久に姿を消してしまったのではないかと彼は日々絶望的な考察をしては、胸の痛みに見えない涙を流していたのだ。けれど彼のそんな日常はついに終わる。

彼の手の中に潜むその硝子玉は、先日、想いを寄せる少年の誕生を祈りながら骨董市の露店で買ってしまったもの。タダ同然のそれはとても爽やかな碧を宿していて、その少年の瞳の煌めきを想わせるのだった。

「シンジ君…好きだよ。早く君に会いたい。今すぐにでも、君に会いたいよ。」

けれど彼は使徒としての自らの監視下の状況をわきまえていた。彼は胸のざわめきを抱えきれずに思わず楽器とその弓を手に取る。いい按配に古めかしいヴァイオリンは、彼にとっての唯一心を発散させる道だった。一筋の涙を流し、彼は首を傾けつつ姿勢を正す。

そうして彼は奏でるのだ。エルガーの愛の挨拶を。その歓喜と恋慕を込めた悩ましい響きに階下の大家は皺を深め表情を綻ばす。

ーなあんだ。あの子は恋をしているんだねえ。



「Wie geht es Ihnen?」

「Sehr gut!」

二○○三年の秋季、随分とドイツの街並に溶け込んだ渚カヲルは、逃げるような足取りで階段を駆け上がる。部屋の玄関扉を乱暴に開けて彼は隠れるようにベッドの隅に小さく丸くなった。紅潮した顔を悩ましく歪めてはそっとズボンのファスナーを下ろす。

彼は青少年の身体のままに生まれ、その器の中で生きてゆく。それは手の届かない相手に恋する者にとっては酷く苦しい事態だった。彼の身体は想い人の感触を求める。特に彼は永い永い歳月の想いを恋と自覚してから、その恋情を激しくさせていったのだ。彼は毎日少年を想い描く。その唇、瞳、指先、太腿、腰付、そんなものは永年の少年の観察で手に取るように描かれてしまうのだ。けれど、それには触れられない。決して、触れられない。

だから、彼は自慰を覚えた。それは彼に初めての羞恥の感情を与えたが、対処法も教えたのだ。彼は聞こえないくらいの小さな声で少年を呼ぶ。何度も呼び続けては、指の動きを早めてゆく。そして彼は事を終えて、息を整えながら冷めてきた頭で思うのだった。

ーシンジ君、ごめん……好きなんだ、君の事が…君に、恋、してるんだ…

渚カヲルはだいぶ遅れて初恋と云う春に目醒めて、恋の苦しみと日々向き合っていたのだった。



「Das Wetter ist schön heute.」

「Genau.」

二○○七年の厳冬、少しやつれた渚カヲルは、ゲーテの若きウェルテルの悩みの原書を抱えてゆっくりとその石畳の階段を登ってゆく。けれども赤い瞳は穏やかにその日の気候似た温もりを帯びていた。彼は溜息をひとつ小さく吐いてから、部屋へと続く軋むドアを開けた。

そして彼は窓際のこれまた古い木製の机の前に腰掛ける。机上には七年前から愛でている青の硝子玉が置かれていた。彼はそれをいつものようにひと通り空にかざして眺めてから、万年筆を手に取った。ペン先をインクに浸しつつ、生成り色の紙の束の上から重石にしている石ころを外し、その紙面の左上へと切先をあてがう。その石ころは彼が月面から拝借したたったひとつの土産物だった。

彼は迷宮のような己の悩みへの突破口を求めて暇さえあれば読書に明け暮れていた。彼がヒトの心を持つようになってから過去に読んだ作品を読み返してみると、不思議と別の作品のように全く違う捉え方となったのだ。彼は主観的に物語の中で息をし、感情移入の目を通して本の世界を旅していく。彼が先程脇に挟んでいた書物もそうしたもののひとつである。

そして彼は、飽和した心から言の葉を搾り出すのだ。それはまるで抒情詩に似た手紙であった。彼にとっては手紙に似た抒情詩だったのかもしれない。何故ならそれらを宛てた想い人がたったひとりなのかも定かではないからだ。宛先は全て碇シンジと云う名前の少年。しかしそれは過去のその少年だったり、この世界の遠い地に居るまだ見ぬその少年だったり、或いはその全てを内包した魂の存在としてのその少年だったり、それらにちゃんとした境が無い分、彼がそれを手紙と呼ぶにはあまりにも混沌としていたのだったのだ。

彼がそのように少年の様々な面へと言葉を綴ったのには訳がある。彼もその理由を自分に秘密にしようとしていたが、薄々は感じていた。彼は少年が過去の記憶を取り戻して、その全ての記憶を鎖のように繋ぎ合わせ、ひとつの存在になって欲しいと願っていた。それはよっぽどの奇跡が起きない限り不可能に近かったが、それでも願わずにはいられないのだ。自分と同じようにふたりの軌跡を少年も持ち合わせてくれていれば、深く想いを互いに重ねられる筈。彼がその紅い瞳を潤ませる時、そこには常にその願いが灯されていた。

