その頃白い月長石は
第十八話第三篇から第六篇の間のふたりの物語




『待つのが長すぎやしねえかい、旦那。』

僕はギクリとして顔を上げた。真っ暗な部屋の中、滲むような液晶の青み掛かった明かりに目を向けると、泥臭そうな渋い中堅役者が引き金に指を絡めていた。

僕とシンジ君はヨーロッパのくすんだ空の色合いをした映画を見ていたはずだけれど、気がついた頃にはふたりして何も見てはいなかった。

「また君に怒られてしまうのかな。」

そう言って僕は口元を綻ばせる。

『カヲル君と一緒に映画を観ると、何だか気持ち良くなって寝ちゃうんだ。僕は今までどんなつまらない映画でも最後まで観てたんだよ。だからカヲル君のせいなんだ。君のせいなんだから、僕が寝そうになったらちゃんと起こしてよ。』

ー君は僕と居ると気持ち良くなってしまうんだね。

和やかなエピソードに心が満たされていく。





けれど、





身体が全く満たされないんだ…



『待つのが長すぎやしねえかい、旦那。』

全くその通りです、マフィアさん。



僕はソファでぐっすり眠ってしまっているシンジ君を抱き上げて、ベッドの上に寝かせた。

「…ん…カヲルくん、もう、ねちゃった、の…?」

もごもごと不思議な問いを投げかける可愛らしい君の頭をあやすように撫でつけて、寝息が聞こえてから僕はまたソファに戻り、パソコンの電源を入れた。そしてまるでシンジ君に見えないように画面を隠しながら検索ワードを入力する。

催淫効果

そして、何だかとんでもなくなってきたので、ハーブ、と云う単語も付け足した。そこで目に留まった植物はーーイランイラン。

他国では新婚夫婦の初夜を彩る花らしい。その強く特徴的な香りが官能的な気分を高めると書いてある。どうやら良い香りがするので様々に商品化されているみたいだ。僕はいかにも疑われずにさりげなく使えそうなアロマキャンドルを買い物カゴに入れてみた。

「ふふ。届くのが楽しみだね、碇シンジ君。」


僕は我慢に我慢を重ねている。繊細なシンジ君に嫌われない為に一緒に住むようになってから、自慰もやめた。そうして僕はひたすら待つ。やっぱり恋人同士で慰め合いたい。出来ればその先へとすぐにでも、いきたい。

だから僕はありとあらゆる努力をしている。恋人にお許しを貰う為に。



その1、肉体的接触

「今日は疲れているね、シンジ君。」

「そうなんだ。トウジ達が野球やろうってうるさくて、昼休みも放課後もやったんだ。」

「じゃあマッサージしてあげるよ。ベッドに俯せになってごらん。」

「え、いいの?ありがとう、カヲル君。じゃ、お言葉に甘えて。」

シンジ君は無防備すぎる。薄めの部屋着のままで横になるから、綺麗なお尻の形が丸見えだ。僕の下心にまるで気がつかないのは、やはり僕を性的に意識していないのだろうか。そう思うとついいやらしく触りたくなる。僕は馬乗りになって、背骨に沿って指を下降させ、腰や腿を圧しながら揉んでいく。

「ん…あ、そこ…気持ち、いい…あ、そこもっと強くして…」

「…ここかい?」

「んん…カヲル君とっても上手だから、すごく気持ちいい…あ!そこ、もっと強く、押して…ああ…すごい、そこ、気持ち、いい…」

「…そこ、すごく、いい……」

「ち、ちょっと、ごめん…!」

「あれ?カヲル君?」

当初の計画から逆転。シンジ君を欲情させるつもりが僕が勃起してしまう始末。あまりにも君の声は扇情的だ。



その2、官能的食事

「あーん、して。」

「あーん…」

「ん、これ美味しい。カヲル君の買ってきてくれるケーキはどれもすごく美味しいね。」

「君を想いながら選んでいるからね。」

「ふふ。じゃあご褒美をあげる。あーんして。あーん…」

「あーん…」

僕はこの瞬間の為に毎回スイーツを買ってきている節もある。確かにシンジ君を喜ばせたい。けれど、おまけも魅力的なのだ。

甘いもの、とりわけ美味しいものを食すシンジ君は目をとろんとさせながら思考まで甘めになる。恥じらいが影を潜めてこんな大胆に僕を甘えさせてくれるのだ。食べさせ合いっこは、何処か愛の交歓に似て甘美だ。

「あ!鼻に付いちゃった。あはは。取ってあげる。」

そういうとシンジ君は椅子から立ち上がり身を乗り出して僕の鼻をぱくりと咥える。そうしてちゅっと吸って舐めとるように舌を這わせて顔を離せば、僕の目の前で白いクリームの油分でてらてらと輝く唇を美味しそうにペロリと赤い舌が舐めとるのだ。

「シンジ君…!」

僕の理性がプツリと切れて君にキスと熱い抱擁を贈る。

「んん…あ、まだケーキ半分残ってるよ…!」

「……………ごめん。」

僕の舌には甘さが足りなかったらしい。僕の甘い口づけは第二東京市の甘いケーキに負けてしまった。以後、激しく落ち込む。



その3、視覚的計略

「カヲル君!それ、いつ買ったの?」

「ああ、昨日出先でね。どうかな?」

「えっと、あの…すごく…かっこいい…」

僕はそのうっとりと瞳を潤ませて頬を紅潮させたシンジ君を見て、頭の中で勝利の祝砲を上げた。

僕は伊達にシンジ君を観察しているわけじゃない。君は僕のスーツ姿をぼうっと見ていた時があった。それに私服と云う変化球も好きなようだ。だから僕は、実際着る服なんてどうでもいいんだが、ジャケットに合う黒のリネンのシャツを買ってみたのだ。

「気に入ってくれたなら、よかった。僕はいつだって君のかっこいい彼氏でいたいからね。」

「カヲル君は、何を着てたってかっこいいよ。」

そして僕等は夕食を共にし、僕から先に入浴を済ます。

「お先したよ、シンジ君。」

そう言いながら僕が風呂上がりの半乾きの髪を掻き上げると、君は思わず喉を鳴らした。これは、いい流れだ。

「…僕も、お風呂入ってくるね…」

火照った顔を少し僕の正面から逸らしてそそくさと浴室へと向かう君。その後ろ姿を見やり、あまりの手応えに僕は思わず慌て出す。

ベッドサイドの棚を開ける。ローション、ティッシュ、タオル、何でも揃っている。ムード作りで間接照明の明かりをひとつ下げて、余計な本やマグカップを片す。準備万端。

「カヲル君…」

シンジ君は風呂上がりのほかほかの身体に少し大きめのパジャマを着ていた。今までは寝る時はずっとTシャツに薄いスウェットパンツだったので、とても新鮮だった。

それに僕好みで、物凄く、可愛らしい。

僕の期待は更に高まる。とても脱がしやすそうだ。

「あの、お願いがあるんだけど…」

これは…!と僕は直感する。

「な、何だい?」

「明日休みだから…ね、」

緊張で喉が渇く。どうにか生唾を飲み込んでみる。

「一緒に秋冬の部屋着を見に行きたいんだ。だんだん寒くなってきたし。」

「…え?そのお誘いは……え?」

「え?」

「……え?あ、デートだね!それはいい考えだ。」

「よかった。僕、もう少し厚手のパジャマが欲しいんだ。これやっぱりちょっと寒いや。」

「僕達、お揃いのパジャマでも、素敵だね。」

「ふふ。そうだね。だから…」

シンジ君は僕の横を通り過ぎて徐に布団に潜った。

「今日はもう寝よう。明日、楽しみだね。」

「……………そう、だね。」



待つのが待てずに始めた僕の画策は、これまで全て惨敗である。だから僕は映画なんて右から左に受け流して、つい考えてしまうのだ。画面を見やる横顔の君の、その神秘的な不可思議について。