彼は数枚を黒の文字列で埋め尽くした後、ひんやりとしたウォールナットの滑らかな一面に突っ伏した。燃え尽きたように倒れて顔を横に向ければ、碧の硝子が陽だまりの中で鬼火のように燃えている。彼は堪らず少年の名を呼ぼうとした。けれど、苦しくて喉が詰まって声が出ないのだ。彼は残酷な運命を恨む時があった。少年の幸せの為だけに悠久の時を生きてきた。それなのに、少年は自分を知っている筈ももう無いのだ。そして、当たり前のように受け入れてきたその摂理をヒトの心を持ってからは受け入れ難く感じている。生まれたての心はずたずたに切り裂かれて鮮血を流し続ける。止まらない血をどくどくと感じながらも傷口を塞ぐ方法をまだ知らない。

ー僕は、君に、ただ覚えていて欲しかっただけなんだ…僕等の想い出を…

紅い瞳から零れ続ける涙の止め方もまだ知らなかった。




そして、そう。そんな業火に焼かれるような日々を過ごす彼は、暑く成りゆく春の終わりの波打ち際で、明るい晴れ空の下、不意打ちのスコールに見舞われたのだ。長年に渡る苦悩の答えを求めに海の青さと対峙している時だった。

彼は青を見つける度に少年を強く想った。そして白い指先をそっと伸ばす。その白が青の鱗片に触れると、まるで彼と少年が戯れるような残像が、彼の紅い瞳の奥で仄かに映されるのだった。


ーーーーー…

『どうしたの?カヲル君。』

彼が少年の肩に触れた時だった。此処は夕暮れの帰り道。けれど何処へ帰っているのかはわからない。ただ、線路沿いをふたりで並んで歩いていた。

『…何でもないよ。君に触れたかったのさ。』

『変なカヲル君。』

『君が僕から離れてしまうのは嫌なんだ。』

『じゃあ、こうしよう。』

彼よりひと回り小さな手が彼にそっと差し出される。

『…そうだね。もう離れ離れにならないようにね。』

彼はその手を優しく掴んだ。そして互いに指先をぎゅっと絡める。その感触はほんのりと木漏れ日のように温かかった。

そうしてふたりはいつまでも線路を歩く。その先に何が待っていようとも。歩き続ける。

終わらない物語を、祈りながら。

ーーーーー…


夢か現かもわからない追憶の郷愁。けれど、彼はまだその道を歩いている気がした。

そうしてずぶ濡れになり自棄糞で流してしまった熱い涙を雨雫に隠し、秘めた想いの無言の独白に疲弊しながらも、ついに彼はひとつの答えを見つけたのだった。


恋を、運命を、受け入れよう、と。どんなに辛くても、痛みだけしか感じない時が来ても、少年ただひとりを愛するのだから。その苦しみは例え劣情に狂ったとしても、決して醜くはない。だって、恋は元から淡白な修辞のように綺麗なものではないのだから。そしてその恋の先に何が待ち受けていようとも、決して全てを諦めない。今度こそ、永世の想いを伝えるのだから。そして、新しい明日を共に歩むのだから。


泣き止んだ彼は生乾きのまま徐にヴァイオリンを構えた。そして、今日も奏でるのだ。愛を込めた旋律を。魂の叫びを。

彼は愛の夢を風に乗せる。その音色は恋の光と影を集め芳醇な香りを放つ。階下の大家はそれを聴いて目を丸くしたのだった。彼女の心配を余所に、それはとてもしなやかで美しかったから。彼がまた一歩、歩き出したのだと老婆は思った。

震える心を、されど希望は失わずに、手を伸ばす。それを掴む勇気を持ち合わせた者しか手に入れられない、見果てぬ夢のその先の愛へ、旋律は向かってゆく。

彼は想う。只管に、想う。少年の名を呼ぶ。只管に、叫ぶ。その声が届くかはわからないけれど、この愛の詩が少年の魂へ届くようにと祈りながら、今日も想いを奏でていくのだ。




ーーーーー…

「アンタ、チェロ上手くなったわねえ。あの曲なんて言うの?」

「リストの愛の夢って曲だよ。アスカが褒めてくれるなんて、めずらしいね。」

「ふん。シンジが生意気言うな。ま、仕方ないからご褒美あげる。」

アスカそう言うとシンジの小さな手のひらに一粒の丸い飴玉を乗せた。それはとっても赤くて、澄んでいた。

「ありがとう。きれいだね。」

そう言うとシンジはその飴玉をつまんで茜空にかざした。澄んだ赤が太陽を浴びてほんのりと内側から輝いている。

「…なつかしい。」

「なんで懐かしいのよ。それ、ドイツ土産よ。」

「なんでだろう。でも、なつかしいんだ。僕、ずっとこれを見ていた気がする。」

そうしてシンジはそれを大事そうにゆっくりと舌に乗せて口に含んだ。

「…甘酸っぱい。」

「ねえ、甘酸っぱい味って何の味か知ってる?」

「え、わからない。何?」

「それはね……」

アスカは頬を丸めてコロコロと飴玉を転がしながら、シンジに向かって微笑みかけた。

「……初恋の味なのよ。」

初恋をした事がないシンジは、それでも何故かそんな気がして、その甘さや酸っぱさに想いを馳せる。そして舐め途中の飴をもう一度指先でつまんで空にかざした。

さっきよりも濡れて輝きを増したその赤は、より一層シンジの胸に何かを語りかけるのだった。

「なんでだろう。誰かに似てる気がする…」




それは、ふたりの少年が、知らず知らずに夢での邂逅を重ね、ついに魂の記憶を呼び覚まし、その共鳴のままに再会を果たす奇跡のときの、三年前の事だったのだ。



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