僕は学校に通ってから気がついた。僕には憧れの的となる素質がある。僕が耳元でふうっと息を吹きかけて囁けば、自ら服をかなぐり捨てて身を捧げるだろう異性の眼差しを感じては、何度も知らぬふりをした。けれど、もしシンジ君にそんな事をしても、せいぜいこう言うくらいだろう。

『ふふ。何やってるのさ。くすぐったいよ。』

僕が服を脱ぎ捨てて身を捧げて欲しいのはシンジ君だけなのに。

僕はパソコンの電源を切ってから、君の眠るベッドへと歩いてゆく。そこで待っているのは服を身に纏い、夢を見ながら微笑んでいる君の寝姿。

ー君は本当に無防備だ。

僕はシンジ君の横に潜り込みながら、その寝姿を舐めるように眺めた。そしてほんの出来心で腰回りの曲線を撫で上げる。

「…ん、……」

僕は何だかちょっとイケナイ事をしているいやらしい気分になる。横向きになって寝ているシンジ君に恐る恐る全身をぴたりとくつけてみた。身体の甘い痺れが、気持ち良い。君の匂いが、堪らない。

『待つなんて止めちまいなよ、旦那。』

ーマフィアさん…シンジ君が待ってと言ったんだ。待つよ。

『お前さん、男だろ。始めが肝心だぜ。やっちまえよ。それで主導権はお前のもんだ。』

ー僕は紳士で居たいんだ。無理矢理なんてあり得ない。それに僕等は対等さ。

『これだから草食野郎は。俺は自由に引き金を引けるぜ。お前のガンはポンコツか?男のガンは。』

ー僕はそんな品性に欠ける事は言いたくないが、敢えて言うならマグナム級さ。元気過ぎて困っているからね。

『なら、乱射しちまえよ。使わねえマグナムなんてただの鉄くずさ。使ってこそ価値がある。錆びつく前に撃っちまえよ。』

ーいや…!そんなことをしてしまったら、シンジ君を傷つけてしまう。そんな事、僕には出来ない…

『的を外さなきゃ良いのさ。道具も使いようだよ。お前さんもわかってるんだろ?早く安全装置なんか外しちまえよ。」

ーあ、安全装置?いや…僕には、出来ない…たぶん…いや、出来ない、筈だ…


そうして僕は寝ているのか寝ていないのかわからない混沌とした夢を見て朝を迎えたのだった。



「カヲル君…寝てる…」

午後の休み時間が始まると、カヲル君はチャイムの音にも気づかずに眠っていた。天使みたいな寝顔にクラスの女子が色めき立つ。僕としてはそんな顔をみんなに見せてほしくはないけれど、あんまり気持ちよさそうだから起こすことも出来ない。

寝顔を観察していると、本当に神様に愛されてつくられたんだと思ってしまう端正な造形に思わず溜め息が漏れる。長くて繊細な睫毛に、すっと伸びた品の良い高い鼻、淡い桜色の唇は完璧なバランスだ。銀色の髪はまるで光を宿しているように煌めいている。

ー綺麗…

ーこんな綺麗な人が毎日僕に好きと言ってくれるなんて…

「シンジ君…」

「か、カヲル君!起きてたの?」

急にぱちりと紅い瞳が現れて、僕はドキリとした。その赤もやっぱり宝石みたいに綺麗だ。

「ちょっと前からね。君の香りで目が覚めたよ。」

「僕の香り…?」

「そう…」

そしてカヲル君が立ち上がり僕の耳元に唇を寄せる。

「君はミルクの様な甘い香りがするんだよ。」

その寝起きの柔らかく掠れた声と息を吹きかけるような優しい声が鼓膜を震わせて、僕の全身が粟立った。気づかれただろうか。


最近、僕の体はおかしい。この前はカヲル君にマッサージしてもらいながら体の芯が疼いてしまった。また、僕は柄にもなくカヲル君の鼻に付いたクリームを舐めとってみたり、カヲル君の新しい私服姿に体の中心線に沿って不思議な痺れが駆け抜けたりした。僕はなんだか落ち着かない。カヲル君と一緒に居ると、僕は無意識に熱い溜め息を吐いてしまうんだ。やっぱり、おかしい。しかも、止まらない。でも、対処法を、知っているんだ。甘い甘い熟れた果実のような対処法を。


その夜、僕は一大決心をして、ベッドに横たわる。今日は珍しくカヲル君から先に布団に入っていた。

あの耳元からの甘い痺れがその後ずっと僕の体中を駆け巡っていて、ついに僕は降参しようと思う。体の疼きを慰めてほしい。英断かはわからないけれど、もうとにかく、今は今を生きたい、それだけだ。

「…か、カヲル君。僕、あれからずっと考えたんだけどね、や、やっぱり僕も、前に進みたくて。僕はカヲル君のことが大好きで、君がこの先僕への気持ちがどう変わっても、それだけは確かなことだから、もう結局はそれが全てな気がしたんだ。うん。だから、その、ぼ、僕は、これから、君に何してもらっても構わないんだ。き、君の好きなようにしていいよ。い、ま、好きにしてほしい、かも。今、から、あの、だから、つまり…ぼ、僕を……僕を、抱いて、ください…」

一分後。

「……カヲル君?」

寝返りを打って、隣を見やる。カヲル君は寝ていた。まだ十時半なのに。正確には22時24分。普段の君ならまだ絶対に起きている時間。

「…もう寝ちゃったの?」

僕は緊張でガチガチで支離滅裂になった告白が徒労で終わったと知って、長い長い溜め息を吐き出した。そして何だかぐったり体が重くなってくる。

「おやすみ、カヲル君。大好きだよ。」

そう言って僕はカヲル君の綺麗なかたちの瞼にキスを落としてから、静かに眠った。



その頃渚カヲルは、思わぬところで湧き出たチャンスに気づくことなく、ぐっすり夢の中にいた。そうしてついにマフィアの助言に屈して紳士では全くない行いをした後にたっぷり夢精をして朝を迎えて、彼は心底罪悪感に頭を抱えることとなる。


後日。

仕事から帰ってきた彼は夢で犯した恋人にプレゼントを贈る。

「僕からの細やかな気持ちだよ。」

「わあ綺麗だね。これは何?」

「ムーンストーンさ。ムーンストーンは君の誕生石だよ。出先で偶然見つけたから買ってみたんだ。」

「ありがとう、カヲル君。大切にするね。」


ムーンストーン、別名、月長石。月長石の石言葉は、純真な愛。恋人達の石、愛を伝える石とも云われ、迷っている人の迷いを取り去り進むべき道へと導く力があるとされている。また、白い月長石の石言葉は、計画、だったりする。

渚カヲルは碇シンジを堕とす計画をまだまだ諦めてはいなかったのだ。シンジの手の中で白い石が時折所々に青や虹色の光を纏う。

「あ、そうだ。夕方にカヲル君当てに小包が届いてたよ。ほら、机の上に置いてあるよ。」

「え?……ああ、あれか。ありがとう。預かるよ。」

「珍しいね。買い物?」

「いや、まあ、ちょっとした、あの…まあ、そう、買い物だよ。」

「はは。何それ、変なカヲル君。いやらしいものでも買ったの?」

「ま、まさか!そんは筈ないだろう!いやらしいなんて、まさか、そんな!」

「冗談だよ、ごめん。そんなに否定しなくても、疑ってないよ。」

謝るのはまだ早い。あの小包の中に確かにいやらしいものは入っていない。しかし、いやらしくなる為のものが入っているのだ。そんな事とは露とも知らずに、シンジは大好きな恋人への冗談の詫びとして、頬に愛らしいキスを贈る。それを受けてまたカヲルは、紅い瞳の奥に欲情の火花を散らすのだった。



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